翌日の夜。今日もやはりトーマスは書斎にこもっているという。それどころか朝は早くに仕事に出かけ、夜も帰ってきたのはディナーの後だったため、シンシアは夫に会ってすらいない。


「いくら仕事が忙しいからって奥様を放置しすぎですわ」


 そう怒る使用人たちを宥めつつ、今日も宣言どおりシンシアはトーマスの元へお茶を淹れに行くことにした。


「旦那様? 入ってよろしいですか?」

「構わないが」


 その言葉にシンシアはドアを開け、カートを押して書斎へと入る。社交界にも出入りする商家の奥様がすることではないのは承知だが、トーマスの妻放置に怒り、呆れている使用人たちは積極的に夫に関わろうとするシンシアの姿を応援こそすれ止めることはない。もっともこの使用人たちの姿勢にはなんとかこの二人がうまく言ってほしいと願う切実な理由も合ったのだがこの時のシンシアにはそれを知るよしはない。


「シンシアさん。どうかされたのですか?」


 そう訝しがる夫にシンシアはポットを掲げて見せる。なんとなく昨日と同じような光景だなと苦笑しつつシンシアは夫の方を見上げた。


「宣言どおり、お茶を淹れに参りましたわ。昨日『明日もお茶を入れに来て構わない』とおっしゃったでしょう?」

「あ、あぁそうだったな。ではお願いしようか」


 そう言いつつトーマスは首を捻る。確かにそういえばそんなことを言っていたが、まさかここまで放置していた妻が本当にお茶を淹れに来るとも思わない。そんな彼を尻目にシンシアは相変わらずの慣れた手先で茶葉をポットに入れる。缶の色は薄い緑色で昨日とは違うお茶を選んだらしい。トーマスが茶葉の入った缶を見ているのに気付いたのだろう。シンシアは微笑んだ。


「今日は一日中歩き回っていらっしゃったとブラウンさんに聞きましたから、少し柑橘の香るお茶にしてみました。疲労感を取る効果があるそうです。旦那様もあまり根を詰めてはいけませんよ」


 そこまで言ったところで彼女はハッとしたように言葉を付け足す。


「って、旦那様に言わずに勝手に茶葉を使ってましたが良かったでしょうか? 一応あまり高価なものは選ばないようにはして、ブラウンさんに許可は得たのですが……」


 よく考えれば自分は嫁いだばかりの身だ。夫に図々しいと思われたか、思いシンシアは慌てたが、夫から返ってきたのは穏やかな声音だった。


「別に茶葉を使うことを咎めているわけではない。むしろあなたはこの家の女主人なのだから、屋敷の中のものは好きに使って構わない。特に茶葉なんていくらでもあるのですから、好きなものを好きなだけ使いなさい。ブラウンの許可もいらない」

「本当ですか? ありがとうございますっ」


 ふと湧いた懸念が解消されほっとシンシアはまた笑みを取り戻す。


 ただ茶葉を好きに使って良いといっただけなのに喜ぶシンシアにトーマスは調子を崩される。


「この一杯は旦那様のために、この一杯は私のために、もう一杯はポットのために」


昨日と同じように歌いながら茶葉をいれたあと、ニコニコとお湯が注がれたポットを見守る彼女にいつになく沈黙が耐えられなくなって彼女に声をかけた。


「そう言えばシンシアさん。今日は何をしていたんだ?」

「午前中は皆様のお言葉に甘えてのんびりと。午後からは使用人の皆さんと顔合わせをしましたわ。皆さん優しそうな方で安心しましたわ」


 シンシアは今日のことを思い出しつつ答える。ブラッドリー家の使用人は屋敷の規模にしては多くないほうのようだ。故に彼女も簡単に顔と名前を覚えることが出来た。


 彼女の思ったとおり、ブラッドリー家にいる使用人たちはトーマスの両親が亡くなってからは、当主一人しかいなくなってしまったこともあり少なめだ。そして彼らは人の少ない屋敷を寂しく思っており彼が妻を迎えるとなった際には大喜びしており、シンシアのことを歓迎していた


