第六章

おじとめいの家庭事情①

 雪菜の傷心は、友情へのものか。恋愛へのものか。それは曖昧なまま流れてしまっていた。

 気になっていないわけではない。だが、心地良い関係をこちらから壊しにかけるには勇気が必要で、かつ余裕が必要だった。

 そして、その余裕は微塵もない。

 それというのも、噂がまるで失速しないからだった。高校生活も落ち着いたころ。新生活の刺激が薄れてきた頃合いが、とてもよろしくなかったらしい。他に話題になることもなく、俺と時雨の話題が引きずっている。

 何より、叔父と姪が発覚してからは、懸念していた邪推が度を増した。雪菜以外にも、俺と中学が同じだった生徒が何人かいる。その人たちからもたらされた、俺の家族は兄が一人だけ。これが悪い方向に作用した。

 兄夫婦の子どもが姪だ。兄とどれほどの年齢差があれば、同級生の姪ができるのか。とすると、子連れとの再婚だったのではないのか。そうなると、兄ちゃんはかなり年上の人と結婚しているのでは、と邪推はころころと転がっていく。

 そして、この兄の話を含めて、叔父と姪について聞き及ばず、半端に親族だと聞いた面々の推測もまた厄介なことになっていた。

 もっとも簡単に思いつくものが兄妹だったのだろう。一瞬、双子説が持ち上がったが、俺と時雨に似ているところはひとつもない。義理だというのは一目瞭然で、再婚だと思われるのはまだよかった。

 しかし、こういうときに限って、人はゲスな方向へも網羅的になるらしい。

 腹違いの兄妹という話が不倫という話とともに出たのは、間もなくだった。どうしてそんなにも発想力が豊かなのか。文句をつけたかったが、つけたところで事態は何ひとつ改善しそうになかった。

 俺と時雨を取り巻く噂は、悪化の一途だ。以前までは、食堂で顔を合わせれば一緒になっていた。今は雪菜と透流がいても、とても看過できない状態になったために、停止している。

 したがって、雪菜との関係も据え置きだ。ありがたいことではあるが、だからと言って少しも気楽ではない。

 近頃は苛立ちが倍増していた。家に帰ったところで、同じようにダメージを食らっている時雨と顔を合わせる。

 仲間がいればどうにかなるというには、根も葉もない噂に過ぎて、限度があった。どこまでも逃れられない気持ちになる。苛立ちは限界ギリギリだ。

 振り回されたっていいことはないし、気にしなければいい。そんなことは分かっている。だが、それは収まりが見えて初めて落ち着くものだ。現行のタイミングで言われても、抑止力は働かない。

 イライラしているのは、俺も時雨も同じだ。家庭内の雰囲気はどうにか保っているが、それもストレスになっているのが分かる。

 お互いに夫婦に負担をかけたくはない。それは同意見だったが、業腹な状態を取り繕うというのはなかなかにストレスフルだ。そんな均衡が長く持つわけもない。

 同じように耐え忍んで、同じように苛立っていたものが二人。最悪のタイミングでバッティングしてしまうのは、相性がいいというのだろうか。




 その日もまだ、噂は根強く残っていた。最初は互いのクラスメイト限定だったものが、巡り巡って一年の間に広がったものだから、このありさまなのだろう。順番に広がったおかげで、六組辺りは今が佳境らしい。

 要らぬ順番制だった。こんなにも鬱陶しくまとわりつかれるのならば、一気に広まってくれたほうがまだマシだったのではないかと愚考してしまう。

 そうしてイライラしながら思考に嵌まり込むのが最悪だというのは分かっていた。だが、ストッパーはとうに壊れている。

 そして、それは要らぬ思考を呼び起こすものだ。

 埒もない考えは、どうしてこうなったのかと原因究明に向かう。それは決して起こしてはならない思考をも生ませた。

 兄ちゃんが、時雨が、理彩さんが。

 それこそ、どうにもならないところへ辿り着く。なんで今なんだとか。時雨が同じ学校でなければだとか。

 ……もうひとつは、本当に邪悪で、自分でも考えた瞬間、ぞっとしてしまった。

 しかし、それほどのものであるがゆえに、それは離れていかずに脳内の隅にこびりつく。それが暴発するのは、時間の問題だったのだ。


「ただいま」

「おかえり」


 時雨が先に帰宅して、俺が後を追うのは変わっていない。むしろ、入念になった。時雨は必ず帰宅時間を俺に連絡してくるし、俺はそれを学校の図書室で受け取ってから帰る。こうして細心の注意を払うのも、嫌がらせのようにじわじわと体力を削った。

