おじさんになる日③

 家族が同居を始めて、三日が経とうとしていた。

 レストランで顔合わせをした五日後。理彩さんと時雨も新居へと越してきた。土日を利用した引っ越しは、慌ただしく過ぎる。初日は特に、業者の人も交えて忙しく過ぎ去っていった。

 時雨とも、なんとなく学校行事でともに作業するくらいの距離感でやり過ごす。効率のほうがよっぽど大事で、家族だ叔父だ姪だなんてことを考える暇もなかった。

 二日目は、細々とした作業だ。俺はリビングダイニングの荷物を片すのを手伝って、時雨は自室を整えていた。

 食事は一緒にテーブルを囲んだけれど、そこは兄ちゃんと理彩さんがいる。そこまで問題もなかった。それに、仲睦まじい新婚夫婦の前で、不仲を演じるつもりは毛頭ない。

 時雨の件は、かなり問題しかない案件ではあるし、やっぱり世話にならずに済む方法をもっと考えればよかったかもしれないとも思う。どうしてもう少し早く、と大人たちに愚痴を零したくもあった。

 けれど、幸せな家庭を築いて欲しい気持ちに嘘はないのだ。

 あえて諍いたくないのは、時雨も同じなのだろう。作業中などに二人で事務的に会話するときよりも、食卓を囲むときは声のトーンが明るかった。

 いい子だ、と二人に聞いていた通りの娘さんであるようだ。だからって、すぐさま仲良くなれるわけではないけれど、なんとかやっていけるのではないか。そんなことを思った。

 しかし、それは生温い希望的観測でしかなかったのだ。

 三日目の今日。月曜日。兄ちゃんたちは仕事に行った。

 俺たちだって、本来なら学校に行く日だっただろう。そうなればそうなったで問題はあるかもしれない。だが、学校に行けていれば、四六時中相手のことばかりに気を取られる必要もなかっただろう。しかし、残念ながら春休みだ。

 俺と時雨は、三日目にして初めて、二人きりで新居に取り残された。

 今日までの二日間。不慣れさはあったかもしれないが、つつがなく過ごせていた。だが、兄ちゃんと理彩さんがいなくなって、それが仮初めであったと思い知らされる。

 時雨が今、家のどこにいるのか。何をしているのか。そうしたことに神経が向いて、何をするにも集中できない。一度は図書館から借りてきていた本を捲ろうとしたが、いつもなら没入できる世界にも、上手く入り込めなかった。

 自室の机に座っているにもかかわらず、気配を探ってしまう。扉できちんと区切られているのだから、顔を合わせるわけでもない。気にしなくてもいいはずだ。そう思いこそすれ、簡単に割り切ることはできなかった。

 部屋にいてもそのありさまであるから、落ち着かずに部屋を出る。緊張感を携えながらリビングに向かったが、時雨の姿はなかった。

 そっと息を吐く。

 そして、どうやらリビングにいるほうが、少しは気が楽だと気がついた。

 トイレやその他の用事で部屋を出るときに、時雨と鉢合わせてしまうかもしれないとびくびくする必要がないからかもしれない。

 俺はそのままリビングのソファに腰を下ろして、本を読みながら時間を潰すことにした。テレビはうるさいかもしれない。そう一瞬でもよぎるとつけられなかった。時雨がそういうことを気にする性質なのかも分からない。

 たった二日で得られる情報などたかがしれていて、俺は時雨について何も知らなかった。兄ちゃんたちからも、いい子だという情報しか与えられていなかったのだ。年齢すらたったの一週間前に知ったばかり。

 分かるのは、ナチュラルハイではなく、淡々と作業をこなす子であることと、肉料理が好きだということくらいだ。それも、引っ越し作業で感じたことと、食事中に理彩さんが言い出したことで、俺から積極的に絡みにいって得た情報ではない。

 このまま半端な態度でい続けるわけにはいかないのは分かっている。今は逐一、三日目だなんてカウントしているが、そんなものをしている暇がないほどの時間を過ごすことになるのだ。

 バイト代が貯まって余裕ができれば一人暮らしをする予定であるけれど、それがいつになるかは定かではない。許されるのかも不明だ。

 兄ちゃんは、せめて高校生の間はと考えている節がある。バイトに明け暮れる日々なんてものを送ることになれば、渋い顔をするかもしれない。

 そうなると、時雨と過ごす時間も長引いてしまうだろう。その間、いつもこんなふうにリビングで気を張っているなんて、とてもじゃないがやりたくはない。ストレスで胃が破れそうだ。

 何より、家庭にお邪魔している身分で、時雨を煩わしいと思いたくはない。

 煩わしい。面倒。そこに思考が辿り着いたところで、本を読む手が止まった。はぁと息を吐いて、ソファへと深く沈み込む。見上げた天井はクリーム色で、温かい家庭にぴったりのように思えた。

 それを壊すかもしれないのは、明らかに俺だ。再度深く息を吐き出して、今度は膝に肘を預けて床を見下ろす。ラグマットは淡いグリーンで、爽やかさを感じさせるというのに、気持ちは急降下していた。

 どうしたものか。

 何をそんなに混迷しているのかすら分からなくなってくる。

 距離の詰め方が分からない。ただの同級生と距離を詰めるのとは、まるでわけが違うのだ。今まで一度だって経験したことのない関係の結び方が、容易に見つかるわけもない。それは分かっているし、三日目なんてまだ始まったばかりだ。焦燥感を抱くには早すぎるのかもしれない。