「そう、では今度商会の従業員たちも紹介しなくては行けないな」


 その言葉にシンシアはハッとする。そうだ自分が嫁いだのは国内でも有数の商家。屋敷の者とだけ仲良くしているわけにもいかない。


「えぇ、皆様に受け入れてもらえるようがんばりますわ」


 と決意を新たにしたシンシアに


「そこまで構えなくても良い」


 とかえすトーマスはこころなしかいつもより微笑んでいる。そんな彼に見守られつつシンシアはポットを手に取りこれまた慣れた手付きで2つのカップにお茶を注ぎ分けた。


 トーマスが手元に置かれたカップの中身を一口含むと、たしかに彼女の言う通りお茶の芳醇な香りの後に柑橘の爽やかな香りも追いかけて来て思わす笑みが溢れる。


 その様子に安心したシンシアは自分もお茶に口をつけた。




 その後も夜のお茶会は毎日続いた。相変わらずトーマスは朝早くに出かけて、夜遅くに帰るので書斎以外で会うことはほとんどない。とは言え夜、ポットを携えて書斎を尋ねれば追い返されることもなかったので嫌われているわけでもないだろうと思っている。


 そもそもリーンでは友人がほとんどいなかったシンシアは少女達がよく話すような、恋への憧れや、新婚生活へ憧憬は少なかった。両親のような仲の良い夫婦には憧れるが、そんな両親の姿として一番浮かぶのは、書斎の夫にお茶を入れる母の姿だから、ある意味現状で満足していた。


 トーマスはプライベートでは無口な方なようだ。夜のお茶会の会話は9割方をシンシアが話す。元来おしゃべりなのだろう、というトーマスの見立ては間違っておらず、シンシアはおしゃべり好きだった。最も気の利いた話題など持っていないシンシアの話す内容は今日何をした、これを覚えた、といった内容だ。業務報告ではあるまいし、トーマスも退屈なのではないか、と心配になることもあるが、一応相槌はかえってくる。


 一度夫に「自分の話なんてつまらないのではないか? 」と聞いたこともあったが、するとトーマスは不思議そうな顔をして「そんなことはない」と否定してくれた。もちろんお世辞もあるだろうが、とりあえずはその通りにうけとり、シンシアがあれこれ話しては、時折トーマスが返事をする、という時間が続いた。


 一方トーマスはというと、飽きもせず、お茶を淹れにくるシンシアを不思議に思いつつも、夜のお茶会の時間を嫌ってはいなかった。むしろ好ましく思っている。まず何よりシンシアのお茶は美味しい。人数が少なくベテランが多い分、その能力は高いブラッドリー家の使用人たちや、お茶のプロである商会の人間が淹れるお茶と比べても遜色がないくらい美味しい。ある時、そのことを褒めると、


「陶磁器を扱う家に生まれたのだから、お茶は美味しく淹れられないとと教えられました。淹れ方を教えてくださったお母様とミセスリードに感謝しなくてはいけませんね」


 と微笑まれた。あくまで教えてくれた人を立てる姿勢もトーマスには好ましく思えた。


 さらにシンシアは自分の話がつまらないのでは? と心配しているようだが、トーマスは彼女の話を聞くのは苦ではなかった。くるくると表情を変えて話すシンシアの姿は見ていて面白いし、流行りや自分を装うことにしか興味がない女たちよりも、日々の出来事や、嬉しかったこと楽しかったことを話題とするシンシアの話のほうが聞いていてずっと面白い。


 好ましく思っているなら、なぜ奥様を放置するのか? それは自分でも思っているし使用人たちの視線も日に日に感じる。シンシアは彼女とは違う。そのことは理解してきていたがそれでもこのお茶の時間以外は彼女を避けてしまいがちだった。


 流石にそれでは行けないし、商家の若夫婦がいつまでもこの状態でもよくない。そう自分で感じていたからか、それともブラウンに言われたからか。ある夜、妻がいつものようにポットにお湯を入れた後、トーマスはシンシアに話しかけた。

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