おじさんになる日④

「でも、あんたにしてはいい迷惑だろ」


 言わずにおれなかったのは、桁外れに行儀のいい発言だったからだろう。それが本心であるとは思えなかった。

 世話になっている立場の俺ですら、煩わしさを覚えているのだ。時雨にしてみれば、父ができるだけでも複雑だろうに、変な同級生が付属してくる。それはどう控えめに見積もって、家族なんだからと言って納得できるとは思えなかった。


「……正直に言うと、なんでこうなったんだろって思ってる」


 だろうな、と心からの相槌を打つ。

 時雨は手に持ったペットボトルを両手で擦っていた。綺麗に整えられた爪先が、時折ラベルを引っ掻いている。


「でも、それは貴大君がどうこうって話でもないでしょ」

「そうか?」

「お母さんと裕貴さんのことだもん」

「……まぁな」


 二人の恋愛事だ。

 時雨の恋愛遍歴なんて知らないし、恋愛観も知らない。そして、自分にもそんな価値観は育っていない。結婚についてなんて考えたこともなければ、兄ちゃんたちのことがなければまだまだ遠い、物語の出来事のような話だ。

 まぁ、もし仮に、俺が恋愛の場数を踏んでいたとしても、兄ちゃんと理彩さんのことは兄ちゃんと理彩さんのことでしかない。俺にはどうしようもなかったことだ。


「だからって、二人が幸せにならなきゃいいとは思ってない」

「ああ」


 それくらいは、見ていれば分かる。

 時雨は兄ちゃんの前で、無愛想な態度なんか取らない。いい子だ。自分がそうあれば、二人が幸せな生活を送れると分かっている人間の行動だろう。

 胸の内を押し殺してそれができるのだから、間違いなくいい子だ。心配になるくらいに。


「貴大君だって、ちゃんと生活できるにこしたことはないしね。……叔父さんだって思うと変だけど」

「ぐ……、叔父さんはやめてくれ」


 ここまで誰も言い出さなかった関係性を口にされて、がっくりときた。やっぱり、この歳で叔父さんと呼ばれるのはへこむ。大衆的なおじさんでないと分かっていても、イントネーションが劇的に変わるわけではないのだ。

 俺が苦虫を噛み潰したような顔になると、時雨は笑みを浮かべた。


「貴大叔父さん?」

「うっわ、やめろ!」


 冗談めかした声音に騒ぐと、時雨がクスクスと愉快そうに笑う。

 冗談の内容は勘弁して欲しいところではあるが、こうして和やかな会話ができたことには安堵した。

 そして、時雨がこんなにも俺にけろりと笑ってくれるのを初めて見た。兄ちゃん相手のものとも違う。理彩さん相手だと構えない顔つきが多いので、三日目にして初めて見る表情だった。

 可愛いじゃん。

 別に可愛くないと思っていたわけじゃない。時雨は同級生にしてみれば童顔かもしれないが、綺麗に整っている。髪も何もかもすべすべそうだ。女子だよなぁ、とその姿に思う。

 兄と二人暮らし。母さんと住んでいたのも十一年間。そのうちの一桁前半なんて、ほとんど記憶にないものだ。母さんを女性と思って生活もしていなかったが、とにかく同じ家に女性がいた感覚などとうに忘れている。

 こうしてソファに並んでいるのが、今更ながらに不思議な気がした。

 時雨は一通り笑うと、薄く微笑んでこちらを見る。


「せいぜい義理の兄妹だよね」

「同級生だけどな」

「誕生日は?」

「……三月」

「じゃあ、私がお姉さんだ……ていうか、今月じゃん。いつ?」

「十九だった」

「ふ~ん。おめでとう」

「どうも。そういうわけだからもう同い年な。お姉さんじゃなくて」

「そこ、そんなにこだわる? たった三ヶ月後にはお姉さんなんだけど」

「六月?」

「うん。半年違うんだから、お姉さんでよくない?」

「こだわってるのはあんたじゃん」


 笑ってやると、時雨も穏やかに笑った。

 くだらない話だ。

 だが、その中には時雨の何気ないパーソナルデータがある。そして、兄ちゃんたちがいない中で交流できていることに、ほっとしていた。

 同級生の姪。

 確かに気まずい。一緒に住むなんて考えているから、余計にだ。そんな存在との距離の詰め方なんて分からないと、俺は少しその関係に拘泥し過ぎていたかもしれない。

 同級生だ。

 同じ年代に生きている。カースト、なんて言い出すつもりはないけれど、俺と時雨は多分そう友達になれないようなカーストの距離感でもない。実際に教室で会って友達になっているかはさておき。

 そう思うと、ほんの少しだけ呼吸が楽になった。


「弟が欲しかったんだよね」

「弟ばっかりになるのは勘弁だ」

「まさか、姪になると思ってなかった」


 しみじみと零されて、空気がひび割れる。

 時雨がソファの背もたれに深く倒れ込んで、足をぱたぱたと動かした。両手に握ったままのペットボトルを、ぺこぺことへこませている。


「……俺もだよ」


 ずっと握りっぱなしだったペットボトルの蓋を回した。ぷしゅっと鳴る炭酸の音の間が抜けている。


「しょうがないよね」


 天井を見上げながら零された音が、静まり返ったリビングに波紋のように広がった。ゆっくりと心に迫って、さざ波を作る。


「……しょうがないな」

「うん」


 静かな相槌が、少しの間離れていた気まずさを引き寄せた。空気の色が錆び付いていくのが目に見えるようだ。

 兄ちゃんも理彩さんも恨んじゃない。幸せになって欲しい。その思いに、何ひとつ嘘はない。それはきっと、時雨だって同じだ。

 けれど、一方で、どうしたって、どうしてこんな目に遭ってしまったのだろうと思わずにはいられない。

 誰も何も悪くはなかった。だからこそ、やりきれない。しょうがない、という以外に表現の方法がなかった。

 それほどには、振り回されている気持ちがある。そりゃ、いつまでだって待って欲しいなんて我が儘でしかない。自分のせいで兄ちゃんが結婚を遠慮していたら、それはそれで後ろ暗くなったりするのだろう。

