新婚夫婦と7つのお茶 3

 ライセル王国の王都、ローグス。ここでもっとも「上流の」店が集まると言われるブラネル通り。王国を代表するブランドが集まる一角に、これもまたライセルを代表する紅茶店と名高いブラッドリー商会の本店はある。


 ブラッドリーズの扱う商品は下町の食料品店の一角にも置かれているような庶民向けのものから、百貨店などに置かれる中流向けのもの、さらには王宮にも納入されるという超高級品まで網羅しており、おおよそライセルの国民であれば一度は飲んだことがあるだろう。そんな商会の本店兼本社事務所は、周囲の高級店に負けない上品なレンガ造りの重厚な建物。ガラスはいつもきれいに磨き上げられ、扉の上はブラッドリーズの「四葉のクローバー」をかたどったエンブレムがさり気なく彩る。


 初夏の爽やかな風に、日差しが明るい昼前の時間。通りは手入れされたコートにハット、杖を持ったビジネスマン達が行き交う。もっとも店内はそんな喧騒とは縁がない。帳簿をめくっていたブラッドリー商会本店の支配人、ブライト・ハートウェルはそんな静かな店内にドアが開くベルが鳴ったことで目を上げた。


「おや、奥様。ようこそいらっしゃいました。今日はお早い訪問でございますね」


 初夏の爽やかな気候に合わせてか、薄桃色のふんわりとした生地を使ったドレス。まだ少女らしさを感じさせる愛らしい装いでありながら、上流の奥様としての落ち着きもある彼女は最近この店の主人に嫁いだ新しい奥様だ。


「はい、今日は午後にボルドー侯爵夫人に招待を頂いておりまして、先日ミスブリストルが新しいフレーバーがもうすぐ出来上がると話していたのを旦那様にお話したところ、夫人へのプレゼントにしたらどうかと」

「それは良い考えです。確か一昨日完成したと言っておりましたから。夫人にお渡しすれば皆様に広めてくださるでしょう。ミスブリストルでしたら奥に。案内いたします」

「いえ、構わないわ。時間もまだあるしお店も見回ってみようと思って。手を止めてしまってごめんなさい」

「いえいえ、お気になさらず。では御用がありましたらいつでもお呼びくださいね」


 ブラッドリー夫人、シンシアがこのお店に出入りし始めた当初は必ずブライトか副支配人のロイドが付き従ったものだが、彼女が店に慣れてきてからはこうして彼女一人で店を回ることも増えた。


 先代の夫人がそうだったようにシンシアもまたこうして時折店を訪れては商品を見回る。社交界の多くの人々は彼女を「ブラッドリーの奥様」と認識しているため、そうしていると声をかけられることもあるが、店の商品の知識にいついても詳しくなってきた彼女は持ち前の明るさと名家出身ゆえの落ち着いた振る舞いでうまく立ち回っている。はじめの頃こそ心配そう見ていた従業員たちも今は彼女がいても自然に振る舞うようになっていた。


 ブライトがこの商会に入ったのはまだほんの子供の頃だ。上流の屋敷に出入りする食料品店を営む夫婦の間に生まれた彼は多くの子供がそうであるように、一通りの読み書き計算を覚えると街の店や屋敷に奉公に出るようになった。その時お得意先の紹介で働くようになったのがブラッドリー商会。配達人からはじめた彼はメキメキと頭角を現し、先々代に気に入られて、商会の外交員として引き上げられることとなった。ライセル中を飛び回り、熱帯の国に駐在してこことは全く違う文化に右往左往したのも今となっては良い思い出だ。


 そんな彼にとって現在の主人であるトーマスは3代目に当たる。先々代は自分を見出してくれた父親、先代は共に世界を駆け巡った同士とすれば、今の当主は子供の頃からその成長を見守ってきた子供のような存在だ。もちろん全員彼にとっては敬うべき主人であり恩人であるが、トーマスについてはどうしても子供の頃の幼い姿が目をよぎってしまう。


