おじとめいの家庭事情②

「時雨が鍵をなくしたのが発端だろ」

「っ」


 あからさまに息を呑んで、ぐっと唇を噛み締める。言い出せばやり込められると分かっていたから、言いたくなかった。それを踏み越えてきたのは時雨だ。覆水は盆には返らない。


「それを言ったら」


 捻り出したような声の間は長めだったが、それはあくまでも溜めであったようだ。


「貴大君がそれなりをやめようって言い出したんでしょ」

「そこまで遡るのかよ」

「だって、そうじゃん。じゃなきゃ、それなりでい続けたんだから」


 時雨は足元辺りを見ながら、太腿のスカートを握りしめて話す。一生懸命な姿は、場合が場合でなければ、微笑ましいくらいの感情でいられたのかもしれない。

 当然、それは今ではなかった。


「……お前が、区切ろうとして妙な雰囲気にしたんだろうが」

「はぁ? それは無関係じゃん」

「ああいうことを言われなきゃ、あれほど気まずい雰囲気にはなっていなかった」

「それは貴大君が勝手に気まずいって決めてただけでしょ」


 仮定もいいところの話に、時雨も遠慮をなくしたようだった。

 少しずつ、互いに積み重なったものが雪崩を起こしていく。積み上げられていたものは、途方もなく多角的な感情だ。曖昧模糊。複雑怪奇。適切な語を探すことも難しいほどに、さまざまな感情が積み重なっていた。

 そして、それは決して明るい感情ではない。悪い展開になるのは必然だった。


「そっちだって、変な態度だっただろ」

「そのときは私のことなんて知らなかったくせに、態度の真意なんて本当に想像できたの?」

「接し方くらい感じ取れるだろ」


 ぎすぎすと空気の軋む音が聞こえてきそうだ。

 あのころ感じていた気まずさなんてものは、所詮は他人と一緒にいる空間に関するものでしかなかった。今の空気こそが、まさしく対人として気まずいと呼べるだろう。


「貴大君のそれがあてになるなんて信じられない」

「馬鹿にしてんのかよ」

「だって、優柔不断じゃん」

「は?」

「雪ちゃんのこと適当にしてるくせに。態度が分かってるのに、誤魔化すじゃん。本当に感じ取れてるの?」

「それとこれは別だろ」


 感情が崩れているのだから、文脈などない。思っていることをそのまま口にする雑さが、苛立ちを増殖させた。


「別にしようとしてるんでしょ」

「俺たちの噂とは別だろうが」

「噂のほうはどうしようもないじゃん」

「だったら、ぐちぐち言うなよ」

「言い出したのは貴大君じゃん」


 文脈どころか、具体的な内容すらも判然としていなかった。理路がない。


「絡んできたのは時雨だろ」

「そもそも、なんてことを言って嫌な感じにしたじゃん」

「時雨が陰鬱としてたんだろ」

「それは貴大君だって一緒でしょ。人にだけ苛立つななんて筋が通らないよ」

「しょうがないだろ! そもそも、お前が姪にならなきゃ……!」

「お母さんたちのことを言うのは最低でしょ!? だいたいそんなことなら、裕貴さんがプロポーズしたんじゃん」

「俺に言うなよ! 知らねぇよ」

「そうだよ! 私たちは知らないことだから、言ったってどうしようもないのに、何でそういうこと言っちゃうの!」

「そっちが食い下がってくるからだろうが」


 すべてを言うつもりはなかった。だいたい、の後を俺は濁すつもりだったのだ。それを壊したのは時雨だろう。


「私のせいにしないで!」


 カチンときてしまうのは、じゃあこちらのせいなのか、と言う穿ちが無意識に湧き出てしまったからだ。感情が負に振れきっている。


「姪がお前じゃなきゃ、こんなことにはなってなかったんだよ! なんで同級生なんだよ。理彩さん、そんな歳じゃないだろ? ギャルかなんかだったのか? 若くして産みすぎだろ……ッて」


 言い切る前に、時雨の平手打ちが炸裂した。L字ソファのそれぞれに座っていたというのに、移動距離を感じさせない素早さに唖然とする。


「お母さんは関係ない!!!」


 理由も何もない端的な叫びで、鼓膜が揺さぶられて耳鳴りがした。

 言い過ぎたことは分かっていたが、それでも苛立ちは止まらない。

 いくらなんでも引っ叩くことはないだろう。噂をしている連中はもっと直接的に理彩さんを貶めるような言い方をしているやつらだっている。同じように振り回されている俺が、なんでこんな目に遭う。

