月明かりの下で



「きゃっ」


 気を抜いた拍子に転びそうになる。大きなトレーが邪魔をして足元がよく見えず、階段を踏み外しかけたのだ。


 マリアの声を聞きつけたのか、看守が階段下の廊下の奥から走り出てきた。


「おい、気をつけろ!」

「驚かせてすみません……っ。転びそうになりましたが、もう平気です」


 ——危ない。こんなところでもドジをしでかすところだった。


「君がマリアか?」

「はい。囚人の配膳を命じられました」

「話は聞いてる。こっちだ」


 無精髭を生やし、身なりに気を遣っていなさそうな看守はさも面倒くさそうに顎をしゃくって合図を送る。


「どうせ死刑になる男だ。食事を与えるなんざ、適当にすりゃぁいい」

「適当に、って……そうはいきません。それに死刑になるって、まだ決まったわけじゃありませんよね?」

「高貴なお方の命を奪ったんだぜ? 罪は重いさ。数日後にゃ判定が下りて死刑が言い渡されるだろうよ」


 ——死刑。


 それは人ごとだと思うからこそ平常心でいられるものの、自分の身に起こるかも知れないとあればとんでもない非常事態だ。

 殺人を犯した極悪人でも、恐怖で暴れたり自暴自棄になってしまうのは仕方がないと思う。


 ——そりゃあ、食欲もなくなるでしょう。


 この先会うであろうその囚人がどんな男だかは知らない。マリアに与えられた情報は、男が殺人の容疑をかけられているということ。それに『じゅうぶんに食べていない』ということだけだ。


 ——罪を犯したとしても、違っていても。せめてお腹だけは満たして欲しい。


 マリアが何年にもわたって虐げられながらも、心を病むことなく過ごすことができたのは、きちんと食事を摂らせてもらえたからだとも言えるのだ。


「ほら、あそこだ」


 看守が顎でしゃくった先——狭い廊下が開けた向こう側は、思いのほか明るい。

 地下牢といえども天井に近い場所に小さな窓があり、そこから白々と月光が差し込んで、石造りの床に鉄格子の影を規則正しく落としていた。


 ——この奥に、本当に人が……?


 他に捕らえられている者がいないせいか、辺りは水を打ったように静かだ。

 

「俺もこれから看守部屋で食事を摂る。なんかあったら大声で叫べよ? 助けに来てやっから」


 マリアの顔をまじまじと見つめれば、まだ若者らしい看守はきしし! と笑う。


「お前さんの耳に入ってるかどうかは知らんが。、見かけによらずなかなかの暴漢だぜ? 気量良しの女なんか見たら何をすっかわかんねぇよ。まぁお前さんに何があっても俺は責任取らんがな!」


 看守の言葉は、マリアの心を縮こませるのにじゅうぶんだった。

 ただでさえこんな場所に一人きりで来ること自体が恐怖なのだ。


 看守の背中が廊下の奥にすっかり消えてしまっても、マリアは次の一歩を踏み出せずにいた。


 ——鉄格子の小窓を開けて、食事を乗せたトレイを中に入れるだけよ。きっと平気……。看守が言ったようなことなんて、何も起こらないわ。


 青白く照らされた廊下は相変わらずしんと静まりかえっている。


 ——もしかして、寝てるのかしら?


 囚人が眠っているかも知れないと思えば、ほっとして自然と足が動いた。一歩、また一歩と、鉄格子の影を踏みしめながら足を進めていく。


 一番奥から二番目の牢に差し掛かったとき、思わずハッと息を呑んだ。

 すぐそばに人がいる。


 独房の奥——ちょうど小窓から月光が差し込む場所に、その男は窓を見上げながら静かに座っていた。


 男の薄灰色の髪に青白い光が当たり、銀色に煌めくように見える。

 瞳の色は、薄いブルーだろうか。


 男は眠ってなどおらず、食い入るようにじっと、四角い小さな鉄格子の向こう側にある月を見上げていた。


 ——なんて……綺麗なひと……。


 口元に無精髭が見える。髪も少し伸びていて、薄灰色の前髪が男の目の上に掛かっていた。

 それなのに——彼の放つとも言うべきか。

 前髪や髭に隠されていても、およそ囚人らしからぬその秀麗な面輪を容易に想像することができる。生前は美しいと名高かった異母兄弟をいやというほど見てきたマリアですら、思わず見惚れてしまうほどに。


 ……カチャン。


 その時、トレイに乗せたスプーンが揺らいで小さな音を立てた。そしてその音は、しばし続いた静寂と沈黙を破る合図となった。


「それを牢の中に入れる必要はない。持ち去れ」


男の艶やかな声がしんと静まり返った独房に響く。

 地下牢の重苦しい空気が、一瞬にして冴え渡ったように思えた。


——顔だけでなく、声も綺麗。


 男はマリアの存在に気づいていたようだ。なのに顔を向けようとはせず、月を見つめたまま言葉を放つ。


「あ……あのうっ……」

「聞こえなかったのか? 持ち去れと言っている」

「夕食ですが、少しも食べないのですか?」


 そのとき、男が初めてぎろりと瞳孔を動かした。


「君は誰だ……看守ではなさそうだが」

「いいえ。私はただの下働きの女です」

「下働きの女がなぜここにいる」

「私はマリアと申します。今夜から、あなたの配膳の担当になりました」


 マリアに顔を向けることなく、男は無関心を絵に描いたように軽く微笑み、ふ、と鼻を鳴らした。


「この城の役人は馬鹿なのか。囚人の独房に女を寄越すなど」

「ですから。私はあなたの食事の担当です。食事係に男も女もありません」

「とにかく今は要らぬ。俺のために足を運んでくれたのなら申し訳ないが、下がってくれ」


 ——アレッタ様がおっしゃっていたように、夕飯も食べないつもりですね?!


 そう思えば俄然、どうにかして食べさせたくなる。


「お昼も少ししか食べていないのでしょう? それではお腹がすきます」

「……」

「夜中にお腹が鳴ってしまいますよ?」

「余計なお世話だ」

「それに……。食べずに痩せてしまっては、せっかくの美丈夫が見る影も無くなってしまいます」


 それまで静かに座っていた男が、ゆっくりと立ち上がる。そのまま無機質な床を素足で歩き、鉄格子を挟んでマリアの目の前に立ちはだかった。

 近づけば男は思いのほか背高く、ドン! と唐突に男性らしく筋肉のついた二の腕を鉄格子に押しつければ、二の腕の下からマリアを威圧的に見下ろす形になった。


「何度も言わせるな。今は要らぬと言っている」


 男の剣幕にはさすがに怯んだが、マリアも負けてはいない。すっくと顔を上げ、男の秀麗な面輪を凛と見据えた。


「お言葉ですが……! 食事は大事です。人の心と身体を作るものです。おろそかにしてはいけないものです。食べたくとも食べられない人たちだっているのです。食べるものがちゃんとあるのにそれを無碍にするなんて……! 殺人罪よりも罪深いことだわ」


 形の良い眉根をぐっと寄せた男の、刺すような薄いブルーの眼差しが僅かに揺らぐのが見えた。

 先ほどまで穏やかだった声色が変わる。その場の空気をも彼の気迫に震えるほどに、冷たく、低く。


「何だと……?」


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