12

 夫との初めてのダンスを楽しく踊ったシンシアだったが、やはり慣れないことをしたせいか息が上がってしまった。そんな様子を見たトーマスは少し休むようにと壁際へと連れて行き、果実水を渡す。その言葉に甘えることにしたシンシアは椅子に腰を下ろす。


 トーマスはシンシアの側にいようとしたようだが、知り合いに声をかけられて、シンシアの隣から離れていった。呼吸が落ち着いたら自分もトーマスのもとへ戻らないと、そう思いつつ、会場を見回していると、


「あら、あなたがブラッドリーの奥様?」


 と声をかけられる。以前お店でも同じように声をかけてきた人がいたが、その声音はその時よりずっと挑戦的だ。立ち上がり視線を上げる。シンシアの前に立ったのはエリー・アーシェル子爵夫人だ。


「はい、シンシアと申します。よろしくお願いいたしますわ」


 膝を折りつつ、シンシアは考える。一応今回のボルドー侯爵が招待した貴族の名前は覚えてきたし、アーシェル子爵家はブラッドリー同様貿易に長けた家だから存在は知っていたが、個人的な付き合いはない。


 頭の中で疑問を浮かべるシンシアだが、エリーはそんな彼女の様子にはお構いなしに続ける。


「没落寸前のレイクトンの娘がこんなところに来るなんてね。まあ良いわ。私が言いたいのは一つ。今ならまだ遅くないわ、トーマスと別れなさい」


 突然の言葉にシンシアはポカンとする。いくらこちらが庶民であちらが子爵とはいえあまりに無茶がすぎる。そんなシンシアの様子に更に苛立った様子のエリーは


「あのね、ブラッドリー家は商人とはいえ、もうすぐ貴族になろうという我が国を代表する大商人よ。それに対してレイクトン家は歴史だけが取り柄のちっぽけな家。釣り合ってないのよ」

「そ、そう言われましても」


 一方的なエリーの物言いにシンシアが戸惑っていると、こちらの様子に気付いたらしいトーマスがこちらへ来る。


「おや、アーシェル子爵夫人。お久しぶりです。ところで私の妻になにか御用で?」

「え、ええ少し。それよりトーマスも久しぶりね。あのあなたが結婚したと言うからどんな冷めた夫婦になったのやら、と思っていたら意外と仲が良いそうで。私はそろそろいくわ」


 トーマスだけならともかく、向こうで厳しい顔をするボルドー卿の視線を見つけたのだろう。エリーはさっとドレスの裾を翻し人々の輪に入っていく。一方トーマスはシンシアの側に行き腰を抱いた。


「大丈夫だったか、シンシア? なにか言われたか」


「いえ、なんと言いますか、早く旦那さまと別れて欲しいと」


 そこで声を切ったシンシアは不思議そうな顔を向ける。


「私は旦那様に言われない限り離婚するつもりはありませんが、彼女はどうされたのでしょう? なんというか失礼な方ですわね。旦那様のお知り合いですか」

「いや……、アーシェル家とも取引はあるから知っているが。特に特別親しいわけではないな。あの家はそう重要な取引先でもないしな。まああまり気にするな。これからひどくなるようなら言ってくれ」


 そう言うと、トーマスはそのままシンシアをエスコートし、人々の輪へと戻っていく。疑問は解決しなかったが、ブラッドリー家の妻であれば、知らない間に恨みや妬みを買うこともあるだろう。そう思ったシンシアは一旦彼女のことは忘れることにしたのだった。




 ところがその後もアーシェル子爵夫人の嫌がらせはやまなかった。まずご丁寧に子爵家の紋章が入った手紙が届いた。文面こそ丁寧だが要約すれば、レイクトン家の令嬢はブラッドリー家にふさわしくない。早く別れるべきといった内容だ。


 更に極めつけは、彼女が社交界で噂を流し始めたことだった。


「そう言えばシンシアさん。最近耳障りな小鳥のさえずりをよく聞くのだけどお気づき?」


 とある茶会でボルドー侯爵夫人と話していたシンシアはそう尋ねられる。聞いたのはシンシアに対してだが、その視線は周囲の令嬢や夫人たちにも向いており、明らかに牽制している。


「え、えぇ。でも主人は気にするなと言いますし、夫人のように味方してくださる方も大勢いらっしゃいますから」


 あまり貴族社会にはでないシンシアだが、それでも店で貴族の夫人と話したり茶会に呼ばれたりすればそれなりに自分がどう噂されているかはわかるし、自分の立ち位置を常に把握しておくのは商人の妻として必須だ。


 だからどうやらアーシェル夫人が流しているらしき噂も耳にしていたが、噂そのものについてはあまり気にしていなかった。


 噂というのはレイクトン家がブラッドリー家の弱みを知って、その豊富な財産を目当てに政略結婚を申込み、まんまとトーマスの妻となったシンシアは商会の財産で贅沢を楽しんでいる。トーマスはそんな妻を苦々しく思っており離婚を画策しているが、弱みを握られた手前それも出来ず苦労している、というものだ。


 もっとも、そんな噂を信じている人は少ないし、ボルドー侯爵夫妻を始め、幾人かの高位貴族がこちら側に立ってくれたことで噂はすでに沈静化し始めている。いくら噂好きの婦人たちでも「その結婚を仲介したのは私達だ」とボルドー侯爵夫妻に笑顔で言われてしまえば、その口をあっという間に閉ざすし、そもそもブラッドリー商会自体、そんなやわだとも思われていない。弱みを握られたら、その握られた弱みごと相手を握りつぶす可能性の方がよほど高いと思われているのだ。


 そして目の前の侯爵夫人いわくそもそも「アーシェル夫人がそう言っていた」なんていう噂になっている時点で彼女の人望が思いやられるらしい。確かにそれもそうだ。


 ただ、シンシアは噂の中身とは別の部分で気になることがあった。


「でも、私なにかアーシェル子爵夫人に恨みを買ってしまったのでしょうか? もしくはレイクトン家かブラッドリー家がアーシェル家に恨まているのか」


 シンシア個人としては彼女に恨まれる覚えはない。商売の世界では恨みも妬みもあるだろうが、だからといって、わざわざ自分とトーマスを別れさせようとするだろうか。


 そう聞くシンシアにエリザベスは思案顔をした。


「まぁ、思い当たる節もあるのだけれど私からは言えないわ。トーマスにも大きく関わることだし」


 そう言うと、エリザベスは居住まいを正す。


「さ、そろそろ行かなくちゃ」


 と言う彼女にシンシアは


「ありがとうございます」


 お礼をし、深くお辞儀をしたのだった。

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