第四章
おじとめいの距離①
時雨はやっぱり運動音痴を発揮していて、カナヅチだった。けれど、アミューズメントパークのプールでガチ泳ぎしてるやつなんていないし、プールサイドで休んでいるものも多い。
時雨もまったりと水中を歩いたり、借りた浮き輪で浮いたりしていた。雪菜と透流は、遊びが大半のプールで競争をしでかしている。他のお客さんの邪魔にはなっていないので、止めはしない。遊びに来て、そんなことに労力を割きたくはなかった。
俺もゆっくりと泳ぐ。集団で遊びに来たわりに、それぞれ自由奔放だ。
それにこだわるつもりはないが、それなりに時雨との関係がバレやしないかと緊張感を抱いて出てきた。それが杞憂になっている現状には、肩透かしを覚える。
そりゃ、油断することはできない。自宅への帰り道がもっとも緊張感が高まるところだ。だが、ここまでそれぞれでいいのならば、当初の緊張感は無駄骨であったような気がしてくる。俺はすっかり脱力して、水中に浮かんでいた。
確かにバラバラではあるが、視界の中に全員がいる。雪菜と透流は相変わらずだったが、時雨は疲れたのか。プールサイドのベンチに腰を下ろしていた。ちょこんと一人でいるのがやたらと目立つ。
眉を顰めたのと、目をつけられたのは同時だったようだ。一人の時雨のそばに、二人組の男が近付いていく。雪菜と透流は、時雨のことに気がついていない。
……はぁとため息をついて、俺はプールサイドへと上がった。ざぱりと残る水飛沫をそのままに、時雨の元へ突き進む。
「一人でしょ?」
「俺たちと遊ばない?」
「友達と来てるから」
「でも、今は一人なんでしょ? ちょっと遊ぶくらいよくない? 友達と合流してもいいよ?」
友達も女だけだとでも思っているのだろうか。ナンパと言うのはこんなにも想像する通りの定型句を使うのだなぁ、と思いながら、そのベンチに近付いて立ち止まった。
男たちの不審な顔がこちらを向く。
「合流しますか?」
軽口を叩きながら、男たちを見下ろして時雨に手を差し出した。思ったよりも早く手を取られて、平然と対処しているように見えていたのは紛い物だったのかもしれないと気がつく。
「なんだよ、男連れかよ」
「友達じゃねぇじゃん」
それだけ言い残すと、男たちはすんなりと離れていった。
こういうとき、自分が高身長でよかったと思う。少しだけしかめ面しい顔をしておけば、十分はったりがきく。
「……平気か?」
「しつこくなくてよかった」
「質問に答えろ」
言いながら、手を放して隣に腰を下ろした。時雨はきゅっと顔を顰める。
「……へいき」
「ならいいけど」
「慣れてるから」
それだけ聞くと、容姿自慢にも取れたかもしれない。けれど、そこに存分に練り込まれた嫌気は無視できるものではなかった。
「それは平気じゃねぇだろ」
腹立たしい。そんな気持ちでぽろりと零すと、時雨が目をかっぴらいて俺を見ていた。
「なに?」
「……ありがとう、心配して、助けてくれて」
ぽそぽそと呟かれて、今更ながらにこっぱずかしくなる。
連れであるし、家族であるのだから、時雨を助けるのはごく自然なことだ。それは、今だってそう思っている。だが、いかにも、な救出劇は擽ったくなる。彼氏とか、そういうものだと勘違いされるように振る舞ったのだから、それはひとしおだった。
「姪だからな」
膝に肘をついて、口元を隠す。そういうポーズを取ったのは、内緒事という認識があったからだ。
「それなの?」
「放置したなんて知れたら、理彩さんに……いや、兄ちゃんに怒られるかも」
「そんなに……?」
「理彩さんを助けてお近付きになった男だぞ? ナンパを見て見ぬ振りはダメだろ。しかも、家族だし」
「裕貴さんがねぇ」
そんなに気にするだろうか、というような顔をしている。
相変わらず、ピンと来ないものらしい。時雨は兄ちゃんの世話焼きで、男がどうのという典型的なかっこつけなところを知らないのだ。
そのかっこつけで理彩さんを救えているのだから、悪い心意気ではない。そんな男に育てられたものだから、俺にだって多少の心意気は備わっていた。
「兄ちゃんは過保護だぞ」
「お母さんより?」
「いや、知らんけど」
今度、ピンとこない顔をするのは、俺の番だ。
何しろ、俺と理彩さんとじゃ、時雨と兄ちゃんより距離がある。意図して作っているものではないが、どうしたって埋められない間はあるものだ。