 けれど、後三年。せめて待てなかったのだろうか。そういう思いが心の底に蠢いていた。

 俺と時雨が同じ高校だと分かっていたのであれば、尚のことだ。俺たちは、学校でどう振る舞えばいいのか。

 親戚が同学年にいることくらいはあるだろう。だが、それが叔父と姪で一緒に住んでいるとなると、多少なりとも特殊環境だ。自意識過剰だとしても、どう見られるのか。そうした憂慮もある。精神的な問題事は次々に積み重なっていた。

 たった。たった後三年待ってくれれば、状況は一変していただろう。

 三年あれば、俺はその間にバイトで貯めたお金で、一人暮らしを始められていたはずだ。そうなれば、仮に姪ができたって、時々顔を合わせる同世代の親戚で済んだだろう。

 そうでなくたって、大学生であれば学校が違う可能性のほうが高い。仮に一緒だったとしても、教室があるわけじゃない。講義で一緒の席になるくらいならば、関係性が公になることもない気がした。

 高校であれば、クラスに関わらず顔見知りになるものだ。名前を知らなくたって顔見知りは多いし、話題性のある子は注目度が上がる。

 どこからか、俺と時雨の関係が漏れれば一瞬で広がるだろうし、注目もされるはずだ。そんなつもりがなくても、要らぬ噂が巡るのが学校という閉鎖空間だった。

 中学時代だって、散々噂になった。

 兄と二人暮らしで、親がいない。それは別に、俺にとって何の恥もなかったが、それであることないこと言われたのは事実だ。可哀想、などという戯れ言はどれほど聞いてきたか分からない。

 特に小学生のころ。事故で両親が亡くなったときには、耳が痛くなるほど聞いた。そりゃ、確かに可哀想だったかもしれない。当時は、まだ分かる。だが、年数が経てば経つだけ慣れるものであるし、思い出があるだけで可哀想なのとはまた違ったものだ。

 何より、俺には兄ちゃんがいて、ちょっとばかりは苦労しているのかもしれないけれど、それだってちょっとばかりと思う程度で済むものだった。俺ばっかり苦労して、なんて思ったことはない。

 ……いや、今は少し思っている。どうしてこんなことになったんだ、と。


「とにかく、しょうがないことだから」


 思考に嵌まっていたのは、多分俺だけじゃない。その思考の沼のようなところから抜け出そうとするかのような声音だった。

 その声音に引っ張られるように、背筋を伸ばす。こちらを一瞥した瞳は凪いでいた。

 その静けさに居心地の悪さを覚えるのは、意識しすぎなだけだろうか。興味を持たれている気がしない。

 決して、意識して欲しいわけでもないけれど。けれど、知り合いと呼ぶべき……交流を持った同級生に無関心を貫かれるというのは、気分のいいものではない。


「しょうがないから、しょうがないなりに、やろうってこと」


 背筋はピンと伸びていたが、顔は手元に落ちていた。時雨が行っているペットボトルの手慰みばかりを見ている俺も、同じように俯いている。


「……面倒だとは思ってるけど、ウザいとかキモいとか思ってるわけじゃないから。だから、それなりにってこと」

「……ああ」


 否定することはできなかった。

 根本的に仲を深めようだなんて、こっちだって義務感でしか思えない。悩むのは、結局そういうことだろう。

 だから、それなりという言葉に対抗心も湧かなかった。落とし所を得たことで、どこかほっとしてもいたかもしれない。一時的だったとしても、時雨がそれを求めるのならば、俺もそれに殉じればいい、と。

 そう思いはしたし、表立って反論するようなことは何もなかった。


「しょうがないもん」


 噛んで含めるように繰り返される。まさにその通りでどうしようもない。俺はそれを無言で肯定する。

 時雨はそれで終わりとばかりに、すくりとソファから立ち上がった。


「じゃ、そういうことで、よろしく」

「……ああ」


 俺の返事を聞く気があったのかは分からない。時雨は言い捨てるように告げた後には、もうこちらに背を向けていた。そのまま、さくさくとリビングを出て行く。がちゃんと扉の閉まった音が、相槌のようだった。

 時雨の態度は最悪ではない。いや、わざわざ声をかけてくれて、俺には非がないと告げてくれたのだから、それは十二分の歩み寄りだろう。時雨の気配にビビりながら逃げるようにリビングに出てきた俺の態度と比べるべくもない。

 だが、しょうがないからそれなりに、はとどのつまり、現状維持でしかないような気がした。

 適当にやりましょう。

 言われずに手探りでい続けるのも面倒ではあるが、改まって言うほどのことかとも思った。一時でも和やかな会話をしておいて。

 あれは枕だったのだろうな、と今になって分かる。当たり障りのない会話でやり過ごせると分かったから、それなりに、という案を切り出したのではないかとすら思った。

 明確に線を引かれたような気がして、釈然としない。

 ……でも、まぁ、いいのかとも思う。煩わしいことを考えなくて済むのは事実なのだ。時雨がそのつもりなら、俺だって自由にやらせてもらう。どっちにしたって、そうするしかないのだから、それでいいのだろう。

 お互い、姪を求めているわけでも、叔父を求めているわけでもない。

 一方的に落とし所を示されたことには不満もあったが、俺は時雨の提案を飲むことにした。

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