そこに芽生えたもの


 

 男が気を失ったままだと油断していたのと、傷口の消毒に必死になっていたのとで、のことなど意識してなかったのだ。


「なっ……!」

「俺の方は問題ないが。君の名誉のために伝えたんだが?」


 驚いたのと慌てたのとで膝を引けば、ゴッ! と鈍い音を立てて男の頭が床に落ちた。


「そ、そんなふうに話す元気があるなら。さっさと起き上がってくださいっ」

「ッ……」


 はずかしさで慌てるマリアだが、見れば男は辛そうに眉をゆがませている。さっきまでマリアの腕をつかんでいた傷だらけの腕が、ごとりと床に転がった。


「ゴホッ……」

 咳き込んだ男の唇から血痰が吐かれる。身体が辛いのはどうやら間違いないらしい。


「私ったら、慌ててしまってごめんなさいっ」


 もう一度、男の頭部を抱え直して膝の上に乗せる。汚れた口元をハンカチで拭ってやれば、ややあって男の呼吸はようやく落ち着いた。


「大丈夫、ですか……?」

「この有様ありさまを見て、大丈夫だと思うか?」


「……ぅ……」


 マリアが不安げに瞳を揺らせば、男がふっと微笑む。


「冗談だよ。こんな怪我、大したことはない。それより……なんで君が囚人の介抱など」

「それは……そのっ……」

「殺人の容疑がかかっているような野蛮な男だ。手のひらを返して、君に襲い掛かるかも知れないぞ」


 マリアの膝の上で、細く開けた目蓋から覗くあおい瞳はどこか遠くを見つめている。


「なんとなくですけど……。あなたが人殺しだとは、思えなくて」


 フッ、フ……。笑っているのだろうが、切れて血を流す口元や顔の擦り傷は痛々しく、かろうじて鼻を鳴らす男はやはり辛そうだ。


「君がなぜそう感じるのかは知らないが——俺はもうずっと、を探していてね。貧民窟で聞き込みをしていた時に、男の悲鳴を聞いて駆けつけた。殺人の現場に遭遇して逃げ去ろうとする犯人の腕を斬りつけたのだが、犯人には逃げられてしまった」


「あなたが冤罪を唱え、宰相様を呼ぶよう訴えていると聞きました。でも皆は、そんなあなたが気狂いだと」

「この国の宰相ロベルト・バルドゥは俺の幼馴染なんだ。俺の顔を見れば、すぐに釈放するだろう」


「宰相様が、幼馴染み……?」


 宰相ロベルト・バルドゥと言えば。

 もとは家門に三万人の兵力を持つウエストエンパイア随一の伯爵家出身者である。その明晰な頭脳を買われ、二十歳の若さで宰相職に抜擢されてから三年が経った今でも、国王からの絶大な信頼を得る国政の第一人者だと聞く。


「ロベルトは……あの男は。本当はもっと大きな国を動かすべきなんだ。帝国皇太子の指図をも跳ね除け、貧しい者たちのためにと敢えて弱小国の宰相となった彼がウェインの国民に与えた功績は大きい。そして帝国の皇太子も、それを認めている」


 ——そんな偉大な宰相様が幼馴染みだなんて。この囚人ひと、いったい何者なの?


「なんて語ったところで。君も信じないのだろうが」


 ゴホッ。男の形の良い唇がまた血痰を吐いた。


「私……っ」

 

 血痰をハンカチで拭いながら、マリアは男の碧い目を見据える。


「……信じます。そして皆んなにも訴えてみます。あなたが無実だと……!」


「君が何を訴えても聞く耳を持つ者はいないだろう。明日も明後日も、俺が罪を認めることはない。そして明日も明後日も拷問は続く……俺の呼吸が止まるまで」

「わ……私に何かできることはないですか? 私っ、これでも結構肝がすわっているのです」


 マリアの意気込みに驚いたのか、男がマリアに視線を向けるも。


「下働きの君に何ができる? 誰が耳を貸すのだ?」

「それは、その……」


 持ち上げられた手がゆっくりと伸びて、男の親指がマリアの頬をすうっと撫でる。マリアはびくんと肩を震わせた。


「泥が付いているな。無理をして、俺を抱え上げたからだろう?」

「ぁ……」

「有難う。もう、じゅうぶんだ」

「そんな、まだ諦めないでください!」

「諦めてはいない。だが幾ら叫んでも思案を巡らせても、ここから出るすべを探しあてることが出来ないのだ」


 マリアの膝に頭を預けながら弱々しく憂いを帯びた眼差しは、ただ美しいだけでなく、マリアの庇護欲というか母性本能をくすぐるものだ。


「ごはんを……」

「ン?」

「ご飯を、ちゃんと食べていないから。そんな弱気になるのです。今夜の食事はちゃんと食べてくださいね? 私、厨房に知り合いがいるんです。カビたパンとか冷めたスープじゃなくて、あなたの元気が出るような美味しいものを持って来ますから!」


「ハッ……君という人は。本当にどうにかして、俺に食事を摂らせたいのだな」


 ——わっ、笑った……?


「そうですよ? 当たり前です」

「当たり前なんだ」


「はい!」


 あはは。

 息を吐くような力無いものではあるけれど。彼が笑えば、『死』と隣り合わせの独房の、重く張り詰めた空気が少しだけ和らぐ。


 ——なんだろう……。女心を揺さぶるような、この破壊的な微笑みは!



 その夜。


 約束通り、マリアは温かい食事を男の独房に届けた(マリアは配膳に出されたものを食べ、自分の食事を男に与えたのだった)。


 傷が痛むのか、自力で起き上がれない男を支え、壁を背にして座らせる。

 マリアがスープをすくってカトラリーを口元まで運ぶと(咀嚼はひどくゆっくりだったけれど)約束通り男は「美味うまい」と言って食べ、完食までした。


 この場所が独房であることを忘れそうになるくらい……。幾度となく笑みを交わし、他愛のない会話もした。


 マリアは男を元気づけようと、下働き仲間の失敗談(ほとんどが自分の失敗の話だったけれど)や、いつか感銘を受けた名著のこと(数奇な運命を背負った主人公が数々の苦難を乗り越えて幸せになるお話!)を身振り手振りを交えて一生懸命に語った。


 そんなマリアの熱弁を、男は時々うなづいたり、微笑みを浮かべたりしながら穏やかに聞いていたものだ。


 ふたりのあいだには、束の間の柔らかな時間が流れていた。

 次の日、マリアが再び男の独房を訪れるまでは——。

 

 

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