3章

3-1.新しい生活

 冬が過ぎ、春が過ぎた。


 冬の間は、幸いにも派遣会社から仕事をもらうことができた。

 パチンコ店の早朝清掃だったが、仕事があってお金がもらえるのならなんでもよかった。

 住まいもボロアパートだけれど見つかった。

 それから、伝手で正社員の仕事を貰うことができたのは幸運でしかない。

 入社してから半年が過ぎ、一通りの仕事にも慣れてきた。

 

 目覚ましの音で目を覚まして、二度寝したい衝動をぐっと抑えてヨルは起き上がった。

 布団を畳んで、キッチンへ行くと古い板張りの床がぎいと鳴る。

 顔を洗って覚醒する。エスプレッソマシンの電源を入れる。豆を挽く。ふぅと息を吐いてから、ボタンを押して、エスプレッソを抽出した。


 圧縮された粉にお湯がかかり、エスプレッソがマグカップに溜まっていき、コーヒーの香りが部屋を満たす。

 エスプレッソマシン備え付けのミルクスチーマーで牛乳を泡立て、マグカップに注げばカプチーノの完成だ。

 一口飲むと、ようやく外の音が聞こえる。


 窓を打つ雨の音。

 季節はすっかり梅雨の時期。夏に向かって準備をしている。


「今日も、雨か」


 雨は街の雰囲気を暗くするけれど、ヨルは雨が嫌いではなかった。

 いつからか、外から聞こえてくる音を聞きながら淹れたコーヒーを飲むことが、朝の習慣になっていた。

 以前までなら朝食も取らずに仕事の準備をそそくさと済ませて出社していたはずなのに。


 友人や恋人こそいないものの、職場環境は比較的良好で、お金もそれなりに貰えて、生活に困ることもなく、空虚さを抱えながら過ごすこともなくなった。

 朝にはコーヒーを愉しむことができる余裕だって持っている。


 これがふつうの幸せなんだろうか。


 そう思うのに、心は何かが足りないと言っている。

 覚えていない15日間。そこで何があったかは今もわからない。

 記憶は泡の溶けたカプチーノのように曖昧だ。


 あれからもう半年が過ぎた。


 当時朧げにあった記憶は、今では何も思い出せなくなっていた。

 コーヒー豆を買って、道具を揃えた。

 どうしてそうしたのかはわからない。動機はなんとなくコーヒーを淹れてみたくなったから。


 ヨルは適当に泡立てたフォームミルクの乗った美味くも不味くもないカプチーノをあおった。


「あの人のは、もっと美味しかったのにな」

 ふと、そんなことを呟いていた。


「……あの人って、誰だよ」

 それは、よくあることだった。些細な時に、顔もわからない誰かのことを考える。


 時計を見ると、もう家を出ないといけない時間だ。

 スーツを着て、支度を済ませて、ヨルはアパートを出た。

 リュックの中には買った覚えのない黒い折り畳み傘がある。


 通勤ラッシュの混雑を高い上背から見るも、特に思うことはなかった。

 自分もその一部というだけのことだ。

 以前までの自分なら卑屈になっていたかもしれないけれど、今は違う。

 定期的な収入があるからかもしれない。いつからか人に対して決めつけることや劣等感を抱くことをしなくなっていた。


 ただ、どうしてか、何かが足りないと思う。

 誰かが傍にいないと思う。

 それは理由などなく感覚的なものだ。


「まあ、気のせいか」


 なんとなく気になるだけ。胸につっかえるだけ。喉に小骨がつっかえたような程度の違和感があるだけ。


 今の生活には満足している。

 だからきっと、この感覚は気のせいだ。

 ヨルはそう思うことにした。

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