取り引き
負けてなるものかと、マリアは長いまつ毛に縁取られた瞳で男をぐっと見上げた。
月あかりを背負った背高い男の影は覆いかぶさるほどに大きく、目の前に立ちはだかる者が人殺しかも知れないと思えば恐怖心が湧き上がる。
——怖い、でも。
ほんの一瞬が何倍にも長い時間に感じられる。刹那、月を見上げるこの男のまっすぐな眼差しがよぎった。
「本当に、あなたが殺したの?」
頭の中の疑問が、思わず口を突いて出てしまう。即座に後悔したが遅かった。
マリアを見下ろす大きな影のなかで、男の見開かれた青い
「…………」
一呼吸置いて、男は頭上にかざしていた腕を下ろした。大きな影が鉄格子からすっと遠のく。
「君に話すことは何もない。それを持って下がれ」
「っ、ですから! ご飯はちゃんと食べてくださいと……」
ギュルルッ。
張り詰めた緊張を破るような間抜けな音がした。
信じたくなかったけれど、どうやらマリアの空腹が悲鳴を上げたらしい。
背すじが縮こまる思いで男の背中を目で追う。だけど男が振り向く様子はない。
——よ、良かった……。お腹の音、聞こえなかったみたい。
マリアも花の十七歳。もう子供じゃないし、乙女心だってちゃんとある。いくら囚人だとはいえ、この美しい男にお腹の音を聞かれるなんて恥ずかしい!
「こ……格子扉を開けますね。食事は、ここに置いておきます」
配膳のために作られた四角い格子扉の向こう側に小卓と椅子がある。男が食べても食べなくても、マリアの仕事はこの小卓の上にトレイを置くことだ。
「何か腹に入れた方がいいのは君じゃないのか?」
いきなり飛んできた声にヒヤリとした。慌てて見れば、背中を向けていた男がいつの間にかこちらに視線を向けている。
「さっきの、き……聞こえたのですか?!」
返事の代わりに男は拳を口元にやり、コホッと小さく咳払った。
「ぁ……お皿を割ってしまって。それで今夜は食事抜きなんです」
——って、私ったら。何を丁寧に説明してるのかしら!
「わ、私の事はいいので。あなたはさっさと食べてくださいっ」
もうほとんどやけくそに言えば、男の口元が緩やかな弧をえがく。
「どうやら君は、どうしても俺にその食事を食べさせたいようだ。ならば取引をしよう。俺がこれを食べたら、君はその残りを食べる。君は与えられた
皿の上にあるものは……カビたパンと冷めたスープ。
男が先に口をつけたものをマリアに食べろと言っているのだ。
会ったばかりの、それも素性も知れぬ囚人の残り飯を食べる事をマリアが嫌がるとでも思ったのだろう。
——私への嫌がらせのつもりでしょうけど? 私は普通の女じゃありません。祖国を追われてからこの三年、針のむしろを歩いてここまで来たのですから。
「もちろんです。何も問題はありません」
そうか。と呟いて男はパンを手に取り、
「さすがに身体に悪いものまで口にしろとは言わぬだろう?」
カビた部分を丁寧に千切って取り除く。
そのあとは素早くパンの半分を口に入れ、スープの半分を飲み干した。その食べっぷりの良さが思いがけず、マリアはほっと胸を撫で下ろす。
「次は君の番だ」
昼食を摂ってから、ゆうに半日が経っている。空腹は否めなかった。
——なんだか変なことになっちゃったけれど。食事を分けてもらえるのには感謝しなくちゃ……。
マリアが格子扉の奥のトレイを自分側に引き寄せようとしたとき。
突然に男の腕が伸び、トレイを鉄格子の外側に突き飛ばす。その拍子に深皿が飛んでマリアのそばの床にスープが飛び散り、足元にパンが転がった。
「な……っ、何を?!」
驚きすぎて言葉を失ってしまう。なのに男は至って涼やかだ。マリアが焦るのを見て、面白がっているのだ。
「すまない、手が滑った」
——わざとだ。わざとトレイを押したんだ。
「……どうしてこんな事をっ」
「与えられれば、君はどんなものでも食べるのだろう?」
そう言って顎をしゃくり、床に落ちたものを指し示す。
「そのパンとスープは俺が君に与えたものだ」
——スープ?
男は確かに言った、「パンとスープ」。
足元に転がったパン、そしてスープは……
マリアは、無惨にも黒い土で汚れた床に、それまでスープだった水分としなびたキャベツが散らばっているのを目で追った。
「ひどいわ……」
うすら笑うでもなく、睨みつけるでもなく。マリアがどう出るのかをじっと伺いながら、男は無表情を貫いている。
——神様から与えられた大切な食べ物を、こんなふうに扱うなんて!
マリアは静かに、床に膝をつく。
転がったパンを拾い上げた。
——この小さなパンだって。きっと美味しく食べて欲しいと、誰かが焼いてくれたものに違いない。
「いただきます」
岩のように固くなったパンを、華奢な指先に力を込めて千切る。小さくなったかけらをゆっくりと口に含んだ。
一片を喉に通せば、また千切って口元に運ぶ。冷たい床に膝をついたまま、マリアは静かに咀嚼する。
男は目を細め、その様子を見つめていた。
——スープだって。これは
厨房にいたマリアは、このスープが作られるところを目の当たりにしたのだ。
マリアが好きな優しいシェフ、ノルマンの笑顔が無惨に散らばったキャベツと重なった。
いたたまれなくなって目頭がじんわり熱くなる。
この男の嫌がらせが悔しいんじゃない。人の心がこもったものを乱雑にされたのが辛いのだ。
パンを食べ終えると、今度は床に両肘をついた。震える両手を地面に向かって差し伸べて、マリアは目を閉じる——…
——大丈夫……。ただ床に落ちただけ。食べる物には変わらない。
華奢な白い指先が地面に付くかつかないかの、そのとき。
「おい、待て」
マリアを眺めていた男の、
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