おじとめいの距離②

 時雨が更衣室から出てくるのが遅いのは、髪の問題のようだ。雪菜が先に出てきたころには、透流はトイレに行っていた。雪菜と二人で待ちぼうけする。


「ねぇ」


 無言でも構わない。そういう温和な時間が、雪菜との間には流れている。そこに声をかけられて、そちらを見た。


「どうした?」

「時雨ちゃんのこと、好きなの?」


 ド直球に投げられて、思考が止まった。そんな俺を、雪菜は一直線に見つめてくる。野次馬根性ではないようで、静かに待っていた。真面目な問いかけであるらしい。

 からかわれるのも困るが、それほど真正面から突っ込まれるのも困る。それなりに間が空いたが、雪菜は急かしもしない。


「……そういうんじゃねぇよ」


 どうにか絞り出したのは、誤魔化そうだとか、本心を突かれたとか。そういうわけではない。動揺が押し込められなかっただけだ。


「あんなに見惚れてたのに?」

「それはもういいだろ」


 そこを突かれると、勝ち目がない。ぐっと喉を鳴らすが、雪菜はそれにも動じなかった。抑制の利いた態度で、会話を続けていく。


「イチャイチャしてたし、私は褒められないし?」

「……気にしてたのか」


 ふんと視線を逸らされた。

 雪菜とは付き合いも長い。ああいうとき、感想を言わないことに頬を膨らませるほどには可愛らしい一面がある。今日は透流にその役割を任せきっていたが、やはり不満はあったようだ。


「似合ってたよ」

「……時雨ちゃんへの反応見ちゃうと上っ面だなぁ」


 別に怒っているだとか、不貞腐れているだとかいうこともない。単純な感想なようだ。それにしたって、微苦笑にはならざるを得ない。


「水着なんて珍しいからな」

「私だってそんなに見せてるつもりないけど」

「一昨年もプールに行っただろ」


 雪菜との付き合いは長いのだ。水着も見たこともあるし、部屋着は無論、パジャマ姿を見たこともある。風邪のお見舞いへ行った際のことで、何も特殊な事情があったわけではないが、思えば近しい関係だ。

 時雨のパジャマ姿も見たことがあるが、ひとつ屋根の下に住んでいる以上、当然の流れでしかない。


「時雨ちゃんほどインパクトがないってことか~」

「つっかかるなよ」

「だって、気になるんだもん。珍しくない? 貴ちゃんがあんなに一足で仲を深めるなんてさ」


 そうだろうか、と思考を巡らす。

 友人関係で積極的になった記憶は確かにない。そもそも、家庭の事情にうがった見方をするやつとは交友を深めたくはなかった。それを避けようと思えば、どこか及び腰になってしまう。

 なので、雪菜が珍しいというのも頷けた。

 時雨とは家庭事情に対するあれこれを考える必要がない。仲を深めるのが早いのは、そういった事情にこだわらなくて済むからだろう。むしろ、互いに内心を悟っている相手になっている。深い仲、という評価を一概には無視できなかった。


「雪菜の友達なんだろ」

「それ関係ある?」

「雪菜が心を許してるって実績があるんだから、人柄は保証されているようなもんだろ」

「私のせいなの?」

「おかげだよ」


 我ながら、よくもまぁこうまで口が回ったものだと苦笑いが零れる。

 嘘をつくことに多少なりとも、抵抗はあった。だが、時雨の言葉が脳の隅に残っている。すべてをぶっちゃけてしまったとして、黙ってもらわなくてはならない。秘することを強要することになる。

 それは本意ではない。雪菜に余計な荷物を背負わせたくはなかった。

 ここまで頑なに秘密にしておきたいのは、俺……もしくは、俺たちの希望だ。他の誰かを巻き込んで、我が儘を通そうとは思わない。

 時雨も同じ気持ちだろう。それがナチュラルに察せられるのが、仲が深いというのならば、そうだ。


「で、本気なの?」

「だから、そういうんじゃないって言っただろ」

「え~」


 信用ないとばかりの声を出されて閉口してしまう。雪菜はほんの少し、からかう調子が復活していた。


「しつこいぞ」

「応援してやろうと思ったのに」

「いらない」

「本当に?」


 少し声のトーンが下がる。それを横目に、ため息を零した。


「本当だ」


 応援はいらない。嘘はなかった。正々堂々と告げると、雪菜は納得したらしい。そっか、と破顔した。

 ……付き合いは長い。自分と雪菜の仲が深いことに自覚はある。

 そこから比較しても、時雨がなかなか特例なのは間違いない。だからこそ、真面目な問いだったのだろう。友人が取られるとでも思ったのだろうか。

 心配をなくした笑顔を見られて、ほっとした。

 そのタイミングを計らったように、透流と時雨が合流する。俺たちは何事もなかったかのように、帰路についた。




「あ」


 思えば、時雨はすぐに声が出る。食堂で鉢合わせたときも、会話を交わすに至ったのは時雨の声が原因だった。

 解散した後、俺と時雨はバラバラの道を辿って最寄り駅まで帰ってきたところだ。俺はバスに乗って移動してきたので、時間などまるで把握していなかった。時雨はほとんど同じ到着の電車に乗っていたようだ。


