第五話〜第八話
第五話
先輩たちって、芽衣の体に触ったりする?
私が見聞きしている範囲のことはもう時効だと思うんで書きますけど、学校吹奏楽の現場では、その昔はセクハラすれすれ、というか、セクハラそのものなことなんて日常茶飯事でした。というより、管楽器の教育そのものが、体に触れずして何を語れるものぞ、という雰囲気があったんで(まあ正論だと思うんですが)、先生はもちろん、三年生の男子が一年生の女の子の体を必要以上に触る、というようなことがよくあったようです。あるいは、ピアノしか知らない若い女性音楽教師が、吹奏楽の指導者講習に行って、どんなレクチャーを受けたのやら、講義の途中で真っ赤な顔をして教室から飛び出してきた、みたいな話とか。
当時は笑い話でした。まあ確かに艶笑譚なんですけど、現在のノンフィクションとしてならまずいですよねー。
さすがに最近は激減した――と思うんですが、洒落にならない話もそれなりにあるのだろうな、とは思います。一方で、肩に軽く触れるだけで大騒ぎするような風潮は、それはそれでやりにくいだろうな、とも。
どうかみなさん、適正な距離を模索して平和に音楽やってもらいたいものです。こんな小説でこの手のセリフが、いつまでもジョークとして通用するためにも。
深江先輩って腹筋スゴいから
腹筋を鍛えても、管楽器の上達にはあまり結びつかない、ということが最近は言われるようになって(というかバレて)、この手の会話はだんだん時代遅れになりつつあると思います。が、多分今も、吹部の新一年生は、春の間はジャージに着替えて腹筋とマラソンをやるように、なんて学校は多いんじゃないかと思います。マラソンは確かに意義があるんですけどね。
去年のコンクールの録音
吹奏楽コンクールの本番ステージの録音は、各会場で専門の業者が出入りしていて、こう言ってはなんですが、学生の懐をまさぐりつつ、毎年いい商売してます。
ある県での話ですが、その昔は四校分の演奏を一本のカセットテープに収録して(同じ日の参加校から自由に選べた)、2500円だったか3000円だったか。プロ演奏家のLPレコード一枚分ですね。それからCDになり、今はDVDかブルーレイの動画にまで選択肢が広がってます。一校いくらなのかまでは知りませんが。
たぶんその辺の利権もあって――というより、全国の業者の(文字通りの)生き死にに関わりますので、吹奏楽コンクールは動画配信に踏み切れずにいるのではないかと邪推しますが、まあいろいろ事情があるのかも知れません。著作権とか。あと、未成年は学校生徒の身分で不特定多数が見る動画に身を晒しちゃいけない、みたいな決まりがあったと思うんで、そのせいとか。でも、音声オンリーならいいと思うんだけどな。
第六話
チューバのハードケース
色々なものが各社から出ており、一概にどんな形でどんなサイズと言いにくいのですが、一般的には二枚貝のように開く構造になっていて、片方がやや深めに作ってあり、そちらにチューバ全体を横にストンと落とし込めるような凹みのあるクッション材(表面はビロードとかモヘアっぽい布地で覆われている)で内部を作り、反対側もチューバの残り部分を支持できるように凹みを作り、合成樹脂で外殻を作り、それらを組み合わせてさらに合成皮革でソフトに仕上げたもの、というのがスタンダードタイプでしょうか。細かい違いは、車輪付きとか取っ手が縦方向横方向にあるものとか、それぐらいだと思います。
とにかく、デカいチューバをさらにくるむ形なんで、電車とか飛行機なんかでは色々とトラブルもあるため、最低限の容積で持ち運びする時はソフトケースを使います。これは要するにキャンパス地のチューバの服みたいなもの。
で、そもそもチューバのハードケースに小柄な女の子(男でもいいんだけど)は収容可能なのか、という問題ですが、さすがに未検証です。が、ケースの差し渡しが一メートルちょっと、縦は少なくとも六十センチ、幅は五十センチ少々はあるはずなんで、凹み部分が余裕のある設計なら、この作中シーンぐらいのことは起こり得るかと。もっと言うと、緩衝材部分を外せば大人でも十分収容できるわけで、まあ普通の体格の死体を死後硬直前に入れるのは造作もないと……失礼、余談でした。
ベルの部分
金管楽器の一番先の、大きく開いている部分、いわゆるラッパの先の部分ですが、そこを「ベル」と呼びます。日本語では「朝顔」。木管楽器でも、クラリネットやオーボエ、サックスなどの、先の広がった部分をベルと呼ぶようです。チャペルの鐘のように円錐状で広がってる部分、というのが原義なんでしょうね。
デイリートレーニング
人によって色々ですが、チューバ初級なら一般的には 1 ロングトーン 2 音階をゆっくりから速く 3 連続タンギング ……などなどでしょうか。こういうトレーニングがいいよ、という感じの教則本みたいな楽譜も、何種類も出てます。
ボーン
