3-8.食い違う記憶

 オフィスに戻ると、意図はわからないが、社長が立っていた。

 ヨルは社長の前へ向かう。体はまだ震えている。


「お久しぶりです」

 ヨルはできる限り気丈に振る舞い、挨拶をしたつもりだった。

「……は?」


 社長の第一声は威圧的なものだった。

 殴られる、ヨルはそう思い腕で頭を庇った。

 だが、いつまで経っても覚悟していた拳は来ない。


「おいおい、初対面で俺がおまえを殴るわけないだろう」

 くつくつと社長はでっぷりと太った腹を揺らして笑っている。

「え?」

 ヨルは想定外の反応に、疑問が頭を埋めつくした。

「名前は?」

 社長は高圧的にヨルの名前を聞いてきた。

「え……っと」

 ヨルは何を言われたのか分からなかった。理解が追いつかない。

 だが、社長は待ってはくれない。


「おい。名前はなんだって聞いてんだよ」

 少し苛立った口調でヨルを急かす。

「トウドウ、です……」

「ああ、トウドウね。初対面だよな?」

「え、ええ……」

 ヨルは事態を飲み込めずに、流されるがまま頷いた。


「よろしくさん。丁寧に挨拶なんかしてくれちゃって今時のガキにしては珍しいな。お、あんたは可愛いな。名前なんて言うの」

 社長の興味はすでにヨルから外れ、ツグミへと向かっていた。

 下から上へと舐めるように視線を移している。


「ササキ、ツグミです」

「そうかそうかツグミっていうのか。うちの会社とかどうよ。来ない?」

 ツグミは愛想笑いをして受け流していたが、流石にヨルが狼狽えているのはおかしいと会話の隙を見て、ヨルの裾を引っ張ってきた。


「あ……」

「えっと、では私たちはこれで。今後ともどうぞよろしくお願いします」

 呆然としているヨルの代わりにツグミが頭を下げた。

「おうよ。また会う時があったら飲みにでも行こうや」

「はい。是非宜しくお願いいたします」

「じゃあ、俺は次の現場に行くから」

 と言い残して、社長は黒塗りの高級車に乗って去っていった。

 どうやら勝手に乗り込んで優秀な人材を引き抜きに来たようだった。

 社長がこの場からいなくなったものの、ヨルの動揺はおさまらない。

 ツグミが声をかけるよりも先に、ヨルが口を開いた。


「……社長、だったんだ」

 それは自分の記憶を確かめるようだった。

「たしかにあの人は社長だ。腹を揺らして笑う癖も、女性ばかりに目がいくのもそうだ。間違いないはずなんだ」

「でも、ヨルさんのこと初対面だって……」

「忘れた、のか?」

「あれは忘れた風には見えなかったですよ。初めから知らない人と会った感じでした」

「……そう、なのか?」

「ヨルさんの勘違いとか冗談……。じゃありませんよね。そんな冗談言う人じゃありませんし」


 ツグミはうーんなんだろう、と頭を悩ませた。

 ヨルはまだ混乱している。事実を受け止めきれていない。

 ひと呼吸空いて、ツグミが「あ」と口を開いた。

「もしかしたら魔女の仕業かも?」

 ツグミは呟いた。

「……魔女?」

 聞き慣れない単語が聞こえ、ヨルは顔を上げた。

「はい。東京には魔女がいるって聞いたことありません?」

 その瞬間、ヨルの脳裏に声がフラッシュバックした。


 ──東京には魔女がいるの。


 誰か、大切な人のような気がした。


「あれ、ヨルさん?」

「……なんだよ」

「なんだよじゃなくって。えと……」

 ツグミは一瞬躊躇ってから、言った。

「なんで泣いてるの?」

 ヨルは頬に触れた。

 手がかすかに濡れた。片目から涙が一筋溢れたようだ。


「やっぱり体調が良くないんじゃ……。念のためもう直帰して休んだ方がいいですよ。後の作業は私がやっておきますから」

「でも、大丈夫か?」

「何を今更ですよ。私が優秀なこと忘れちゃったんですか? はい、ほら早くリュックに荷物詰めて」

 ツグミに急かされ、そのまま電車で帰らされた。 

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