おじとめいの家庭事情③

 言葉が完全に干上がって、冷や汗が垂れた。動悸が激しくなって、身体の中心は馬鹿みたいに熱いくせに、手足が冷えていく。ぐっと拳を握りしめて踏ん張る。そうでもしていなければ、意識を失ってしまいそうだった。

 思えば、時雨はずっと理彩さんのことを慮っていた。それは、母娘二人だからだろうと思っていた。それが違う。気遣い屋の時雨が、それを気にしていないわけがない。

 ぞわぞわといくらだって鳥肌が立った。


「……反省してるんだろうな」

「すみません」


 頭を下げたのは、理彩さんに向かってだ。行き過ぎた邪推に、心を込めて謝罪する。


「いいよ、いいよ」


 理彩さんは軽く許してくれた。兄ちゃんは、呆れたような諦めたような吐息を零す。一瞬は、気を緩められた。けれど、すぐに気を取り直す。現状はよろしくない。


「時雨ちゃんの行き先に、心当たりはあるか?」


 緊迫した声で問われて、首を左右に振る。

 理彩さんが連絡を取ってみようとしたようだが、着信音はソファのそばに置かれたカバンの中から聞こえた。連絡手段がない。憔悴して……もしくはぶち切れて、出て行った。

 行方不明、という言葉が頭を過って、ぞっとする。


「警察……」

「待って。もう少し待とう? まだ夕飯の時間にもなってないから、普通に帰ってくるかもしれない。文化祭の準備とかでもっと遅くなって帰ってきたこともあるんだから、神経質になり過ぎないで」


 こうなると、兄ちゃんのほうがよっぽど過保護だ。娘なんていたことがないものだから、そうなっているのだろう。理彩さんの落ち着いた発言に、俺もほんの少し呼吸が上手くいくようになった。

 そうなったことで、多少動ける気力が戻ってくる。


「俺、探してくる」

「俺も行く」

「……いや、兄ちゃんは家にいて」

「理彩さんがいてくれるよ」

「理彩さんが不安でしょ」


 兄ちゃんは一瞬面食らった後に、微苦笑を浮かべた。


「分かった。気をつけろよ。見つからなかったらそれはそれでいいから、無茶をしないこと」

「分かってる」


 兄ちゃんはやっぱり俺のことにも過保護だ。苦笑を浮かべながらリビングを飛び出した。




 曇天は暗く濃くなっている。夜が近付いているからなのか。暗雲が立ちこめているのか。判断はできないまま、俺はあちこちを探し回った。

 時雨の行く場所に心当たりがない。

 俺と時雨はかなり仲を深めていた。自分たちでもある程度は達観していたし、周囲から誤解されるほどには下地があったはずだ。だが、それは所詮一緒にいる時間が長い、というだけの話だった。

 家の中での過ごし方は知っているが、時雨が外のどこを好んでいるのかなんてまったく知らない。時雨と外を出歩いたのは、雪菜たちと遊びに行ったあの日の帰りくらいのものだ。

 その一回を見事に目撃されているのだから、やりきれない。運がないのではなかろうか。

 公園の遊具の中まで確認をする。団地のそばにある小さな公園紛いの場所にも草を掻き分けて進んだ。いるはずもないと分かっていたが、見過ごしてしまうことが恐ろしい。

 そうこうしているうちに、小雨がぱらついてきた。時雨も雨が降り出せば、どこかに雨宿りするだろうか。そう考えると、いくらか次の候補が挙がってきた。

 コンビニ、神社、スーパー。意外に考えていなかった店舗や屋内を覗くように移動する。しかし、どこにもいない。他に……と考えて、橋の下を思いついた。雨のときにその選択は、と思いながらも、やはり見逃すことはできない。

 俺は河川敷への階段を下りて、そうして時雨を発見した。

 橋の下。柱にあたる壁に背中を預けて、そのまましゃがみ込んでしまっている。そんなところに、と言いたいが、そこはいくらか整っているところだった。小さく縮こまって膝の間に顔を押し付けている時雨が、こちらに気がつくことはない。