トロンボーンをこう呼ぶことも。ボントロという略称もあります。
第七話
吹奏楽のためのコンチェルタンテ
架空の曲です。複数の作曲者による同名作品がありますが、それらとは無関係です。
コンチェルタンテ
日本語訳は協奏交響曲。
協奏曲(コンチェルト)は、オーケストラなどの合奏体と独奏者が対等な関係で音楽を作っていく器楽曲のこと。実際にはオケがソリストの引き立て役に徹する作りであることが多いですが。
で、その協奏曲の独奏者が二人以上になると、コンチェルタンテです。ですから、複協奏曲とか交響的協奏曲などと呼ぶ方が、日本語的には正しいはずですが、なぜか「協奏交響曲」の訳しかありません。
さて、以上のような名前を冠した曲の中には、ソリストは一人もいないんだけどオーケストラの各楽器に技巧的なソロを散りばめて「こいつら全員ソリストだ!」ってなノリの曲もあります。そのタイプでかつ、協奏曲の名前で有名なのが、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」。協奏交響曲の名前でやや有名なのが、フランク・マルタンの「協奏交響曲」。こういう理念になると、コンチェルトもコンチェルタンテも違いはありません。
作中の架空の曲は、後者のパターンです。
楽曲解説
曲に関する何らかの情報を提供すれば、なんでも「楽曲解説」になります。大まかな分類をすると、
1 作曲者本人、及び周辺人物、人間関係に関する情報
2 その曲が作曲された経緯や、題名に関して小話があればその情報、初演の日時や演奏者や場所の情報、出版・改訂などの経緯、発表後の人気ぶり(あるいは不人気ぶり)などに関する情報
3 曲の中身について、物語的な内容ならその物語自体の紹介、楽器編成のこと、曲の各部分の音楽的な流れ、形式、分類などの説明。
4 3を一歩進めた音楽分析(後述)的なことなど。
湾多的には、聴きどころをわかりやすく押さえた解説がいちばんだと思うのですが、聴きどころを紹介するにはある程度専門用語が必要になりがちだし、それはお手上げだという人が少なからずいるし、一方で七面倒なデータの羅列を喜ぶ人もいるし、聴く方も書く方も「解説」のツボは人それぞれですね。
音楽分析
一般的には楽曲分析と言います。主に作曲技法的な方向から、さまざまな角度で曲を調べます。一例を上げると、
・曲の構造(大は「全部で四楽章」みたいなざっくりした話から、小は「この四小節は、第二主題のコード進行を元にしたアドリブ形である」みたいな細かい話まで)
・旋律の構造(五つ主題があるように見えるが、実は二つの音形の組み合わせのバリエーションである、みたいな)
・調の構造(ヘ長調に始まり、ニ短調に転調してハ長調のブルース音階から変ロ長調のミクソリディアンモードを経てハ短調、最後に原調復帰、などなど)
・調分析の延長で、和声構造(全曲を小節単位、あるいは拍単位でコードネームを洗い出すことに始まり、相互の関係性を調べたり)
・他曲、他音楽からの影響や引用などの考察(ここはショパンの「葬送」からの引用だ、とか、この間奏のリズムはサルサちょっと入ってるよね、などなど)
他にもリズムの構造とか楽器法の特色とか。
まあやりだすとキリがないので、実用上必要な範囲で、みなさんつまみ食いしつつ、曲作りのヒントを探します。
こういうことを全然やらない人もいます。それでも説得力のある音楽を奏でられるアーティストを人は「天才」と呼び、まるで話にならなければ、ただの「未熟者」として叱られるか、無視されます。
音楽の流れをつかむためにぃ、ストーリーを作ってみる
初級レベルのピアノのレッスンとか、グループ制児童音楽教室などで、たまにやっているアプローチのようです。別段、近代的な教育法というわけでもなく、先生によっては十八世紀ぐらいからこういう教え方してたと思います。
吹奏楽部みたいな現場でどこまで具体的にこんなことやってるかは、寡聞にして存じませんでしたが、ある有名校で本当にこういう感じで全員の音楽理解を揃える試みがなされているという話を後で読みました。本作の例とは色々と違いもあるので、一緒くたに論じることは出来かねますが、曲によってはある程度まで有効な方法であろう、と申し上げておきます。少なくとも、理解のレベルも内容もバラバラな状態の部員をまとめることはできるでしょう。でも、音楽はあくまで音楽ですから、具体的過ぎるイメージ作りは本末転倒ではあるんですよね。
第八話
バンドミストレス
吹奏楽などで楽団トップが女性の場合、こう呼びます。少し詳述すると。
管弦楽団で音楽的な取りまとめ役に当たる男性はコンサートマスターと呼び、コンマスと略します。
それが女性の場合はコンサートミストレスと呼び、コンミスと略します。
吹奏楽団やビッグバンドや編成が大きめのロックバンドなどの男性リーダーはバンドマスターと呼び、省略形はバンマス。