 ぎりっと奥歯を噛み締めたのは、そんな理不尽な怒りを抑え込むためだったか。それとも、追撃するためだったか。どちらにしても、続きはなかった。

 時雨はふぅふぅと肩で息をして仁王立ちをしていたかと思うと、とんでもない勢いと足音で去ろうとする。


「おい」


 ほとんど反射。何かを言おうなんて考えていたわけじゃない。

 だが、そうして伸ばそうとした手は叩き落とされた。じんと痺れるほどの腕力に怯む。こちらを睨んできた時雨は泣いていた。そこまできて、ようやく冷水をかけられた。

 その隙を突いたみたいに、時雨はリビングを出て行く。どたんばたんと続く派手な物音から、家を出て行ったのが分かった。

 すとんとソファに腰を落とす。髪の毛を掻き毟った。誰かに指摘されなくたって、分かっている。

 最低だ。

 ぎりぎりと奥歯を噛み締めて、縮こまった。




「貴大君?」


 どれくらいそうしていたのだろうか。リビングに差し込んでいた光はすっかり消えていた。もう夜か、と窓の外を眺めると、曇天が広がっている。まだ、そこまでの時間ではないのかもしれない。

 声をかけてきたのは理彩さんで、俺はのろのろとそちらを向いた。


「どうしたの? 体調悪い?」

「いえ……」

「時雨は? まだ帰って来てないの?」


 瞬間、鉛を飲み込んだように胃が重くなる。理彩さんは、ほんの少し顔を顰めた。


「何かあった? あの子、何かしたの?」

「いや! 時雨は何もしてません」


 鍵をなくさなければ良かったのに。そんなものは八つ当たりだったのだと思い知る。咄嗟に庇っているのだから、世話はなかった。


「それじゃあ、どうしたの? 本当に顔色、悪いよ」


 そこまで如実に顔に出ているのかと、思わず口元を覆う。心配そうに眉を下げる理彩さんへ、罪悪感が沸いた。胃が締め付けられる。


「まぁ、ちょっと……」


 どうしたって濁してしまうのは、理彩さんの男女関係に露悪的な言いざまをしたからだ。圧倒的に、分が悪い。

 理彩さんは、それ以上どう突っ込むべきか。考えあぐねているようだった。

 その逡巡の間にリビングの扉が開いて、びくりと身体を揺らす。時雨の帰宅だろうかと固唾を飲んだところに、入ってきたのは兄ちゃんだった。


「……なんだ?」


 理彩さんまで勢いよくそちらを見たからだろう。兄ちゃんは不思議そうに首を傾げた。そして、俺の顔色に気付いたようだ。


「どうした?」


 何らかがあったのだろう。それを察してか。兄ちゃんの表情は急に引き締まった。

 もしかすると、噂に振り回されている間の微妙な変化にも気がついていたのかもしれない。


「貴大?」


 突き刺すような音は、真剣だ。兄ちゃんにこの声を出されると、ピッと背筋が伸びる。条件反射のようなものだった。逃げられない。

 俺は緩く目を逸らして、それでもどうにか取り巻く状況を説明した。もちろん、謝罪を含むことを忘れない。

 しかし、兄ちゃんの顔つきは瞬く間に鬼のようになった。


「貴大」

「……はい」


 保護者替わりだ。厳かな態度には、ただただ打ちのめされるしかない。項垂れる俺を見ても、兄ちゃんは少しも引くつもりはないようだった。射抜くような瞳に貫かれる。


「時雨ちゃんは理彩さんの実の子じゃない」


 ぱくりと口を開閉させる。理彩さんを見ると、困ったように眉を下げながらこくりと頷いた。


「……元々、母子家庭の子だったの。そのおばさんが病気で亡くなった。親族の誰も引き取り手にならないような事態になりそうだから、私が引き取ったんだよ。ムカついて、啖呵切ったの。私が育てますって」


 憧れのお姉さんのように穏やかなところがある。その人が啖呵と言って笑うのは、少し印象が違った。けれど、それくらい肝が据わっていなければ、義理の娘を一人で育てようとはしないだろう。


「時雨は……」

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