第五章

おじとめいの外聞①

 リビングはお通夜だった。

 いや、お通夜が思い出話などが持ち上がり、弔いの気持ちで密やかな夜を迎えるのだと思えば、どうにもならない陰鬱な雰囲気はそれ以上であるような気がする。


「……どう誤解したと思う?」


 ソファに体育座りして呟く声は、聞き取りづらかった。だが、ここで聞き間違えるほど、内容の予測がつかないわけではない。


「……家族って感じじゃないよな」


 雪菜の傷ついた瞳が、瞼に焼き付いていた。

 あれを思い返せば、別の感情が起因であることは明瞭だった。その内容は、あまりにも自惚れであるようだけれど。

 だが、それが友情であるにしろ、それ以上にしろ、雪菜が俺と時雨の仲に傷ついたというのは紛れもない事実だ。どんなに自惚れているようであれど、いくら何でも見間違えたりはしない。

 時雨がじっと縮こまった。


「雪ちゃん、どうしよう」


 砕けそうな声に、喉の奥が引き絞られる。雪菜のことも心配だが、時雨の現状も無視はできない。


「どうしよう」

「……俺に聞かれたって、どうしようもねぇだろ」


 どうしようと迷っているのは、こちらも同じだ。聞かれたって困る。人任せにしないで欲しいと、気持ちがささくれだった。元はと言えば、時雨が鍵をなくしたのが原因だ。

 ……嘘をつくことにしたのは、共犯だが。


「話、聞いてくれるかな?」


 体育座りで組んでいる手が、拳を握る。どうにも落ち込んでいるくせに、向き合うのをやめない子だ。


「打ち明けるつもりか」

「だって、私たちそんなんじゃないじゃん」


 そうだ。俺たちは、周囲が想像するようなものじゃない。叔父と姪だ。そんなことになってたまるか。外聞的にも、ましてや法的にも、許されるものではないのだから。


「いいのか?」

「雪ちゃんを傷つけたままにしておきたくはないもん。貴大君だって、不本意でしょ?」

「……そうだな」


 即答できなかったのは、だからと言って雪菜の気持ちに応える気があるのかという自問自答がよぎったからだ。

 自分の自尊心の高さには恐れ入る。けれど、あの雪菜を見て何も感じないほど、鈍感なつもりはない。ぐっと唇を噛み締めた。


「やっぱり、好きなんじゃん」

「なんでそうなったんだよ」

「だって、困るでしょ?」

「不本意なのは、お前と恋人ってところだよ」

「……雪ちゃんのこと、本当になんとも思ってないの? あんな顔見ても?」


 自覚がなかっただけで、想いが育まれていたわけではないのか。時雨が念を押すようにぼそぼそと紡ぐ。頑なに顔を上げないのは、気持ちが沈んでいるからだろうか。


「……大事な友達だけど」

「そっか」


 今度は、ちょっとした雑談としての言い方ではなかった。しみじみと、納得するかのように噛み締める。そんな言い方だった。

 煩わされないことに安堵している一方で、心はそわそわと落ち着かずにいる。その原因はどこにあるのか。

 ……雪菜をどう扱えばいいのか分からないからか。

 それとも、時雨とどう付き合えばいいか迷っているからか。

 現場にいた透流が何を思ったのかと考えているからか。

 思い当たる節は山のようにあって、どうにもならない。

 透流は、あの後すぐに雪菜の後を追った。こちらを非難するような顔ではなかったが、本心は分からない。

 少なくとも、あの時点で雪菜を追うことを優先した。それがこちらは二人だとか、雪菜が危ういだとか。そうした冷静な判断力なのか、反射なのかは分からない。透流だって、知らされていなかった側だ。雪菜と同じように、負の感情を抱いている可能性だってある。

