3-7.トラウマとの再会
新入社員の入社から3ヶ月が経ち、晴れて独り立ちをして現場を任されることも増えてきた。
ツグミもその一人で、現場で指揮を取ることもあれば、ベテランの先輩のサポート役としてあくせく働いているようだ。
小耳に挟んだ話だと、段取りが良過ぎてツグミのいる現場では定時上がりが当たり前になってきているらしい。
どれだけ優秀な後輩なんだよとヨルは呆れに似たため息をついた。でも、それは嬉しいことでもある。
いつものようにオフィスに着き、今日向かう現場の進捗を確認し、溜まっていた社内メールを処理していると、出社したツグミが早々にヨルを見つけて駆け寄ってきた。
「ヨルさん! ヨルさん!」
まるで尻尾を振って喜ぶ犬みたいだなとヨルは思った。
「なんだ?」
「今日! 私とヨルさんの現場一緒です! 久しぶりに!」
「はいはい。わかったからそんなはしゃぐな」
「わあい」とツグミは万歳した。
ツグミはすぐに即戦力と認められ、ヨルの指導を外れた後は他の新入社員より早くにひとりで現場に向かうことも増えていた。
サポートにつく時もヨルではなく他の誰かだったから、本当に久しぶりだ。
思えば最後に一緒に仕事をしたのは同期へ土下座した時以来だった。
「ご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。先輩!」
珍しく恭しく敬礼などしてツグミは心の底から嬉しそうだ。
嫌なことを思い出し、澱みかけていた心が明るくなった気がした。
「はいはい。ならさっさと準備して現場向かうぞ」
「酷い。なんか対応がテキトーじゃないですかぁ〜?」
「そんなことはない。ほら、もう俺の準備は済んでるから」
ヨルはスーツで出社しているので準備も何もなかった。
「ずるいですよ〜。私は私服出社だからスーツに着替えなくちゃいけないのに」
「待ってるから、ツグミさんも支度してきな」
これ以上ツグミと長話しているとみんなからの羨望の眼差しがすごいことになりそう。
最近ツグミと一緒になることが多かった人なんかあからさまに横目で見てきて、いいなあ、なんて呟いてしまう始末だ。
もちろんツグミはそのことに気づいていながら、聞こえていないフリをしている。
「本当に待っててくださいね?」
「ああ」
「先に行ったりしないですよね?」
「ああ」
「ほんとのほんとに?」
「はぁ……。ほんとのほんとだ」
「はあい。じゃあしっかり準備してきます」
「今日の現場は進捗ヤバめだから覚悟しとけよ」
「はあい」
・・・
ツグミと一緒だと本当に仕事が終わるのが早かった。
裁量労働を謳っていて自由に現場に出社できるのはいいが、定時であがれることはほとんどない。
それなのにも関わらず、ツグミがいるだけで定時から一時間も早くに今日の作業の全てを終えることができた。
恐るべき進捗率だ。
「疲れましたねえ」
朝ほどの元気は流石にもうないのか、駆け寄ってくることはなかった。
ひと休憩すれば、後は責任者へ進捗報告をして退社するだけだ。
あと少し、とやる気を出し、窓の外を見た。
向かいの道路の路肩に一台の車が停まっている。
郊外の戸建てが買える値段の黒塗りの高級車から現れたのはでっぷりと太り、脂ぎったひとりの男だった。
「……なんで」
「どうしました?」
ツグミはヨルの視線を追いかけ、その男を見た。
ヨルはその人の姿を捉えた瞬間に体が強張り、喉が締め付けられる感覚がした。
トラウマがフラッシュバックする。
「うっ……おぇ……」
体の反射でえづいてしまった。
「え、ちょっ……ヨルさん!?」
「……いや、大丈夫。大丈夫だから」
言葉に反して、しゃがみ込んだヨルの顔は青褪めており、言葉もなんとか絞り出している状態だ。
「大丈夫なんかじゃありませんよ! とにかく、休憩室に行って少し休みましょう? 肩貸しますから、ほら」
されるがままヨルはツグミの肩につかまり休憩室の椅子に座った。
ツグミが自販機でペットボトルの水を買い手渡すも、ヨルの手は震えていて開けられそうになかった。
