3-6.曖昧な記憶
ヨルがツグミを連れて来たのは古びた定食屋だった。暖簾はすすけている。
店内も不衛生とまでいかないが、お世辞にも綺麗とは言えない。
照明も暗く、床は油で滑りやすくなっていて、あまり良い店には思えなかった。
「おいしいとこって、ここですか?」
ツグミは店内を見て不信感たっぷりに訝しんだ。いらっしゃいませの声もなかった。
「不満か?」
「いえ、ヨルさんが言うなら間違いないと思うんですけど……」
「ここのとんかつは絶品なんだ。俺も仕事で初めてミスした時にマサさんに連れられて来たんだ」
「へえ。マサさんって社長のマサさんですよね? それならなんか安心かも」
「マサさんはいい目を持っているから、こういう隠れ家的な名店を探すのが得意なんだよ。だから、絶対に外れることはない」
「そこまで信頼されてるんですね」
「俺を今の会社に誘ってくれた人だからな。恩義はある」
「ヨルさん中途だったんですか?」
「半年くらい前に入社したんだ。以前も下請けの会社でシステム関係の仕事してて、人員が足りなかったから、営業から要件定義、設計、製造、保守運用まで幅広くやってたんだ。だから一通りの経験があって、作業効率も悪くなくて、全体のことをよく見て仕事できてるってことで、うちの会社でプログラマやってみないか、ってマサさんが声をかけてくれたんだよ」
「ヨルさんって優秀なんですね」
「どうして?」
「見る目があるマサさんから引き抜かれるなんて相当仕事ができるのかなあって。それに入社して半年で指導係になれるほどだし、仕事の手際もいいし」
「そんなことはない。ツグミさんの方が優秀だろう」
「私のは学歴ばかり独り歩きしてるだけ。所詮お飾りですよ」
「お飾りね。俺は羨ましいよ」
「どうしてですか?」
「俺は高卒で職場を転々として来た人間だから、働く場所はどうしても限られる。けどたとえお飾りだとしても経歴や学歴があればいくら就職難でも引く手数多だろうからさ」
「あは。たしかに内定いっぱい貰えましたね」
「嫌味か」
「謙遜した方が余計嫌味ったらしくないですか?」
「それは、たしかにそうかもな」
「まぁ、そんなお飾りだらけの私だからですかね。ヨルさんみたく柔軟な思考と対応能力を持ってる人はちょっと憧れてるんです」
「俺よりすごいやつなんてたくさんいるよ」
「でも、私の近くにはヨルさんだけですから。尊敬します」
「……飯、冷めるぞ。早く食べちゃいな」
ヨルは照れを誤魔化すためにご飯を勧めた。
「あ。はあい」
ツグミは味噌汁に口をつけ、とんかつを口にほおばった。
「あ、美味しい」とさっそく驚く。
店内の雰囲気や値段に反して味は抜群なのだ。
衣はサクサク、肉はジューシーで、肉の繊維がしっかりと感じられ、噛めば噛むほど甘味と旨味が舌に染み込んでくるのだ。
それを心ゆくまでゆっくり味わって欲しいからこそ店員は話しかけてこない。
隠れた名店とはこういう店のことを言うのだろう。
「流石マサさんだよ」
ツグミが喜ぶと、マサが褒められたような気がしてヨルも嬉しくなった。
「ん〜。おいひ〜」
「口に頬張りながら話すな。行儀が悪い」
口調とは反対に、ツグミがおいしいとほっぺを垂らしている様子を見てヨルは満更でもない。
少しは落ち込んだ気分も立ち直りつつあるのかと思い、ふとあることを思い出した。
「別にさ、何ができるかとか、何を知ってるとか、何かを持っているとか、どこの大学を出たとか、どんな企業に勤めてるとか、年収はどれだけ貰ってるかとか。そういうことが偉いわけじゃなくて。そういうところで人の価値は測れなくて、もっと別の、人格とか品性とか、そういうところが大切だと俺は思っている」
「……」
「だからさ、自分の至らなさとかさ。常に人を見下しているようなあいつらのことなんて気にする必要なんかないんだよ。ツグミさんは努力家で頭もいい。きっとすぐに頭角を表して、来年には役職についていてもおかしくなないくらいの実力だからさ」
食事を飲み込んでお茶を飲んでから、ツグミはぽつりとつぶやいた。
「ヨルさんってやっぱりしっかりしてます。大人ですよ」
「俺はそんなちゃんとした人間なんかじゃない。一年前なんて職がなくて路頭に迷って雨が降る夜に路面で蹲って泣いてたくらいだ」
「やっぱり。あれはヨルさんだったんですね」
「……え゛?」
