後悔



 明るい日差しのなか、目を覚ましたマリアはすっくと起き上がり、ベッドサイドの窓を大きく開いた。


 いつもと同じ呑気な小鳥の囀りが、爽やかに渡る初夏の風が。

 なぜだか今日はとても新鮮で、愛おしくさえ感じてしまう。


 昨日の地下牢で見せた男の破壊的な(!)美しい笑顔を思い出す。

 同時に今日もまた彼が拷問を受けるのだと思えば、胸の上に氷でも押し付けられたような冷たい寒気が襲うのだった。


 ——何か私にできることは無いのかしら。


 マリアが地下牢へ向かうのは午後二時と決まっている。王宮にさえ行かなければ、王城内を出歩くことだって許されているのだ。


 ——ただ考えてるだけじゃ、時間が勿体無いわ。


 男は、宰相に伝えることが出来ればすぐに釈放されるはずだと言っていた。


 ——どうにかして宰相様にお伝えすることは出来ないのかしら……? そういえば、あの人の名前を聞いておけばよかった。私ったら、また大失態っ。


 宰相に会うためには、王宮に入る必要がある。だけどマリアにはそれが許されていないのだ。


 ——他は何だってできるのに。一番したいこと、しなくちゃいけないことが出来ないなんて!


「あふぁ〜」


 大あくびで目を覚ましたのは、隣のベッドのクロエだ。


「マリア……おはよ。今朝も早いのね? 午後まで仕事が無いなんて羨ましい! もっとゆっくり寝てればいいのに」


「ねぇクロエっ」


 がばっ、とマリアに寝具ごと覆いかぶさられ、目覚めたばかりのクロエは不意打ちを喰らって目をぱちぱちさせる。


「いきなり何よ、びっくりするじゃない」

「王宮の配膳って、今は誰がやってるの?」

「王宮の食事は王宮内の厨房で作るの。ここからじゃ遠くて運べないでしょう、食事が干からびちゃう。王宮の厨房には毒見係もいるし、配膳だって特別な係がいるはずよ?」


「そ、っか……」


 そういえば、祖国の王城でも腹違いの兄や妹たちには毒見がついていたのだっけ。


 ——使用人仲間に顔がきくクロエに頼んで配膳係を譲ってもらい、宰相様に彼のことをこっそりお伝えできないかと思ったのだけど。私のような下働きが王宮に入るのは簡単じゃなさそうね?


「ねぇクロエ。どうにかして宰相様に会えないかしら?!」

「マリア。あなたまさかあの囚人に丸めこまれて、そんな事言い出したんじゃ……」

「丸めこまれたんじゃないの、私が勝手に信じたいだけ。彼が嘘を言っているのかどうかは、宰相様にお伝えしてみればわかるでしょう?」

「彼、ですって? マリア、あなたおかしいわよ。囚人の言うことを信じるなんて!」


 少し怒ったふうに、クロエは寝室を出て行ってしまった。


 ——クレアにも頼れないとなると。知り合いも少ない私に、何ができるの……。


 沈みそうになる心を奮い立たせ、着替えを済ませて外に出る。トボトボと薔薇の庭園を歩けば、無意識に王宮へと足が向いていた。


 こじんまりしたこのウェイン城の中庭はさほど広くなく、王族貴族が住まう王宮に着くまでたいして時間はかからない。

 マリアが王宮の正面扉を見つめていると、幾人もの警吏たちがバタバタと駆けて来るのが見えた。


 ——人の出入りなんて滅多に見ないほど静かな王宮が。何だか騒がしいわね?


 警吏のうちの二人が歩きながら話す声がマリアの耳に届いた。

 マリアは茂みの影に隠れ、聞き耳を立てる。


「もう十日以上経つのだ。ロベルト様の苛立ちが甚だしいのは知っているだろう?!」

「国中を隈なく探したのだ、見つからんものは見つからん。そもそも帝国側の把握ミスじゃないのか? その……我が国が情報を隠蔽しているなどと!」

「業を煮やした帝国側が我らの報告を今か今かと待っている。ウェイン国内で皇太子の身に何かあれば、ロベルト様はおろか国王の……いや、この国の存続すらも危うくなる」

「とにかく。ロベルト様に状況を知っていただき、新たな手立てを乞うしかないだろう?」


「ちょっとすみません!」


 突然に呼び止められ、王宮に入ろうとしていた警吏の二人ははたと足を止めた。マリアのお仕着せをまじまじと見つめる。


「下級メイドが我等に何の用だ。急いでいる。早急に述べよ!」

「あのっ、あなた方はこれから、宰相のロベルト様にお会いになるのですか?」

「ああ、その通りだ。それがどうした?」

「お話したいことがあるのです。西の砦で、殺人の罪を着せられた囚人のことで……っ」


 二人の警吏は互いに顔を見合わせた。一人が目を閉じ、呆れたように首を振る。


「囚人だと? 我らは急いでいると言ったろう。つまらぬ事で引き止められては困る」

「でもっ、彼は幼なじみだと……ロベルト様を呼んで欲しいと言っているのです。そのことを、ロベルト様にお伝え願いたいのです!」

「は……。気の触れた囚人の戯言であろう? そもそも地下牢の囚人がロベルト様のお名前を口にすることすら穢らわしい」


「でもっ」


 マリアの言葉は彼らには届かない。すらりと踵を返し、警吏たちは王宮の開かれた双扉の奥へと消えてしまった。


 ——せめて私が、昨日のうちに彼の名前を聞いていたら……。宰相様の幼なじみなら、どこかの貴族か高貴な身分に違いないもの。彼の名前くらい、警吏の人たちだって知っていたかも知れないのに。


 せっかく宰相と繋がりのある者と会えたのに。考えれば考えるほどに、男の名前を聞き忘れたことが悔やまれた。


 ——今日、彼に会ったら。一番最初に名前を尋ねよう。昨日みたいに楽しくて、うっかり聞き忘れてしまう前に……。



 昼食を済ませ、自室で思案を繰り返す。時計を何度も見ながら二時が来るのを今か今かと待った。

 忘れてはいけないのは薬箱、消毒薬と包帯はしっかりと補充した。——今日も拷問を受けたであろう彼の身体が心配だった。


 はやる心を抑えながら、バケツとブラシを受け取るために看守部屋を訪ねる。

 マリアの姿を見るや否や、いつもの看守が厭な薄ら笑みを浮かべてマリアに話しかけた。


「おっ、来たか。時間ピッタリとはいい心がけじゃねぇか。掃除は楽しいか? 奴のあの様子じゃ、今日はバケツ一杯じゃ足りねぇかも知れんがなぁ……」


 ——なんですって?!


 マリアの背中に冷たい汗がじわりと滲んだ。

 受け取ったばかりのバケツを放り出し、鍵束を看守の手から奪うように取り上げて独房エリアに向かって走る。


 鍵穴に鍵を押し込むとき、慌てて重い鍵束を何度も落とした。心が叫ぶ——早く彼のところへ行かなくちゃ……。


 なのに男の独房に近づくほどに恐怖が押し寄せて、足が思うように動いてくれないのだった。


 そしてマリアの不安は的中する——…


 ——なんて、こと……!


 無意識に手のひらで口元を覆っていた。

 独房の外にまで流れ出した赤い液体が、マリアの足をすくませる。





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