2-11.夜が終わる
「ほんとうの幸せってなんだろうね」
続く話の流れの中で、ユカはぽつりと呟いた。
「ほんとうの幸せ?」
ヨルにはその『ほんとう』が何かわからなかった。
「うん。ふつうの幸せのこと話したでしょう? それで思ったの。私たちみたいな苦しさを抱えた人たちでも幸せを感じることができたなら、それが『ほんとうの幸せ』なのかなって」
「そんなものあるんですかね」
「さあ、わかんないや」
「でも俺はユカさんに救われて、一緒にいることができて、幸せです。これがほんとうの幸せかどうかなんてわからないですけど」
ユカはそれを聞いて「そっか……」とだけ言った。
そしてコーヒーを口に含み、喉を鳴らした。
「なにもなくていいのにね」
「なにも?」
「あ、ううん。間違い。大切なものひとつだけあればいいのになって、私は思うんだ」
「ユカさんって、意外と強欲なんですね」
「へ?」ユカはキョトンとして。
「どうして?」
と一拍遅れて疑問が出た。
「だって、みんないくつかある小さな大切なものを少しで我慢してるのに、ユカさんは一番大切なものだけを求めてる」ヨルは答えた。
「あはは、たしかにね。私って強欲なのかも」ユカも笑った。
「でも、なんかわかります。大切なものがひとつだけあれば、それ以外何もいらない。富も地位も名誉も名声も賞賛も。大切なものさえひとつ手に入れられたら、不要なんじゃないかって思います」
「私たち、つくづく気が合うねえ」
コロコロとユカは笑った。
ヨルも静かに笑った。
「ユカさん、今日はすごい饒舌ですね」
「なんでだろうね。ヨルくんにはいっぱい取り留めのないことを話しちゃうんだよね」
「疲れてないですか?」
「ちょっと、疲れちゃったかも」
そう言って空笑いした。
「無理して笑わなくてもいいんですよ」
「……初めて言われたよ、そんなこと。分かっちゃうものなんだね」
「まだ短い時間ですけど、一緒にいたから分かりますよ」
「たしかに、そうだね」
「ユカさんも俺と同じで無理して生きてきたんですから、俺の前でくらい取り繕ったり、誤魔化したり、明るい雰囲気にしようとしなくていいんですよ」
「……そっか」
ありがとう。とユカは小さく言った。
「ほんとうに、ヨルくんと出会えて、一緒に暮らせてよかったって思ってる。こんなになんでも明け透けに話せる人なんて今までいなかったからさ」
「まるで最後の会話みたいじゃないですか。まさか死ぬわけじゃないでしょう?」
「……もうこの世から消えたいって思ってるのに、生きてしまうのはどうしてだろうね」
その小さな声は欠伸をしていたヨルには届かなかった。
「ユカさん?」
「あっ、そうだね。老衰とか、自殺とか死ぬことばかり話してたせいかな」
あははとユカは笑って誤魔化した。
「ほんと、冗談はやめてくださいよ」
「ごめんごめん。怒んないで」
「今は怒ってないですけど、もしユカさんが勝手に死んだら、ほんとうに怒りますよ」
「……ヨルくんはほんとうに優しいね」
小さく、ユカの本音が漏れた。
「え?」
「ううん。なんでもない。ヨルくんは意外と女ったらしかもしれないなあと思って」
「だから、からかわないでくださいよ」
「あはは。気をつけなさい。年上で経験豊富なお姉さんからの忠告です」
ユカはわざとらしい丁寧口調でそう言った。
「コーヒー、まだ飲む?」
「いえ、もう寝ようかと」
ヨルは目頭を抑え、瞬きを数回したあと、大きな欠伸をした。
時計の針はもうすぐ丑三つ時だ。
「あ、結構長いこと話してたんだね。気づかなかった」
「なんか、さっきからすごく眠たいんですよね」
「きっと疲れてるんだよ」
「ユカさんもたまにはぐっすり寝たほうがいいですよ。健康にも美容にも悪いです。明日は休みなんですから」
「はあい」
「もう、ふざけてるんですから」
「わかってる」
ユカはヨルの目をじっと見た。そして顔を近づけていく。
「わかってるよ。心配してくれてありがとう」
優しい微笑みをしてユカは言った。
「明日雨が降ったら、私はおまじないをするよ」
突然のことにヨルは何も返せなかった。
「だから、楽しみにしててね」
見惚れてしまうほど綺麗な笑顔だった。
その言葉を残して、ユカはヨルから離れ「おやすみなさい」と、リビングを出て行った。
静かな部屋でヨルはひとりきりになった。
──ごめんね……。
リビングの扉の前で、罪悪感たっぷりの笑顔。小さく呟いたそれを、ヨルが気づく術はなかった。
ヨルの胸の高鳴りはなかなか止まりそうになく、寝付けないかと思われたが、襲いくる強烈な睡魔に負けて深い眠りについた。
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