マリアにできること



 カツン、カツン——。


 右手に手燭、左手には木箱を抱え、マリアは地下牢の階段を降りていた。

 

 暗鬱な牢には似つかわしくないメイド服。エプロンの白いフリルと、お団子に結えた髪に付けたリボンがひらひらと湿気を帯びた風になびく。

 昨日は真っ暗だったけれど、午後二時を過ぎた今はどこからか差し込んだ太陽の光が壁に反射してわずかばかり明るい。

 

 今朝、メイド長の所に向かえば。


『あなたの仕事は午後からです。それまでは自室で自由に過ごしなさい。王宮以外の場所になら、気晴らしに外に出るのも許します。囚人への配膳ですが、今日から午後六時の一度のみです。昼食は必要ありません。あなたのような者には少しきつい仕事になるかもしれませんが、頑張れますか?」


 頑張れますか、と言われても。そんなものはやってみなければわからない。それに午後から地下牢で何をすればいいかさえ、まだ知らされていないのだ。


 ——午後まで自由に過ごせて、午後の仕事が終われば夜の配膳までまた自由時間だなんて。いくらキツい仕事でも、ちょっと甘やかされ過ぎじゃないかしら?


 一度足を運んでいるので、地下牢でこれから向かうべき場所はわかっていた。


 ——まずはあの看守のところに行って仕事の内容を聞かなくちゃ。


 看守部屋を覗けば、昨日と同じ男が狭い部屋に置かれた机に両足を上げて組み、口笛を吹きながら本をめくっていた。何やら妙に機嫌が良さそうだ。


 ——囚人の拷問って、もう終わったのかしら……。


「あのう」


 マリアが声をかければ、おうっ! 来たか。と笑顔を向けた。

 よっこらしょ。と顔を上げ、本を置いてあふぁ〜と大きく伸びをする。それからごそごそと立ち上がり、足元の錆びた鉄のバケツと黒ずんだブラシを取り上げた。


「お前さんにはちょっと重いかも知れんが。仕事だからな、まぁ頑張れや。あっちの端っこの水路から水を汲み上げて、このバケツに入れて持って行きな」

「バケツにお水を入れたあとは、何をすればいいのですか?」

「はん? 何をって、掃除だよ、掃除」

「お掃除って、どこの……」


 ——まさかの、地下牢のお掃除?!


「決まってるだろ。お前さん担当の、あの男んとこさ。まあ今日はだから、あんま汚れてねぇけどな」


 いやな予感が唐突に胸を突き上げる。にわかに動揺し、マリアは目を泳がせた。


「なんだよ、聞いてなかったのかい? それでこの仕事が勤まるのかねぇ!」

「囚人の……独房を、わざわざお掃除するのですか」

「奴つぁ、しぶとそうだからなぁ。まぁ少なくとも数日は、お前さんは独房の掃除をすることになるだろうよ。牢屋の掃除なんざ俺も馬鹿馬鹿しいとは思うんだが、慣習なんだから仕方ねぇ。なんでもこの地下牢につい最近まで血の臭いを嫌う狂った上官がいたんだと!」


 ぶはは。と下品に笑い、看守は再び机上に両足を乗せる。


「終わったらそこにバケツ置いて帰っていいから。なぁに安心しろって。近寄ったってさ。だがエリア入口のメインキーは、いつもちゃんと閉めといてくれよ?! ここじゃ何が起こるかわかんねぇからな」