そんなものだから、お互いにそれぞれの保護者の過保護っぷりを知っているとは言えない。齟齬はしょっちゅう起こった。そして、こうして堂々巡りになる。なかば、戯れのような言い合いだ。
そうしているうちに、周囲の目に気がつく。
時雨は目を惹いていた。そんなことは分かっている。だが、隣に並んでいるとその視線がどこをなぞっているのか。それすらも明晰で苛立たしい。
やはり、兄ちゃんに育てられた正義感のようなものは、俺の中にもあるようだ。……あれほど凝視しくさった俺が思うのも、どうかと思うが。
「とにかく。放っておけないんだよ。着とけ……濡れてるけど許せよ」
パーカーを脱いで、時雨の肩にかけた。
きょとんとした顔が、俺の思惑を探るような顔をする。
「いいから、着ろ。ファスナー上げて」
そこまで言って、俺の真意を悟ったらしい。時雨はふっと笑って、パーカーを着た。
しっかりとファスナーも上げる従順さに、小さく吐息を零す。そこがどうしても気になっていたのは、俺も同じなのかもしれない。
時雨はそれから、にこりと俺を見上げてきた。どこか企んだような表情に、嫌な予感がする。その予感を正しく想像するよりも先に、腕に抱きつかれて硬直した。柔らかい弾力が、腕にまとわりついてくる。
「しぐ……っ」
どういうつもりなのか。声が引きつった。時雨はそのまま覗き込むかのように俺を見上げてくる。小悪魔的な笑みだ。
「守ってね、叔父さん」
甘ったるい声を吹き込まれて、ぞわっと鳥肌が立った。
思わず顔を覆うと、くつくつと舐め腐ったような笑い声がする。ぐいっと腕を引き抜くと、余計に笑いが深まった。人の心配をなんだと思っているのか。そうした苛立ちと、やられたらやり返す精神が、蛮勇を生み出した。自由になった腕で、時雨の腰に手を回す。
濡れたパーカー越しでも、その滑らかな肌の柔らかさが如実に分かった。骨盤に指を引っかけると、時雨がびくんと身体を震わす。その首筋が赤くなった。白い肌とのコントラストが鮮烈だ。
「叔父さんをからかうんじゃねぇの」
「馬鹿じゃん」
唇を尖らせて呟かれた言葉は、着替え後のやり取りを彷彿させた。照れくさい。
けれど、今更引き下がるのも、矜持が許さなかった。ただただ、ムキになっているだけだっただろうが、それでも時雨を腕の中に囲い続ける。
「いつまでそうしてんの」
顎を持ち上げてこちらを見上げてくる。つまり、それだけ近いということだ。
すっかり慣れ親しんで、心の距離は雑に近付くこともあったかもしれない。けれど、現実的な距離で、これほど近付いたのは初めてのことだった。
時雨の手のひらが、制止を促すかのように、手のひらの上に重ねられる。しっとりと濡れた肌が、吸い付くようだった。
「ナンパ避け」
「また二人にからかわれる……ってか、今度は洒落にならないと思うけど?」
「バレなきゃいいだろ」
「早晩」
「叔父姪バレより、痛くもない腹を探られるほうがいい」
「これで痛くもないなんて言える?」
するっと指が蠢く。絡まるようなありように、心拍数が高まった。
「内心に痛みはないだろ?」
「肝心なのは見え方じゃない?」
「やめとくか?」
「……ヘタレ」
言いながら、肩に頭が預けられる。冷たい髪の毛と、しっかりとした重量。それから、身体の側面に当たる横乳の軟性を感じた。薄いパーカーなど、あってもなくても同じではないかという心地がする。直に感じたことなどないので、その違いは分からないが。
黙り込んでしまった俺に、時雨も声を出さない。俺たちは、黙ってイチャつくカップルのような体勢を取り続けた。
叔父と姪、なんて関係は無縁になっている。
距離を詰めることは望んだことではあったが、意味が変わってきているかもしれないとはどこかで思っていた。踏み外してはならないなどと考えていたのだから、それは確かな変化だっただろう。
こちらに気がついた透流と雪菜には、ナンパ避けだと話した。さすがに、防御的な意味合いであると、同情の余地があるらしい。無難にスルーしてもらえて、時雨の心配は杞憂に終わった。
そうして、本日の遊びは終了となる。それぞれが着替えへと撤収した。
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