 近付いていくと、ようやく顔が持ち上がった。怯えたような顔色が俺を捉えて、ぎゅっと刺々しい顔つきに変わる。


「……時雨」

「来ないで」


 それなり、なんて言っていた。まぁ、そんなもんでいいだろうと思っていたのは本気だ。距離を取ったままの関係でよかった。

 その中ですら、一度だって時雨にそんな蔑ろな言い方をされたことはない。厳しいものだな、と苦味を嚥下する。こちらが傷ついている場合ではなかった。


「悪かったよ」


 橋の下に入らずに立ち止まったまま告げると、時雨は距離感を測るかのような目で俺を見る。真意はどこにあるのか。疑り深い眼差しだ。


「兄ちゃんから、理彩さんのこと聞いた」


 三角座りで足を抱えている時雨の腕に力が入る。防御するかのように見えるのは、俺の感覚でしかないのだろうか。


「そもそも八つ当たりして悪かった。そのうえで、余計なことを言って悪かった。ごめん」


 俺にはもう、そうするしかない。

 探しに行くと言い始めたのは、とにかく不安だったからだ。時雨にどうやって謝罪をしようかなどとはまったく考えていなかった。行き当たりばったりだ。

 思えば、俺たちの会議はいつだって杜撰だった。


「時雨、許してくれなくてもいいから、帰ろう」


 俺のことを嫌っていても構わない。つらいことはつらいけれど、今はまず時雨を確保することが最優先だ。兄ちゃんの心配が天元突破してしまうだろう。


「時雨」


 黙っている彼女に懸命に話しかける。俺は距離を測ったままだ。雨を凌ぐこともできずに、肩口が冷たくなっていく。

 そうして、しばらく。


「入れば」


 時雨は渋々といった体で重い口を開いた。譲歩を感じて、俺は時雨の元へと近付く。隣に腰を下ろすと、僅かに距離を取られた。許されたわけではないのだろう。

 苦笑を腹の底に押し込めて、じっと時間を待った。しとしとと降り注ぐ雨音だけが鳴り響いている。時雨は辛抱強く、その沈黙の中に身を置き続けた。時雨が許さないのに、俺が勝手に空気を壊すわけにもいかない。

 その間にも、雨脚はどんどん強くなっていく。早く帰ったほうがいいんじゃないか、という気持ちが強まった。夫婦のためでもあるが、単純に豪雨になっては帰れない。それに、ここは河川敷だ。一瞬で増水するってことはないだろうが、それなりに危ない。

 促すべきか。その対処を何度か試そうと息を吸いながらも、発声は上手くいかずに飲み込むばかりになった。

 繰り返すこと数回。チラチラと様子を窺っていた瞳が、時雨とぶつかった。


「……」


 口を開くには、絶好のチャンスだったはずだ。それでも、じっと見つめ合うだけになってしまう。それが十秒以上。


「可哀想って、いつも言われてきたの」


 ぼそぼそと喋る声音は、ひび割れてしまいそうで、胸が軋む。


「お母さん……理彩さんはね、私のために色々我慢してきたと思うし、それを馬鹿にされてるみたいで寂しい。悲しい。お母さんだもん。私は可哀想じゃないし、理彩さんだって可哀想じゃない……よね?」

「当たり前だろ」


 ぎゅっと身が固くなった。

 兄ちゃんは、可哀想じゃない。俺だって、そう反駁したことがあった。同時に、そんなことないよな、と何度も不安に思う。

 周囲にあれこれ言われて嫌なのには、そんなものに自分が逐一振り回されているからだ。揺らぐからだ。自分の弱さを思い知らされるからだった。


「お母さん、ビッチじゃない」


 ひくりと喉が引きつる。


「……言われたのか?」


 顎を突き出すのような相槌に、たまらなくなって肩を引き寄せる。時雨の瞳が真ん丸で転げ落ちそうになっていた。


「そんなのに耳を貸さなくていい」

「だって、いっぱい」


 俺と時雨の苦悩は、同じぐらいだと勝手に思っていた。そこに大した差はないと。けれど、母親をビッチと噂される胸の痛みは、尋常ではないはずだ。

 俺は親がいない、とは言われるが、兄ちゃんを貶められることは少なかった。頑張っているんだなと。それこそ、可哀想と言われるくらいのものだ。


「なんで、言わねぇんだよ。そんなもん……」


 気がつかないところで、時雨が大ダメージを受けていたことが悔しい。奥歯をすり潰す。


「だって……! 貴大君だって、大変じゃん」


 気遣い屋というのを甘く見ていたかもしれない。かっとなって、その肩を掴む手に力が入る。時雨がぴくりと震えて、慌てて力を緩めた。


「いいんだよ、それは気にしなくて。言えよ。作戦会議気分で、伝えてくれ」

「だって、鬱陶しいでしょ?」

「……は?」

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