失踪事件の結末


 

 それでも、マリアはゆっくりと足を進める。

 独房の中はとても静かだ。

 

 鍵を開け、屍のように横たわる男を見ようとするのだけど、目に飛び込んで来た『鮮烈な赤』に心がすくんでしまう。口元を指先で覆ったまま、マリアは目を細めた。

 

 まず、男の背中の様子が昨日とは全く違っている。

 身体の表面と同じように……いや、もっと酷いかも知れない。幾重にも重なった鞭打ちの跡が、目を背けたくなるほどに痛々しい。


「あぁ……」


 男の身体の下から流れ出た血の上に、物ともせずに膝をつく。

 躊躇いがちに震える腕を伸ばし、昨日したのと同じように男を抱え、頭部を膝の上に乗せた。


「どうして……。ここまでされなければいけないの……?」


 翼の睫毛は固く閉じられている。青い月明かりを受け、あんなに美しかった男の頬が、額から流れ落ちたもので真っ赤に染まっていた。


「どうして」


 髪が血糊でべっとりと張り付いた額に、指先でそっと触れた。目頭が熱くなり、込み上げた涙が頬を伝って男の頬に転々と落ちた。


「ぅぅ………」


 わずかに開いた男の唇から絞り出すような声とともに、閉じていたまぶたがゆっくりと持ち上がる。


 薄く開いた青い瞳に、マリアは映っているのだろうか——。


「あなたの名を教えてください……! 私にどうか、名前を教えて……?」


 マリアの声が耳に届いたのか、男が唇を動かそうとするのがわかった。マリアは男の口元に耳を寄せる。


「……ル、……ト」


「え……? もう一度、言ってくださいっ」

「ジル、……ベル、ト」


「ジル……、ジルベルト?」


 男がうなづいたような気がした。衣服が千切れてボロボロになった腕を持ち上げて、手のひらをどこかに持っていこうとする。


「え……腕を、どうしたいのですか?」


 よろよろと持ち上げたその手は、どうやら男の首の辺りを示している。


「これ、……を……宰相、に」

「えっ?」


 男の意識は朦朧として、そのまま気を失ってしまう。

 恐る恐る、マリアの膝の上に頭を預ける男——ジルベルトの首元を探れば、銀の鎖に繋がれたペンダントのようなものが首に掛かっているのが見えた。


「あなたが示したのはこれのことね? これを宰相様に、見せれば良いのですね……?」


 ——痛いですよね、少しだけ我慢してください。


 心の中で謝りながらジルベルトの首からペンダントを持ち上げ、頭を通してそっと抜き取る。

 銀の鎖には親指の先ほどの大きさの塊がぶら下がっていた。表面をよく見れば、四角い縁で囲むようにして、何やらかんむりを頭に乗せたワシが翼を広げたような繊細な模様が彫り込まれている。

 

「ちゃんと、宰相様に届けますから……!」


 マリアは自分に言い聞かせるように、ジルベルトの耳元につぶやいた。


 ——その前に傷の手当てをっ


 ジルベルトの身体を初めて直視したマリアは、再び絶句することになった。ジルベルトの肩から胸にかけて、ぱっくりと弓形の傷口があいている。そこからドクドクと滲み出る赤い液体——。


「何これ……っ。ジル、ベルト……?!」


 ——死んでしまう。


 直感でそう感じた。彼にはもう、一刻の猶予も残されていないのだと。


 ——私の手当てなんてこの傷口には追いつかない!


「助けるからっ……。あなたを必ず、助けるから……もう少しだけ頑張って……」


 まるで祈るように、自分に言い聞かせるように。マリアはぐったりとしたジルベルトの頭を胸に抱えこんだ。


 ——深手を負った人をこのまま置いて行くのは心配だけれど。とにかく一刻も早く、これを宰相様に届けなければ。


 マリアは、心を奮い立たせる。

 昨夜、ジルベルトがマリアに見せた穏やかで優しい笑顔。あれは絶対に、人を殺した極悪人のものじゃない。


 ジルベルトの胸の傷口に清潔なガーゼを押し当て、包帯でぐるぐると巻く。こんなことは一時凌ぎにすらならないかも知れないけれど、ただただ、少しでも出血を抑えたい一心だった。