 だからこそ、トーマスが急にこの商会を継ぐことになり、婚約者に捨てられて、その悲しみを払拭するようにがむしゃらに働いていた頃には、なんとかこの大きな商会を背負おうとする彼を応援しつつも心配もしていた。当時すでにこの本店の支配人だった彼は自身も目が回るほど忙しかったが、ほとんど屋敷に帰らない主人の姿にいつか倒れないかと思っていたのだ。


 そんな彼にとって、ブラッドリー夫人となったシンシアの登場は歓迎すべきことだった。結婚当初こそ妻に対して冷遇はしないものの、ほとんど無関心だったトーマスに嫌な予感がしていたブライトだったが、シンシアは持ち前の明るさでトーマスの心を開き、好奇心と聡明さで認められるようになった。


 シンシアがトーマスに勧められて店を訪れるようになると、従業員たちは先々代や先代の奥様にシンシアを重ねて喜び、新商品の紹介だ、新しいブレンドの試飲だ、とあれこれと話しかけるようになった。


 それだけではない。トーマスの過去に関連するいろいろを乗り越えた結果、二人はようやく心を通じ合わせ、少し遅めの新婚生活の始まりを楽しんでいるように見える。働き詰めだったトーマスも前に比べれば屋敷に戻るようになったし、休みもとるようになった。これは特にトーマスの周りで働く従業員にとっては嬉しいことだった。


 そんなことを考えつつブライトは奥の方へ向かったシンシアを見る。ちょうど作業場でブレンダーのミスブリストルと話しているようだ。シンシアの感性に惚れ込んだ彼女は新しいブレンドができる度にシンシアに試飲をお願いしていた。ミスブリストルから渡されたカップを手に微笑むシンシアを見たブライトは、そろそろ10時のお茶の時間となることに気付いた。今日はお客様も少ない。せっかくだし試飲ではなく、シンシアにこのままお茶をしていってもらっても良いかも知れない。そう思ったところでブライトはある考えを思いつき、彼女のほうへ歩いていった。




 ブラッドリー商会本店の2階から上は事務所となっている。事務所とはいっても先々代がこの本店を構えた時から続くここは、やや古めかしいものの質の良い調度品が設えられた重厚な雰囲気がしている。商談に訪れた商人達はまだ百年経っていないにしては歴史を感じさせる空気と、先代、先々代が世界中から集め、さり気なく飾られた品々を見て、改めてこの商会の凄みを感じるのが常だった。


 しかし現当主であるトーマスにとってはもはや馴染みの場所。今日も朝から各地から上がってた報告を確かめているとあっという間に10時を過ぎる。とはいえ今日は特に商談も入らず穏やかな日。少しゆっくりとお茶にでもしよう、と側で補佐をしていたロベル達にも休憩を与え、ベルを鳴らす。


 ライセル王国の人々にとって10時のお茶はとても馴染みの深い習慣だ。特に朝早くから働く人にとっては昼の休憩までの間に一息つく大切な時間だ。常に忙しくしているトーマスだが彼もまた、どれだけ忙しくても10時のお茶の時間は必ず取るようにしていた。そしてその時間は基本的に殆どいつも同じ。そのため商会の従業員達もトーマスの元へお茶を運ぶ時間は心得ているのだが、時間を測ったかのようにやってきた女性にトーマスは目を丸くすることとなった。


「シンシア! どうしてここに?」


 シンシアはブラッドリー商会の当主の妻で、この事務所に出入りすることもある。だから彼女がここにいること自体は不思議ではない。不思議なのは彼女が湯気を立てるポットとカップ、そして砂糖壺やミルクジャーにビスケットの載った小皿までしっかり揃ったカートを押していることである。


「ボルドー侯爵夫人にミスブリストルの新作をお贈りすると良いとおっしゃってましたでしょう? それで来たのです。そうしましたらブライトさんがせっかくだったら、旦那様と10時のお茶を飲んでいってはどうか、と勧められまして。旦那様もミスブリストルの新作は気になるでしょう? お邪魔でなければですが」