 だからこそ、兄ちゃんたちに対する、どうしてという気持ちも膨れ上がったりするのだろう。詮無きことだ。しょうがない。そう何度も諌めたものだった。

 リビングに荷物を置いて、ソファに腰をかける。深く沈み込むと、無意識にため息が零れ落ちた。もはやルーティンのひとつになってしまっている。それを横目に見た時雨が、同じようにはぁと吐息を零した。


「……どうした?」

「どうもしない」


 不貞腐れたような態度だ。

 他意はないのだろう。この生活に嫌気が差しているのは俺も同じで、これくらいの態度いくらだってあった。

 だが、今は異常なまでに、イラッとした。

 同じだからこそ、まるで自分だけがつらいかのような態度を取られると釈然としない。ため息だけならば、そこまで神経質にならなかっただろうが、その後の態度はもう我慢ならなかった。


「だったら、そんなにしょげてんなよ」

「それは貴大君だって一緒でしょ? 疲れたって顔」

「仕方ねぇだろ」

「私だって、そうだよ」


 こういう場合、口さがない評判を受けるのは、男女どちらなのだろう。

 可哀想だよ、家庭事情を暴いちゃ。なんて毒にも薬にもならない仲裁を聞くにつけ、その辺は女子のほうが面倒そうではある。正義感を振りかざすやつってのはいるのだ。それこそが地雷を踏み付けているとも知らず。

 重苦しい空気が張り詰めていた。この生活が始まったころの気まずい空気とも違う。

 何かひとつ間違えれば、部屋ごと爆破されてしまうかのように緊迫したものだ。そして、それはどちらか一方が持ち得ているものではなかった。お互いにその状況下であるのだから、起爆の可能性は単純に二倍だ。


「雪菜がいるだろ」

「そっちだって、透流君がいるでしょ」


 真実を知っている友人たち。それは心強い。ありがたい存在だ。

 だが、たからといって、噂がどうにかなってくれるわけでもない。二人も訂正してくれているのは知っている。だが、そんなもので早急に打ち消されるのならば、これほどまでに摩耗してはしない。

 むしろ、二人に迷惑をかけているのでは、という思いを抱えていなければならないの苦しかった。それを煩わしいと思ってしまう醜さが目に余る。


「頼れないだろ」


 時雨も同じ感情を抱えているのかどうかは定かではないが、迷惑をかけている自覚はあるらしい。苦笑で答えた。そもそも、二人には最初に誤解を与えている。そうした傷心を思うと、いたたまれなさは桁違いだった。


「雪ちゃんとはどうなってるの?」

「誤解は解けたって言ったじゃん」

「それは分かってるけど、雪ちゃんの気持ちは?」


 棚上げにしている繊細な部分にぞんざいに触れられる。

 時雨にしてみれば、自分の関わったことの決着が知りたかっただけだろう。ぞんざいなつもりはなかったのかもしれない。

 けれど、こちらはストレス過敏状態だ。些細なことで心がささくれだつ。いや、既にささくれだっている部分を無遠慮に引っかかれたような痛みと煩わしさがあった。

 一歩間違えばそれは傷になる。それくらい、想像力を働かせてくれないものか。


「……それどころじゃないだろ」

「でも、」

「だいたい」


 言い被さるように出た言葉は、言ってはならぬものだっただろう。考えたくもないものだ。けれど、突っ込まれたくはない防衛本能が音になってしまった。

 どうにか停止したが、それが一体何になるのか。不穏であることは明白で、時雨もぐっと眉根を寄せて俺を見た。続きを促しているのが分かる。言いたくないのが本音だ。それは無用な争いを生む。

 まだ、最後の一端くらいの理性が働いていた。

 しかし、


「何?」


 と聞く声のぶっきらぼうで険のある言いざまが、最後の一端を吹き飛ばす。まるでエンターキーを押されたコンピュータのように、自動的に次の言葉が出ていた。

 それは重大なエラーにも等しいものだ。

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