10

 シンシアはうっかりすうるとポカンと開きそうになる口を閉じ、夫に寄り添って歩く。


 ボルドー侯爵のパーティーに招待されたことを明かされてから、慌ただしい日々を過ごしてきたシンシアは侍女と相談に相談を重ねたドレスを纏い、今宵貴族街にある侯爵のタウンハウスにやってきた。


 タウンハウス、貴族たちが社交シーズンに首都で過ごすためのいわば別邸だが、とはいえその広さは目をみはる。充分広いブラッドリー邸の倍はあるだろうか。侯爵はさらに領地にもいくつか屋敷をもち、その本邸はもはや城だと聞いてシンシアは住む世界の違いに戦いた。


 シンシアはあまりの豪華さに震える一方でトーマスは普段どおりだ。王族御用達故に御前に上がることもあるというトーマスにとっては侯爵邸も恐れる場所でもないのだろう。もっともトーマスが御前に呼ばれる、ということは妻たる自分もいずれは共に呼ばれる可能性がある、ということだ。そう考えると、侯爵邸で怖気づいているわけには行かない。なんとか妻の仕事を果たさなければ、とシンシアは決意を新たに前を向く。


 すると、向こうから親しげな笑みを見せつつこちらへ向かってくる男女がいる。男性は、細身の体躯を品の良いイブニングコートで身を包み、一方女性はこちらも華やかで美しいイブニングドレスをまとっている。口を開かずとも周囲の空気を変えるその雰囲気はさすがと、いうべきか。彼等こそがこのパーティーの主役であり、ホスト、ボルドー侯爵夫妻だった。


 彼等の姿を認め、軽く視線を合わせたかと思うと、トーマスはシンシアを彼等の方へ導く。立ち止まる彼等の元へ着くと侯爵が声をかけてきた。


「やぁ、トーマス、それに夫人も、突然の招待にも関わらず来てくれて嬉しいよ」

「こちらこそ、ご招待感謝いたします。ボルドー卿並びに奥様に置かれましてはご健勝のようでなにより。遅くなりましたが、紹介いたします。妻のシンシアです」


 そう言って、腰を折る夫に合わせ、シンシアもドレスの裾を広げ深々と膝を折る。するとボルドー卿は苦笑する。


「ご丁寧な挨拶をありがとう。でも親友なんだからそんな挨拶はいらないといつも行っているだろう?」

「そういうわけには参りません」

「まあそうかも知れないけど、さぁ夫人も楽にして。夫人にお会いするのは初めてだね。私はロベルト。そして彼女が妻のエリザベスだ」


 夫の紹介に合わせてエリザベスが軽く膝を折る。その仕草は何気ないものだが、気品に溢れている。


「さて、それで結婚生活はどうなんだい。トーマスはプライベートでは気難しいところもあるからね。夫人が困らされていなければ良いのだが」


 そう行ってシンシアの方を向くボルドー卿にシンシアがニッコリと微笑む。


「いえ、大変良くしていただいていますわ。私の方こそ家のことも商売のことも教えていただいてばかりで、旦那様の負担になっていなければ良いのですが」

「そんなことはない。シンシアは充分女主人の役割を果たしてくれている」


 シンシアの言葉を間髪入れずに否定するトーマスにボルドー侯爵夫妻はおや? という顔をし、そして微笑む。


「トーマスがそんなことを言うとは。まあ順調そうで何よりだね。トーマスが全然家に帰っていないなんて噂も聞くから心配していたのだが」


 その言葉にブラッドリーの若夫婦は顔を見合わせ微妙な顔をする。


「おや? 図星かい」


 その言葉に答えたのはシンシアだった。


「旦那様はお忙しいようですから、たしかに朝早くから夜遅くまで出ていらっしゃることが多いですが、夜は必ず帰ってきてくださいますわ。夜のお茶のときはお話も出来ますし……」


 その答えにロベルトとその妻は互いに顔を見合わせ、そいてロベルトはクスッと笑った。


「トーマス、最近泊まり込みがなくなった、と本店の支配人が喜んでいたけど、まさかそんなことをしていたのか」

「まぁ、そうだな」


 友人にからかわれたトーマスはやや気まずそうに顔をそらす。もう少しからかいたそうな顔をロベルトはしたが、隣の妻に窘められる。


「さて、もう少し色々聞きたいところなのだが、あまりトーマス達とばかり話すわけにも行かないのが面倒なところでね。少し挨拶回りをしてくるよ。お二人もどうぞ今宵素敵な時間を」


 やや芝居がかって締めくくると、妻の腰に手を回しロベルト達が離れていく。彼等が知り合いらしき男女と話し始めたところでシンシアは詰めていた息を吐き出した。


「緊張したか?」


 普段とは違うシンシアの様子が気になったのか気遣わしげにトーマスが問う。


「え、えぇ、少し。でもお二人共優しそうな方で安心しましたわ」

「あぁ、夫婦揃って地位の高さを鼻にかけない素晴らしい人だ。まあからかうことが好きなのは困ったところだが」

「それだけ旦那様のことを心配なさっていたのですわ。きっと」

「そうだな」

「ところで、先程はごめんなさい」

「ん、何かあったか? シンシアの作法は問題なかったと思うが」


 妻の突然の謝罪にトーマスが疑問符を飛ばす。


「いえ、その夜のお茶会の話をしてしまって。旦那様は隠しておいてほしかったのかと思いまして」

「あぁ、あれか別に構わない。どうせ酒の席にでも呼ばれれば話すことになる。むしろかばってくれたのだろう。私が屋敷にほとんどいないことは事実だというのに」

「それは旦那様がお仕事を頑張っていらっしゃるからですわ。それにしても私達の結婚も噂になっているのですね」

「社交界は常に人の噂を求めているからな。気にすることはない。まあ、ボルドー夫妻は私達のことをかなり案じてくれていたからな。安心させることが出来て良かったと思う」

「えぇ、そうですわね。でも本当に旦那様とボルドー卿は仲がよいのですね」

「まぁ、そうだな。そもそもこの結婚話を持ってきたのが彼だからな」

「えっ、初耳ですわ」


 驚きのあまり、声を上げそうになり慌ててシンシアはボリュームを落とす。


「おや、そうだったのか。ボルドー卿は商売にも明るくてな、シンシアの父上とも仲が良かったらしい。それでレイクトンの窮状を打ち明けられていたところで、いつまでも身を固める気配を見せず、屋敷にも帰らない私を見かねて、この結婚を思いついたらしい。それにお義父上はかねてからシンシアはリーンの田舎町にこもらせるより、都会の新しい空気の中で過ごす方が良いと考えていたらしい。教われば商売の手伝いも充分出来ると言われたからな」


 シンシアを商売の場から遠ざけよう、遠ざけようとしていた父の意外な一面を知りシンシアはポカンとする。


 父では断ることはまず出来ない縁談だ、と言っていたが、たしかに侯爵の仲介であれば断れないだろう。シンシアに伝えなかったのは、必要以上にプレッシャーを与えないためだったのかも知れない。


「おや、ブラッドリーさんではないか。それに御夫人も」


 シンシアにとって驚きの事実だったが、二人の会話は彼等を知る貴族の登場により一旦中断となり、夫婦揃って社交に精を出すことになったのだった。

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