思わぬ返しで素で驚くヨル。
「新宿でしたよね?」
こくりと、ヨルは頷く。
「一年前、新宿で、雨に打たれてて、この人大丈夫なのかなって心配になって、声をかけようかと迷ったんです。けど勇気が出なくて物陰から見ているだけでした。再会できて無事だったんだ、って嬉しかった」
ツグミは心の底から嬉しいと笑顔を浮かべてみせる。初対面の時のやけに嬉しそうな様子が腑に落ちた。
「あれ?」とツグミ。
「その後、どうしたんでしたっけ?」
「……え?」
「誰かがヨルさんの元にいた気もするし、ひとりでどっか行っちゃったような気もする……」
ツグミの記憶は話すごとに曖昧になってるのか語気が弱まっていた。
ヨルも、たしかにそこに誰かがいたような気がしなくもないが、記憶も曖昧であまり思い出せなかった。
「さあ、俺自身でなんとかしたんだろ」
ただ、今立ち直っているのだから自分でどうにかしたのだろう。
ツグミは「あーあぁ」と万歳して背もたれに思い切り背を預けて伸びた。
「こんなにいい人なら、あの時声かけてたらよかったなあ」
そんなことを心から後悔してる風に言うのだからタチが悪い。
そしてただでさえ普段から目立つふたつの山が余計に強調されて目に毒だ。
起き上がったツグミはまた食事に手をつけ、「おいしい!」と歓喜していた。
ゆっくりと咀嚼して、飲み込んだ後、ツグミはなんとなしに言った。
「そういえば才果製菓の都市伝説って知ってます?」
「なんのこと?」
「ネットでちょっと前に噂になったんですよ。実は御令嬢がいたとか。その人が失踪したとか」
「そんな大変なことがあったんだな」
「ヨルさんシステム関係の職に就いてるのに、あまりネット見なそうですもんね」
「まあ、確かにネットは見ないな」
「でも実際はただのデマだったみたいです。記者会見まで開いて社長が訂正してましたよ。私たちに娘はいませんって」
「やっぱりな」
「でも、おかしいと思いません? 一時期はすっごく話題になって大々的に報道されたくらいなのに、ある日を境にぱったりみんな話さなくなったんですよ?」
「でも、いないもんはいないんだろ。それが事実だ」
「そうですけどお。なんか気になりません?」
「いや、なにも」
「先輩のいけず。無関心。無口で無愛想で仏頂面!」
「それ悪口だろ」
「いえいえ〜。褒め言葉ですよ」
黙々と飯をかっこんでいく。一口お茶を飲んでから、ツグミは口を開いた。
表情は明るく、心の底からヨルとのコミュニケーションが楽しくて仕方がないようだ。
だからだろう、取り止めのない話が出てくるのは。
「そういえば。上京して思ったんですけど、東京って、なんか息が詰まりません?」
「ああ。そうだな」
ヨルはそれに共感した。空に向かって屹立するビル。地面を埋め尽くすかのような人混み。嫌でも目につく看板の数々。
休むにしてもどこかに腰掛けるにしては人通りが多すぎるし、カフェに入るにしてもお金がかかる。何かと人目がつき監視されているような気さえしてくる。
ヨルはそれらが嫌いだった。
それでも東京にいたのは、母親への贖罪のためだったと思う。
だが、それ以外にも何かがあったような気がした。
その証拠に、以前まであった空虚さは胸にない。
母親に感じていた罪悪感という枷は外れている気がする。
いつか誰かと話をして一緒の時間を過ごして、安らぎを与えられたように思う。
けれど、それは勘違いだろうとヨルは思っている。
なぜなら、そんな記憶などないからだ。
だから、ヨルは思い出すことを放棄した。
今はそれなりに幸せだ。
何かが足りていない気はしているが、それは忘れてしまうほどのものだったのだろう。
「……ヨルさん?」
ツグミが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「なんか、変な顔してましたよ」
「……どんな?」
「眉間に皺を寄せて悩んでいるようで、けど自分に腹が立っているみたいに目を細めて、それから今にも泣きそうになったあと、諦めたみたいでした」
ヨルの心情のままだった。ツグミには人の心理を読み取る能力でもあるのだろうか。
「なんでもないよ」
「ほんとに?」
「ああ」
きっと何でもないことなのだろう。ヨルはそう思った。
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