おじさんになる日②

 卒業後の少し早い春休みに入ってから、俺たち兄弟が一足先に新居に引っ越した。それから、理彩さんの荷造りが終わったころ。カジュアルレストランでのディナーが決まったのだ。

 当然、俺の話も通してあると言う。でも、兄ちゃんを通した情報なんて、こっちに流れてきた娘さんの不透明な情報とどっこいどっこいだろう。

 俺が言うのも何だか、たった二人の兄弟だったからか。兄ちゃんはちょっと、ブラコンだ。俺が料理を覚えて炊事当番を担い、洗濯掃除、と家事の幅を広げていくたびに、えらいすごいと褒め殺しにしてきた。

 料理のときは特にひどくて、「貴大の料理が食べられるなんて兄ちゃん生きてて良かった」とまでのたまったのだ。ただの味噌汁で、である。一生兄ちゃんに味噌汁作ってくれなどと言い出さなかっただけよかった。

 感激の振れ幅が大きいと、すぐに大袈裟なことを言う兄だ。そうして理彩さんを口説き落としたのだろうか、と埒のないところに思考を飛ばしていたのは、理彩さんたちの到着を待つ間の現実逃避だったかもしれない。

 そうしているうちにやってきた理彩さんの後ろに、女の子の影が見える。

 初めに思ったのは、頭の位置が高いということだった。いや、極端に高いわけじゃない。だが、理彩さんの娘さんだ。せいぜい十歳前後だろうと思っていた。その予想よりは、遥かに高い位置に頭部が見えていて動揺する。

 理彩さんの影から出てきて、正面の席に姿を見せた女の子……彼女に、俺は目に見えて狼狽えてしまった。

 店のシャンデリアに照らされる髪は自然なキャラメル色。それをうなじの辺りでお団子のようにひとつにまとめている。

 黒いフレーム眼鏡の奥の瞳も彩度の低いキャラメル色で、光の加減によっては琥珀のようでもあった。薄い桃色の唇は、グロスでも塗っているのか。つやつやと潤っている。

 黄土色のチェスターコートを脱いで露わになった白いワンピースは清楚系。その真ん中に、どんと存在する二つの大きな山は見て見ぬ振りをする。膝丈の上品なワンピースから伸びる黒タイツの脚はカモシカのように引き締まっていて、ヒールのあるパンプスが大人びていた。

 身長はヒールを抜けば百五十センチもないくらいだろうか。

 だが、十歳前後などでは絶対にない。世の中には、背の大きな小学生も、妙に色気のある小学生も、成長著しい小学生も、いくらだっているだろう。

 けれども、眼前の少女のルックス。そして、品良く席に着く仕草は、とても十歳前後には思えない。いくらなんでも、ここまで洗練された子はいないはずだ。

 そして、その感覚は間違っていなかったらしい。

 というより、これで早熟なんだな、で片付けてしまえるものは無関心に過ぎるだろう。


「娘の時雨です。十五歳。貴大君と同級生よ」


 理彩さんの紹介で、ずっと薄く伏せられていた瞳とようやく目が合った。その瞳に走る驚きを見るに、彼女……時雨も、俺の年齢を聞いていなかったのだろう。

 俺は兄に似て身長が高い。百八十センチに届こうという背丈で、今日はカジュアルレストランでも浮かないように、初対面の家族になる子に悪印象を与えないように、身嗜みを整えている。緩いジャケットを羽織った俺は、大学生くらいには見えたかもしれない。


「こいつが話してた弟の貴大だよ、時雨ちゃん」


 兄ちゃんが時雨と交流があるのは百も承知だった。けれど、そんなふうに呼びかけるのはどこか他人事だ。

 俺と時雨は顔を突き合わせて、困惑を共有する。

 せめて、同級生であることくらい知らせておいて欲しかった。それならば、ここまで気まずい思いはしなかっただろう。

 俺たちは同級生の異性となると、とんと意識してしまう年頃だ。あからさまに苦手だと思うほどではないけれど、どことなく落ち着かない。

 そんな存在と家族……親族としてひとつ屋根の下に住むのだ。気まずさは一層濃くなる。

 そんなこっちの心情を知ってか知らずか。兄ちゃんが肘で脇腹を突いてくる。その目線は時雨へ何度も移動し、俺から声をかけろとばかりの誘導だ。そんなことを言われても、という気持ちが大きいが、無視ってわけにもいかないのも分かる。

 だからと言って、スラスラと言葉は出てこない。俺はようよう参って


「よろしく」


 とぎこちなく頬を引きつらせた。笑ったつもりだったが、そんな上等なものではなかったようだ。時雨が眉尻を下げたので、間違いない。

 それから、時雨は不安とも怪訝とも困惑とも取れる情けない顔つきで


「よろしく」


 と、俺に負けず劣らずのぎこちなさを返してきた。

 兄ちゃんも理彩さんも苦笑いをしているのが分かるが、これ以上どうしようもない。

 初対面でべらべら喋れるほど、俺は社交的ではなかった。というよりも、これは社交性の問題ではない気がする。

 同級生の姪。同級生の叔父。お互いにそういった動乱が収まらずにいた、と言ったほうが正しいだろう。

 まさか、どうしたらいいんだ、という言葉が脳内で追いかけっこをしていた。どちらが頭でどちらか尻尾なのか。ぐるぐるぐるぐる回っている。そんな回転を止めてくれたのは、現状を打開するような事柄ではなかった。俺も時雨も、放心してしまったほどだ。

 兄ちゃんはなんてことのないように、笑いながら言った。

 それが俺たちにとって、この先面倒な話になるとも知らず。そして、それは決して揺るぎようのない真実として。


「住むのはもちろんだけど、二人とも同じ高校になるんだから、仲良くな」


 たった一言で、俺たちはこの生活の不安へ落とし込まれたのだ。

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