 言葉を無くすマリアに、看守は笑いながらとどめの一言を浴びせた。


「囚人の身体にはが、この先もしも奴がコト切れてそうだったら教えてくれや」

「どうして……笑っていられるの? 人の死を、そんなふうにっ……」

「はっ、お前さんは今どこに立ってんだよ? 地下牢って名の地獄なんだぜ、ここは!」



 手燭は地下牢の入り口に置いたが、ブラシと小箱を抱える左手がふさがっている。片手で持つ水入りのバケツはとても重い。

 小窓からわずかな太陽の光が差し込む独房は、昨日と変わらずしんと静かだ。その静けさが、マリアの不安をいっそう掻き立てた。


 床に張り付きそうになる重い足を一歩ずつ前に進めていく。奥から二番目の、あの男がいるはずの独房。


 おそるおそる、覗き込む——。ぐったりと床に横たわる男の身体を見て、マリアはごく、と生唾を飲み込んだ。


 ガチャリ。


 独房の鍵を開ける。

 看守が言ったとおり気を失っているらしい男は、動けそうにないけれど……恐ろしくないと言えば嘘になる。少しばかり紳士的な態度を見せたとはいえ、この男を信用するまでには至っていないのだから。


 中にバケツを運び入れる。何かあればすぐ逃げられるよう、独房の鍵は開けておいた。


 看守が言ったように、床はほとんど汚れていない——拷問によって受けた傷が流血するほどに深くないのだろう。

 うつ伏せて横たわる男をなるべく見ないようにしながら、ザッとバケツの水を床に流した。薄らと付いた紅い染みを洗い流せば、もうマリアのすることは無くなった。


 ——生きて、ますよね……?


 気を失うまで拷問を受け、そのまま放り込まれたのだろう。椅子に座らされていたのか、男の背中は着衣の乱れもなくきれいだった。


 ——ひどい……ムチで打たれたあとだわ。


 傷を負った者を目の当たりにすれば放っておく事ができないと、マリアは自分の性格をよく知っていた。


 あらかじめ用意していた木箱を男のそばに持ってくる。蓋を開け、消毒液と包帯を取り出した。

 男の身体の下に両腕を滑り込ませ、よいしょ! と、力を込めて抱え上げる。


 男性の肢体はずっしりと重い。それでもどうにか男を仰向けにして、膝の上に男の頭を乗せることに成功した。


 きれいな背中からは想像できなかったが——身体の表面はほんとうに酷いものだった。

 太い鞭で打たれたのだろう。ところどころ衣服が破れ、その下にある皮膚から滲み出た血液が千切れた着衣に紅い染みを滲ませている。

 胸も腕も足も……同じような状態だった。


 ——見た目は酷いけれど、傷は深くなさそう。


 胸元に触れれば思いのほか固い。鍛え上げられた体躯のおかげで、皮膚に鞭が食い込むのをかろうじて防いでいるのだろう。

 

 胸元の衣服を開き、傷口に清潔な木綿のハンカチに含ませた消毒液をそっとあてていく。そうするあいだも気になってしまうのは、膝の上にある男の顔立ちだ。


 意志を持つ精悍な眉の下、しっかりと伏せた長い睫毛は翼のようで——。その下に潜むあの青い瞳を思えば、年頃のマリアだって胸がそぞろに騒めいてしまう。


 ——私ったらこんな時に不謹慎。この人のお顔が整いすぎてるんだものっ。でも……綺麗なお顔にも鞭がかすってしまったわね。後で頬の傷も消毒しましょう。


 そのまま消毒を続けようと、マリアが男の胸元をごそごそまさぐっていると。

 突然伸びてきた大きな手のひらで、手首をがっしりと掴まれた。


「ひっ」


 驚いてのけぞり、反射的に手を引こうとしたけれど。男の腕の力は強く、マリアの抵抗などびくともしない。


 視線を下に向ければ……閉じていたはずの男の目蓋がいていて、翼の睫毛の下のあおい瞳がマリアをじっと見上げている。


「きゃぁ!」


 ——やだ、まさか目を覚ますなんて?! あの看守、今日は動けないって言ったじゃないっ。


「……さっきから俺の胸をいじって何をしてるんだ?」

「なっ、何をって。あなたの傷の消毒ですけど……っ。いけませんか?」


「消毒……? いや……君の胸が、俺の顔にあたっている」



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