「お疲れ」

「お疲れ。大丈夫かな?」

「ここまで戻ってくれば平気だろ」


 雪菜は隣の駅で、透流は更に遠いらしい。こっちに来る理由はないから、安全だろう。


「最悪見つかっても、知らなかったことにしとこう」

「別の交通手段を使ったのに?」

「用があるって一応言っておいたのは時雨だろ」

「貴大君が誘導したんじゃない」

「……痛いとこ、突くなよ」


 雪菜に嘘をついたことまで思い出されて、良心が咎めた。項垂れてしまうと、時雨が俺の過剰反応に驚いている。


「どうしたの?」

「……時雨のこと、本気なのかってさ」

「本気?」


 不思議そうに首を傾げられて、苦笑した。

 あれだけ思わせぶりな態度を取ったり、意識しているような表情を見せたりするくせに、そこは理解ができないらしい。鈍感力には、失笑が零れる。


「好きなのかってこと」


 時雨はぱちぱちと瞬きを繰り返す。予想だしていないことを言われたとばかりの顔だ。実に分かりやすくて、更に笑みは深まった。


「貴大君が? 私を??」


 そこまで入念な確認作業がいるものか。そして、それほど確認されるのは、どことなく面白くない。

 時雨はそんなことなど顧みずに、疑問を首に乗せて傾けていた。


「なくない???」


 どうやら、露些かも心当たりがないらしい。それにしても、自分のした発言すらも覚えていないのだろうか。


「誤解がどうのって話だろ?」

「え。だって、雪ちゃんも透流君も納得してくれてたじゃん。ナンパ避けだって」

「それだけが判断材料じゃないってことだろ」

「私たち、そんなに距離近いかな?」


 思い巡らせるような不安な顔で、こちらを仰ぎ見る。瞳がゆらゆらと揺れていた。


「それなりに」

「……ダメ? 困る?」

「どうしたんだよ」


 そんなふうに尋ねられる理由が分からなくて、首を傾げる。

 時雨のことには、少しずつ詳しくなったと自負していた。もちろん、驕るほどではない。まだまだ知らぬこともあるはずだと、冷静ではいる。

 けれど、思った以上に分かった気でしかないと思うのは、こういうときだ。途端に時雨のことが分からなくなって、動揺した。


「だって、雪ちゃんのこと、好きなんでしょ?」

「……は?」


 大口を開けて、足を止めてしまう。時雨も釣られて止まった。すぐに邪魔になることに気がついて、ロータリーを行く人の流れに乗る。

 そのまま歩道に出て、人の流れが緩やかになったところで再度時雨を見下ろした。


「どうしてそうなった?」


 眉を顰めて見下ろすと、時雨はきょとんとする。


「だって、雪ちゃんと仲良いじゃん。他の子と仲良くしてるのは見たことない」

「……雪菜と同じこと言うなよ」


 仔細には違うかもしれない。だが、大枠ではだいたい同じ理屈だ。少なくとも、俺には同じ内容に思えた。


「そんなこと言われても……貴大君の友人関係が狭いのが原因じゃない?」

「悪かったな。人付き合いが悪くて」


 頭頂部に軽く手刀を落とすと、時雨は


「もう」


 と言いながら逃げた。

 プールの後は、結ぶのが面倒だったのか、セミロングの髪を流したままにしている。その髪がふわりと揺れた。どこか塩素の匂いがする。


「なのに、そういうことするから、誤解されるんだね。分かった」


 急に理解を始められて、置いてけぼりを食らった。


「貴大君は、こなれ感あるんだよ。私たちに」

「雪菜のほうが慣れてる」

「分かってる! でも、それぞれから見てもそう見えるんだから、私たちどっちにも馴れ馴れしいってことでしょ?」

「……そうなんじゃないの?」


 自覚は薄い。

 雪菜も時雨も、それに嫌悪感を示したりしないし、ごく自然だ。距離感は遠くないことは自覚しているが、だからと言って行き過ぎているかは分からない。

 ナンパ避けは、足をはみ出したかもしれないが、あれはイレギュラーだろう。数に入らないはずだ。それともこれは、主観に過ぎるジャッジだろうか。


「気をつけたほうがいいんじゃない?」

「今更言うなよ」


 それなり、を取っ払ってしまったのは、お互い様だ。雪菜のことはさておき、時雨との関係は今のままのほうが安泰ではある。もちろん、これ以上を望み過ぎるのは、諸々問題でありそうだが。


「そうは言っても、邪推はいらないよ」

「そうは言っても、今更不仲になっても、それはそれで邪推を呼ぶだろ」

「迂闊だったかも……だから、言ったのに」

「お前だって、納得したんじゃなかったのか」

「分かってるよ! でも、私はちゃんと言ったじゃん。我が儘だよって」

「それ、関係なくないか?」


 噛み合わせが悪い。眉根を寄せた俺に、時雨は拗ねたような顔をした。それこそ、我が儘でも零しそうな面だ。


「馴れ馴れしくなるってことだもん。周りからどう見られるのか、もっと考えればよかった。叔父さんバレ回避しか考えてなかった」

「俺の馴れ馴れしさの話じゃなかったか」

「普通なら、許してないもん」


 詳細を問い質さなくても、なんとなく察した。

 時雨の透流への態度は当たり障りがない。俺に慣れているだけだろうと思っていたが、そこに特殊性が含まれているのだと思い至った。

 俺だって、そうだ。家庭事情による遠慮がない分、ざっくばらんになってしまう。心を許していた。程度はあるだろう。だが、お互いに他人の領域は超えていて、同級生と比べると図抜けている。


「……もう、しょうがねぇよ」


 合い言葉から呪文に格上げされたようなそれを口にした。時雨は胡乱な目をしてから、はぁと肩を落とす。それはほとんど思考放棄だった。


「しょうがないけどさぁ」


 唇を尖らせる時雨に、肩を竦める。


「いい案が思いついたら、そのときだな。とりあえず、帰るぞ」


 こんな道端で作戦会議をするにも限度があった。それに、有意義な案の目算がない。時雨にも期待できそうにもないのだから、現実的に動くしかなかった。

 二人並んで、自宅への道を辿る。思えば、こうして帰路をともに歩くのは初めてだった。

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