紳士的な囚人



*——————————



 湯浴みを済ませて自室のベッドに腰をかければ、今日一日に起こったことがじんわりと胸の内にのしかかる。

 掃除、洗濯、うまや番と持ち場を転々としてきたけれど。失敗を繰り返して厨房を追い出された挙句、今度は殺人容疑のかかった囚人の配膳係だ。食べない者に食事を運ぶなんて、マリアにとっては最悪の持ち場だと言ってもいい。


「囚人って、どんな奴だった?」


 マリアの隣のベッドに就寝の準備を済ませたルームメイトのクロエが腰をかけ、興味深げに尋ねた。


「地下牢に行くなんて考えただけでも恐ろしい! あそこは看守の柄も悪いって聞くわ。マリア、手を出されなかった? 囚人と目を合わせるの、怖かったでしょう?!」

「それがね……あんまり囚人っぽくないの」

「囚人ぽくないって、それはどういうこと?」

「う〜ん」


 収監されてから十日以上、もちろん風呂には入っていないだろうし、髪も髭も伸びていたけれど。特徴のない地味な服装と風貌に醜悪さはなく、それどころか、月光の下で見た彼には平民らしからぬ孤高の気品すら感じた。


「何て言うか——綺麗だった」

「はっ?」


 ——でも。そう見えたのはお月様のせいかも知れないわね? 青い月灯りの下では石ころでも輝いて見えるもの。


 マリアが「床に落ちたパンを拾って食べた」と言えば、クロエが驚いて素っ頓狂な声を上げる。


「ちょっとマリア、平気……? お腹痛くなってない?!」

「ううん、平気みたい」


 祖国を追われたマリアは、時には生きるために傷みかけたものでも口にしなければならなかった。幾度もお腹を壊しながら、この三年で胃腸が随分と鍛えられたと思う。


 さすがに床に散らばったという心構えを持つのは簡単じゃなかったけれど——。

 結局、男の制止があって窮地は逃れたものの、ノルマンが作ったものを台無しにしてしまったのは確かだ。


「囚人の食事なんて適当に運んどきゃいいのにっ。どうせすぐ死刑になる男に、マリアがそんな思いをしてまで食べさせようとする意味ないわよ。だいいち、なんですぐに処刑されないの? 囚人に与える食事代だって無駄じゃない」


「冤罪だと言い張って、殺人の罪を認めないのですって」

「まぁ、どうだって私らには関係ないけどさ。マリアも、次からとっとと食事を置いて帰ってくることね。むしろ食べないって言うのなら、もう届けなくてもいいんじゃない?」


「食事を届けることが今の私の仕事だもの。それにあの人が死刑になるって、まだ決まったわけじゃないし」


 マリアを制したあと、長い睫毛を伏せて男は言った。


『正論を威勢良く豪語していても、君のような女性ひとが床に落ちたものを本当に口にするとは思わなかったのだ。情けないことだが自分の不甲斐なさに辟易して、その苛立ちを君にぶつけてしまった。』


 不快な思いをさせてすまなかったね——と、男はひどく真面目な顔をして謝罪を口にし、マリアに頭を下げた。


 ——あの言葉と態度を信じればだけど……。思っていた感じとは少し違っているみたい。


「情報通の仲間に聞いたんだけど。あの囚人、捕まった時からおかしな事ばかり並べ立ててるそうよ? 看守たちの間では狂人だとか言われてるって。握ってた剣にべっとり血がついてるのに、これは冤罪だとか、自分は知り合いだから宰相様を呼べだとか」


「宰相様って、あの宰相様……?」


「ええそう! 私たちメイドの憧れのまと、ロベルト様っ。それにね、あの囚人ったらあろうことかロベルト様のことを呼び捨てにしたらしいの……ロベルト・バルドゥを呼べ! って。 ほんっと失礼な男よね? 西の砦近くので人を殺して捕まった男が、ロベルト様の知り合いなわけがないじゃない。そんなの誰も信じやしないわよ」


 そもそも、国領は狭くウエストエンパイア(西帝国)のわずかな土地の上で数百名の農民たちが幾つかの集落を囲むように暮らし、平和だけが取り柄だとも言われるこの小さな国で殺人事件とは穏やかではない。


「クロエ。あなたは捕まっている彼のこと、見たことがある?」

「ふふっ! そんなのあるわけないじゃない」

「そう……よね」


 捕まってすぐに投牢される囚人など、わずかな限られた者たちの目にしか触れやしない。クロエの想像上はきっと、彼は狂気の悪人そのものだ。


「もしもクロエがあの人と会って話しても、さっきと同じことを言うのかしら」

「もちろん言うわよっ。だって人殺し容疑のかかった囚人なのよ?」


 怜悧な眼光は狂人のものとは思えない。

 マリアはむしろ、あの男が訴える話に真実味を感じてしまうのだ。


 ——もしも冤罪だったら……。 それにあの人が本当に宰相様の知り合いだったら……?


 それを証明するすべは無いのだし、仮に男の言う通りだったとしてもマリアにはどうする事もできない。それに一つ気掛かりなことがあった。

 地下牢を出るとき、あのニヤけた看守がマリアを呼び止めて言ったのだ。


『あいつぁ明日から拷問にかけられる。あんたも覚悟して来なよ。 

 やってもやってなくても捕まった時点でハイお終い! けどよ、万が一にも冤罪だったら警吏の奴らは上からお咎めを受けちまうからな。

 罪を認めさせるまでは殺せねぇってわけだが、奴がこのまま口を割らなきゃ死罪になる前にコト切れるかも知れんぞ?

 まぁ、それまでぜいぜい優しくしてやれや。』


 キヒヒ! と最後に笑った看守のには棘があった。

 拷問にかけられるというあの男——。食事を運ぶだけの自分に、いったいどんな『世話』ができると言うのだろう? 


 ——それに『覚悟して来なよ』って……。


「でもさ、食事を届けるのって昼と夜の二回だけよね。あとの時間は何して過ごせばいいか、メイド長様から何か聞いてる?」


「そうよね、言われてみて気が付いたわ。さすがに何もしないってわけにはいかないでしょうし」


 ——明日の朝、アレッタ様のところに行って聞いてみよう。


「じゃあ明日も頑張ってね。おやすみ、マリアっ」

「ええ、クロエも。おやすみなさい」


 灯りが消され、夜の闇と静寂の時間がやってくる。


 ——拷問って。あの人、何をされるの……?


 拷問という言葉はただそれだけで恐ろしい。

 寝具の中に潜り込み、ぞわりと肩を撫でる恐怖心のなか、マリアは静かに目を閉じた。

 


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