 埒のないこと。しかし、実被害のあることが脳内を回り続ける。考えているだけではどうにもならないということも分かっているがゆえに、この時間すらも懊悩を助長するばかりだった。

 そうして思考の内側に潜り込んでいこうとしたところで、がちゃりとリビングの扉が開く。びくんと過剰反応した俺に、入ってきたばかりの時雨も瞠目して固まっていた。

 なんとも気まずい沈黙に満たされる。

 先に再起動したのは時雨で、そのままキッチンのほうへと移動していく。そうして冷蔵庫を開けると、引っ越し作業中に買ったままになっていた、サイダーのペットボトルを取り出した。そこで、時雨の動きが一旦止まる。

 なんだ? と思ったときには、こちらへ視線が流されて、俺はまたぞろビクついてしまった。


「……何か飲む?」

「ああ……、じゃあコーラを」

「うん」


 返事は小さかったが確かなもので、時雨はコーラを取り出すと冷蔵庫を閉めて、こちらへやってくる。

 ショートパンツにトレーナー。ポニーテールのラフな格好は、この二日間よりもずっとオフの気配を漂わせていた。これが時雨のデフォルトなのだろうか。太腿の眩しさに気がついて、視線を逃がした。


「はい」

「ありがとう」


 ペットボトルの受け渡しが終われば、時雨の用件は終わりなはずだ。それなのに、時雨は俺の斜め前辺りに立ったままでいる。じろじろと見るのもはばかられたが、無視することもできない。俺は恐る恐る時雨を見上げた。


「……何か?」

「弟なのよね?」

「はぁ……?」


 相槌と疑問の間のような返事になる。

 そんなことは顔合わせの日に伝えたし、それ以前に兄ちゃんも説明しているだろう。どういう確認なのか分からずに、眉間に皺を寄せてしまった。


「えっと、あの……お兄さん、じゃなくて、お、裕貴さん」


 呼び方を複数変えながら示されるのは、時雨にとっては義理の父。

 そうか、と今更ながらに思う。

 俺だって、他人である理彩さんと過ごすことになっているけれど、あくまでも親戚付き合いをすればいいだけだ。けれど、時雨は兄ちゃんをお父さんとして過ごすことになる。俺よりもずっと考えることがあるのかもしれないと、今になってようやく気がついた。

 そう思うと、兄ちゃんがいないときでも自宅で息をつけない環境に、同情してしまいそうになる。

 時雨はそろそろと様子を窺うように、L字のソファの短い部分のほうに腰を下ろした。

 俺と時雨の間にある絶妙な間合いが、今の俺たちの距離感だろう。ただし、そこには深い溝が横たわっているため、見かけよりもずっと遠くあるはずだが。


「私のこと、何か言ってた?」

「可愛くていい子だって」

「……そう」


 何の確認なのかは分からないが、他に答えようもない。推察するための情報源がなくて困ってしまった。そのうえ、伝えたにもかかわらず、時雨は素っ気なく頷いただけだった。

 分かんねぇなぁと思うが、ここで匙を投げたら、半永久的にこの家で過ごしづらいだけになる。それは勘弁だった。


「そっちは? 理彩さん、俺のこと何か言ってた?」

「大きい弟さんだって」

「大きいって……」


 俺に与えられていた話よりも、よっぽど大雑把だ。苦笑した俺に、時雨も同じような表情を作った。

 恐らく、時雨も思ったのだろう。

 どんな人なのかまったく分からない、と。


「さすが、裕貴さんの弟よねって言ってたの。後は、料理が得意だって聞いた」

「まぁ……兄ちゃんと二人だったからな」

「裕貴さんは? やらなかったの?」

「いや? 兄ちゃんは他の家事をやってたよ。それに、俺のほうが時間はあるし」

「えらいんだ」


 褒められると思わずに、ぱちくりと瞬く。時雨は目を伏せていて、表情が読みづらかった。


「私はね、お母さんがやらなくていいって言うの」

「理彩さんが?」

「うん。子どもは遊んでればいいのって」

「ああ。兄ちゃんも言ってた。……一緒に住むことになったのも、同じような理由だよ」


 その話題に触れるのに、恐怖がなかったわけじゃない。ただずっと避けてもいられないことだ。奥歯に物が挟まったかのような物言いにはなったが、俺はどうにか切り出すことができた。


「……一人暮らしは大変だもんね」

「悪いな」


 時雨は当て擦っているわけではないだろう。それは分かっていたが、それでもいたたまれない気持ちが減るわけでもない。気がついたら、ぽろりと謝罪が落ちていた。

 同時に視線も落ちていたようで、頭上に注がれる時雨の視線に気がつく。だが、一度でも逸らしてしまったら、元には戻せなかった。


「悪いことなんかないでしょ? 貴大君だって、裕貴さんの家族なんだから」


 結婚している。理彩さんも時雨も、伊波から加藤に苗字が変わった。高校入学という節目ということもあって、時雨も納得しているらしい。

 おかげで、俺たちは初対面から互いの名前を呼ぶしかなかった。同級生の女子に貴大君なんて呼ばれることはそうなくて、落ち着かない。それとも、落ち着かないのは話の内容が内容だからだろうか。

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