「邪魔な訳はない。でもなぜシンシアがポットを?」

「侯爵夫人の前でいきなり淹れるのは不安だったので、一度試しにミスブリストルの前で淹れようとしたのですが、そうしましたら、だったら旦那様に10時のお茶を淹れる役割を変わってもらえば良いと皆様が」

「そういうことか。いや、まさかここでシンシアのお茶が飲めるとは思っていなかったから嬉しい。さ、こちらにおいで」


 トーマスがシンシアと仲を深めて以来、屋敷や商会の人々はこぞって二人の時間を作ろうとする。それは子供の頃から知るトーマスにようやく訪れた春を応援しようという使用人や従業員達のちょっとしたおせっかいだった。


 トーマスとしても自分が、自分から妻を誘う気概のない性分なことは理解しているので彼らの気持ちはありがたく受け取ることとしていた。


 トーマスに案内され、部屋の奥へ進んだシンシアは予め用意しておいたお茶を2つのカップに注ぎ分ける。今回の新作はふんわりと甘い杏の香りが特徴だ。本来午後のお茶向けに作ったという、落ち着いた香りが部屋に広がりシンシアはほっと息をつく。と、そこで彼女はトーマスが彼女の方を凝視しているのに気付いた。


「どうかされましたか?」

「いや、今日はお茶の準備はしてきてるんだな、と思って。特に気にしなくて良い」

「ミスブリストルとこの部屋の側の厨房をお借りしました。彼女に淹れ方を指導いただきたくて」

「確かにお茶の淹れ方はそのお茶をブレンドした者に聞くのがいちばんだな」


 トーマスが彼女を見ていたのは、それがお茶を入れてもらう時の癖になっていたからだ。歌いながらスプーンを動かす姿はもはや日常で、どこかで準備をしてから来ると少し残念に思ってしまう自分にトーマスは苦笑した。


「どうぞ、素敵な香りですよね」


「あぁ、さすがミスブリストルだ。華やかな茶会でもこれなら存在感を示せるだろう」


 そう言いながらトーマスはカップを手に取る。一口飲むと、芳醇なお茶と杏の香りが広がる。予想通りの出来に満足しつつ、シンシアにも勧める。


「さ、シンシアも冷めないうちに。ビスケットも美味しいから食べるといい」

「ありがとうございます。このビスケットは屋敷では見ないですわね」

「あぁ、ロンバルディ社という菓子会社のビスケットだ。割とあちこちに出回っているんだが、どちらかと言うと大衆向けだから。料理人も菓子職人も雇っている屋敷で見ることは少ないが父がお茶とつまむように商会にいつも置いていたようで、私も気に入ってしまった」

「そうなのですね。いただきますわ」


 そう言ってシンシアはビスケットを一枚つまむ。さっくりしていてバターの風味にほんのりとした甘さ。良くも悪くもなんの変哲もないビスケットだがお茶の味を引き立ててくれて美味しい。そしてシンシアはいまだよく知らないことの多いトーマスの秘密を知れたようで少しうれしく思った。


「美味しいですわ」

「それは良かった。父上は忙しいと、これで昼食を済ませてしまうこともあったらしいな。ブライトに聞いた時やっぱり親子だと思ったよ」


 普段あまり両親の話をしないトーマスの言葉にクスリとしつつ、気になったことがあったシンシアは努めてしかめっ面を作る。


「食事はきちんと取らないといけませんわよ」

「いや、父上の話だ。私はそんなことは……」

「本当ですか?」

「たまに、たまにあまりに忙しいとな……そういうこともある」

「ふふっ、お義母様もこうしてお義父様をお叱りになっていたのかもしれませんね」

「母上はよく商会に出入りしていたからな。それは大いに有り得るだろうな」


 そう言って二人揃って笑い合う。時間はほんの少し。一杯のお茶にビスケットを数枚。それでも二人でお茶をすればそれは特別な時間になるのだった。

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