 どうしたらいいのだろうか。

 どちらにしても、悩んでいる内容は同じだ。状況をどうするのか。その一言に集約されていた。


「……貴大君」


 ぽつねんと呟かれて、項垂れていた顔を上げる。

 時雨は身を竦めて、こちらを見つめていた。瞳は影って、情けのない顔をしている。


「ごめんなさい」


 ぐにゃりと表情が歪んだ。瞬間、心臓を握り潰される。


「時雨、お前のせいじゃない」


 気がつけば、口が動いていた。

 誰かのせい、といえば嘘をついた俺たちが悪いのだろう。けれど、このどうしようもない現状に陥っているのは、誰かがどうだったという単一な理由ではない。

 そもそもを辿ってしまうのは、かなり危険だ。俺たちがそれをやってしまうと、兄ちゃんたちの結婚についてにまで波及してしまう。

 それは、本当に願っていない。そんな真似はしたくはない。その思考がもたげる時点で、既にアウトな気がして、心が軋む。

 否定したにもかかわらず、時雨は泣きそうな顔で首を左右に振った。そのまま膝に顔を埋めてしまう。ひ、と小さく呻く声が聞こえて、思わず身が動いていた。


「時雨」


 床に跪いて、時雨の肩を掴む。


「雪菜のことは、俺がちゃんと話すから」

「貴大君のせいじゃないじゃん」


 小声で答える音が濡れていた。

 泣いている、と察すると、こちらまで泣きたくなる。どうして、時雨がここまでへこまなければならないのだろうとすら思った。

 そりゃ、非はある。でも、だからって、聞く耳を持ってもらえなければ、こっちだってどうしようもなかったことは事実だ。そして、雪菜は何かを言い置いていったわけでもない。ただ、無視していっただけだ。

 その理由は分かる。雪菜にだって言い分はあるだろう。時雨よりも、ずっと傷ついているのかもしれない。

 けれど、今俺の目に映り、悄然としているのは時雨だ。見えない相手よりも、目の前にいる存在の状態のほうが、切実に感じる。

 それはどちらかを贔屓しているのではなくて、人の視野が狭いということだ。

 今日も地球上で誰かが死んでいるなんて言われたって、明日に迫った試験のほうが大事なように。想像しうる悲劇があるとしたって、眼前が優先されてしまう。

 人は万能じゃないのだから、仕方がない。……仕方がない、はずだ。

 俺が時雨を心配するのは、間違っていない。

 だって、彼女は、俺の姪だ。


「雪菜が怒ってたのは俺だろ?」


 鍵を渡した手つきは乱暴だった。だが、その瞳が捉えていたのは、時雨じゃなくて俺だ。不満を溜めこんで、怒りと虚しさを混ぜ合わせた。複雑な色味を湛えて。俺を見ていた。


「……でも、私だって無関係じゃない」

「いいよ。俺に任せればいい」


 のろのろと時雨の顔が持ち上がって、俺を見る。緩く見開いた瞳が、潤んで濡れていた。瞬くと、雫が瞳から零れ落ちる。光に反射されてキラキラきらめくそれは場違いなほどに美しくて、目を眇めた。


「なんで?」

「叔父さんだからな」


 苦笑で告げると、時雨がじわじわと泣き笑いになる。どんな形であれ、笑顔が見られたことに、胸の靄が薄れた。それは僅かなものではあったかもしれないが、確かな安堵だった。

 そして、それは気が緩んだことによる油断でもあったのかもしれない。時雨はこれで大丈夫だろう、と断じてしまった。

 その隙を狙ったかのように、膝を抱えていた時雨の腕がこちらに伸びてくる。動作の意味を確認するまでもなく、その腕が首に巻き付いてきた。


「おい」


 俺の驚愕をよそに、時雨が抱きついてくる。ソファから滑り下りてきたので、抱き合ったままラグマットの上に二人で座り込んだ。時雨が胸元に縋りついてくる。


「しぐれ」

「今だけ」


 そんなふうに言われてしまったら、撥ね除けることもできない。

 ……しようと思えば、できただろう。けれど、傷ついている時雨にそんなことはできなかった。

 俺は黙って、時雨の自由にさせる。触れてくる体温が馴染んでいくようだった。所在ない手のひらを、そっと背に添わせる。

 時雨は小さく震えて、ぎゅっとくっついてきた。身体の間で、胸が潰れているのが分かる。どぎまぎしているのは、きっとそうした物理的な問題であると、心に言い聞かせた。

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