「はい。開けました。掴めます?」
「ダメ……だな。すまん。口まで運んでくれれば飲めると思う」
「はい」
ツグミは手際良くヨルの口元へと運んだ。
喉を冷たい水が通り、一つ鳴らして胃へと入っていく。
ようやくヨルの体の震えも収まってきたが、まだ表情は硬い。
ツグミには怯えているように見えた。
「……どうしたんですか? ヨルさんがこんなに取り乱すなんて……」
ツグミの心配した声がかかっても、譫言のように「大丈夫、少し休めば大丈夫だから」とヨルは何も聞いていない。
「先輩!」
ツグミはヨルの頬を挟んで顔を上げさせた。
「先輩の大丈夫は全然大丈夫じゃありません。何があったんですか? 私、何でも聞きますから」
それでもヨルは俯いたまま話そうとしない。
「……私じゃ、頼りないですか?」
ツグミがしゅんとする。今にも泣きそうだ。
「なんでもします。黙って聞きますから、話してください。本当にヨルさんが心配なんです」
潤んだ瞳。真摯な態度。それを目にして、はっとした。
「情け無い姿を見せて悪かった。もう、大丈夫だから」
ツグミはその言葉を拒否と受け取り、あからさまに落ち込み、我慢していた涙が溢れた。
うずくまって啜り泣いている。
「泣くなって。ツグミさんを信頼していないわけじゃない。ちゃんと理由を話す。だから……」
ツグミは鼻を啜ってから、手で涙を拭い、ヨルを見た。
「……ほんとう?」
涙目の上目遣い。弱りきったツグミの声音は幼い子供のようだ。
「ああ、話す。ただ、あまり人には聞かれたくないから隣に座って」
そう言ってヨルは空いている隣の席を指した。
ツグミはおずおずと座った。
休憩室に人影はなく、ヨルとツグミだけだ。
自販機の稼働する音だけが室内に響いている。
ツグミはまだ涙がおさまらないのか時折目元を拭っていた。
ヨルは何から話そうか悩んだが、結局自分を曝け出すのが早いと腹を括った。
「俺はさ、ちゃんとした人間じゃないって言っただろ?」
「……はい」
ツグミはそのことにまだ半信半疑だったのか、納得していない返事だった。
「父親は蒸発して消えて、残った俺と妹は母親の無理心中に巻き込まれたんだ。人殺しの親を持つ俺に何か言う資格なんてほんとは無いんだろうけどな。俺が会社で邪魔者扱いされるのも仕方がないんだよ」
「そんなの関係ないです。親は親、ヨルさんはヨルさんです。所詮家族といえど他人なわけじゃないですか」
「たしかに、そうだな。親といえど他人。気にする必要性なんて特にないんだけどさ……」
「ヨルさんはヨルさんです。他の人がどう言うとか関係ないですよ」
「そうだな。ありがとう」
ヨルは心からの感謝をツグミに告げた。
「それで、就職先を探していた時、出会ったのがあの社長の会社だったんだよ」
「それで?」
「あの社長は最低の人間なんだ。人をモノのようにしか見ていない。おまけに女性社員にはことあるごとにセクハラして、枕なんかも強要させていたらしい。当然そんな会社に社員なんか来るわけなくて、タイミング悪く俺が入社したんだ」
「……」
「そこで、まあ、酷い目にあったんだよ。灰皿は投げつけられる。遅刻したら拳が飛んでくる。なにか気に食わないことがあれば俺に八つ当たりをしてきて、俺は耐えきれなくなって嘔吐して。社長はそんな俺を使えねえクズだと罵って、リストラされた」
「そんなことがあったんですね」
「ああ。だから、さっきえづいたのは社長との出来事がフラッシュバックして体が無意識のうちに拒絶反応したみたいだ」
ヨルの体はまだ微かに震えている。
唇も変色していて、体が恐怖に襲われているのは誰が見ても明らかだ。
「それでもお世話になった人だ。挨拶くらいはしないとな」
「大丈夫ですか?」
ツグミはそれ以上は聞かなかった。ヨルの性格から止めても無駄だと思った。
「ああ」
「それなら私も付き添います。万が一のことがあるかもしれませんし……」
ふたりは休憩室を出て、自席へと戻った。
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