それが女性形になるとバンドミストレス、略してバンミス。
とはいえ、吹奏楽団だけど、コンサートマスター及びミストレスの称号を用いているところもあるし、コンマスもバンマスも両方ある、なんて団体もあるようで。
はっきり言えることは、中学校バンドでわざわざバンミスなんて言い方してるところはまず少ないだろうということ。「部長」で全部足りますしね。作中のこれは、半分「楽団ごっこ」遊びだと思ってください。
バリトンサックス
普通に見るサックスの中でいちばんでかいやつ……という書き方じゃアレなんで、見分け方を書くと、
・吹き口のすぐ先で管がぐねっと小さい円を描いてから下に伸びている(そうでないモデルも)。
・一度下まで落ちた管が、七合目ぐらいの高さにまで戻ってきてベルが開いている(テナーサックスは戻りが半分ぐらいの位置)。
・下に支持用のピンを伸ばすことも。でも、だいたいみんなストラップで首から下げてますけれども。
音域はアルトサックスの一オクターブ下で、変ホ長調の移調楽器。つまり、「ド」とされている指遣いで音を鳴らすと、キーボードのミのフラットになってしまうということ。
ちなみに音域は、だいたいチューバの半オクターブ上。基本的に低音木管楽器は高価で、小編成バンドや貧乏吹部は低い木管を揃えてないことが多いんですが、バリトンサックスを置いてない部はめったにないです。いわば、金欠楽団の木管のバスラインの要。音もでかいし、下手をするとチューバより存在感があることも。
あと、バリトンの下にバスサキソフォーンというものもあるのですが、あまりに使われないし、お目にかかれません。さらにその下のコントラバスサキソフォーンになると、世界で数十台しかないとか。
フーガ
日本語には「遁走曲」などという訳もあり、学校の音楽だと「一つの旋律が各声部に順次現れて、追いかけ合うような形式になっている曲」などと説明されていますが、実はフーガの定義は結構厄介です。
「追いかけ合う曲」と言えば、そもそも輪唱のスタイルで知られるカノンというジャンルがあります(「静かな湖畔の」とか「カエルの歌が」なんかの曲ね)。ではカノンとフーガとはどう違うのか。
カノンは同一の旋律をただ時間差で追いかけてるだけですが(そうでない複雑なのもありますけれど)、フーガは旋律の変化のさせ方とか転調の手順とか後半部での追い込み方とか、結構細かいルールがあり、とてもひとことでは説明できません。いわば、カノンをさらに複雑な形式にし、様式を整えた楽曲形式、とでも言いますか。
と、ここまで書いておいてなんですが、これは最も厳格なフーガの場合で、実はいいかげんなフーガもいっぱいあります。ほとんどカノンすれすれみたいなのも。ちなみに、緩いフーガには「フゲッタ」という呼び方があります。
上記の定義は、バッハなどの、この分野を極めた作曲家のフーガを語る時か、音楽大学の作曲科にある「フーガ実習」などの授業内容の説明に使うべきものです。困ったことに、音楽事典などでもいちばんややこしいフーガの定義をまず載せてますんで、時に実態と合いません。
作中の例は、いってみれば「かっこつけ」でフーガとした例です。実際の音は、この後の行で出てくるように、「カノンもどき」程度の内容でしょう。
コーダ
終結部。
楽曲形式の語として使う「コーダ」は、曲のジャンルによって「こっから先のこういう感じの部分をコーダと呼ぶ」みたいなお約束がしばしばあるので、それに則って場所が決まります。要するに、「締め」の部分、と呼んでいいかと。
一方、楽譜の反復記号の一部として表記される「coda」は、半ば演奏順をガイドする目印としての意味しかなく、時に曲の半分以上がcodaとしてくくられることもあります。その際は、一度フレーズの構造など、自分で調べ直した方がいいですね。
カノン
前項「フーガ」参照
ドリアンモード
ドリア旋法のこと。この語の説明には少々ややこしい部分もあるのですが、話を思いっきり簡単にすると、ピアノの白鍵盤だけで「レミファソラシドレ」と弾いてもらえれば、それがドリア旋法です。ドから始めないとよく分からない、というのなら、ドレミファソラシドのミとシをフラットにしてください。
いわば、「普通の短調がちょっと訛ったもの」とも言えますが、クラシック曲でもポピュラー曲でも、一部、あるいは全部がドリアンモードである例は意外とよく聞きます。ケルト音楽などに多いので、ファンタジー系ゲーム音楽などで「この辺はガチの妖精物語です」と訴えたい時に、半ば記号としてドリアンモードを使うことがしばしば。
一般的に知られた音楽の中でもっとも有名なのは、イギリス民謡「グリーンスリーブス」、そしてサイモン&ガーファンクルの「スカボロウフェア」、クラシックだとフォーレの「シシリエンヌ」の最初のフレーズ、などなど。
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