 独房を飛び出し看守に鍵を押し付けると、地下牢の階段を駆け上がった。無我夢中で王宮に向かって走る。すれ違う人々が何事かとマリアを見遣るが、知ったことではない。



 王宮の双扉はいつも通りに開かれていた。

 扉の両側には衛兵が立っている。このまま押し入れば確実にここで捕まってしまうだろう。

 マリアは王宮の裏手に回り、前に一度だけ訪れたことがある鳥舎の前に立った。鳥舎の中には多くのニワトリが飼育されている——その数はゆうに三十羽を超えるのだ。


 鳥舎の鍵が、扉のすぐそばに吊り下がっていることも知っていた。急いで鍵を掴み、解錠して鳥舎の扉を開け放つ。ニワトリたちは突然寝床の中に襲来したマリアに驚き、ギャーギャー鳴きながら鳥舎を飛び出した。


「大変っっ! 鶏が逃げ出したわ、捕まえて!!」


 大声で何度も叫べば、王宮の裏口から何人か人が出てきた。裏庭の木をいじっていた庭師が「あらま!」と梯子を降りて駆けてくる。裏庭を方々に駆け回るニワトリたち。あっと言う間に裏庭は、人間と鶏の大捕物で騒然となった。


 王宮の裏口が開いている。周囲の大騒ぎの隙を突いて、マリアは裏口から王宮の中へと駆け入った。


「ちょっとあんた!」

「……どうしたの?!」


 すれ違う使用人たちがマリアを見て振り返る。構わずに疾走し、先ほど外から眺めた正面入り口の奥にある大階段を駆け上がった。


 はあ、はあと息が切れ、足取りが重くなる。


「宰相様っ……。宰相様はどちらですか……?!」


 二階、三階まで上がれば、階段ホールを通してマリアの声が響いた。数人の侍従がやってきてマリアを取り囲む。


「お前っ、下級メイドじゃないか。ここはお前のような者が来る場所じゃない。一体どういうつもりだ!?」

「さ……宰相様に、お話が……っ」


 息を切らしたマリアの訴えはままならない。


「宰相様がお前のような者の話を聞かれるはずがないだろう? それに、その格好は何だ……! 恐ろしい。気でも触れたのか」


 取り押さえろ。

 侍従の一人が駆けつけた警吏に冷たく言い放つ。


「待ってください……。宰相様に、この名前をっ。彼の命が危ないのです。どうか、彼を助けて…——っ」


「気狂いの女だ。連れて行け」


 警吏に両腕を掴まれたマリアは、最後の言葉を訴える。


「ジルベルト……! 誰か、この名を知る者はいませんか……?!」


 途端、王宮内の空気がピンと張り詰める。


「今、何と言った」


 侍従の中で一番の年長者だと思われる男が、マリアに近付いた。


「お前は何故その名を知っている?!」


 マリアに近づいた侍従が近くに立っていた別の侍従に目配せをする。その侍従はひどく慌てたふうに廊下の奥へと走り去った。


「地下牢の独房にいるジルベルトが、こ……これを、宰相様に見せろと」


 マリアは、ジルベルトから預かったペンダントを胸元から取り出した。王宮の豪奢な明かりの下で煌めく銀の鎖は——赤黒い血に染まっていた。


 それを一目見た侍従の顔が、見る間に青ざめていく。


「なっ……何と言う事だ……。地下牢だ! 地下牢に医者を遣れ、急ぐのだ!!」


 侍従がマリアの手の下で揺れるペンダントを取り上げようとしたが、マリアはそれをぎゅっと掴んで離さない。


「それはお前のような者が触れられる代物ではない。こちらに寄越しなさい!」

「嫌です! ジルベルトから宰相様にお渡しするように言われたのです。あなたになんか、絶対に渡さないわ……!」


「メイド風情の小娘が小賢しい。こちらに寄越せと言っているのが聞こえんのか!」


 マリアの手から、侍従が無理矢理にペンダントを奪い取ろうとしたその時だ。


「ジルベルトが見つかったと言うのは本当か?!」


 艶めいた声がして、周囲の者が一斉に道を開ける。


 ——宰相、様……?


 その声を聞き、マリアは警吏の制止を振り払って立ち上がる。マリアの視線は、若く美しき宰相、ロベルト・バルドゥの姿を捉えた。皆が固唾を飲んで見守るなか、マリアは彼の元へと歩き、大切そうに胸にあてたペンダントを差し出した。


「宰相、様……。お願いです、ジルベルトを助けて……」


 ロベルト・バルドゥの目に飛び込んだのは——。

 ウエィン国内で行方不明になっている帝国の皇太子、ジルベルト・クローヴィスの、いのちにも等しい彼の『王印』。


 そして。お仕着せの白いエプロンを真紅の血に染め、その『王印』を涙ながらに差し出す若いメイドの姿だった。






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