2-10.他愛もなく大切な話を

 マンションに帰り、スーパーで買ったものをしまった後、ユカは手際よくコーヒーを淹れ始めた。

 そんなユカをヨルはカウンター越しに見ていた。

 もう日も沈みかけ、黄昏時だ。


「病気のせいで生きたくても生きられない人っているけどさ、この世の中には死にたくても死ねない人もいるんだよね」

「なんの話ですか?」

「さっきの続き。ニュースでやってた自殺の話」

「ああ」

「ヨルくんはさ、本当に死ぬのなら、どんな死に方をしたい?」

「考えたことないです。人に殺されるのはもうごめんですけど……」

 首に手を当て、少しだけ考えてみた。

 真っ先に浮かんだものが、何故だかぴったりハマった。


「老衰ですね」

「へえ。そうなんだ」

「喧騒から離れた程よい場所で世間とは一歩距離を置いて。昔あったことを懐かしんだり、今生きてることを幸せに思ったり、明日のことを少しは考えたみたり。四季の節目を感じながらいつか来る死をゆっくりと待つ。そうやって生きた末路に穏やかに死にたいです」


「考えてなかったわりに結構贅沢な死に方だね」

「ユカさんは?」

「私も同じ」

「だと思いました」

 ユカは話しながらも上手にコーヒーを淹れていく。


「ソファに座ってていいよ。もうすぐだから」

「じゃあ、そうします」

 ソファに座って少し経ち、ユカはドリッパーを外し、お湯を捨てた。それからエスプレッソマシンで粉をスチームし、フォームドミルクを作っていった。


「うん。できたできた」

 満足いくものを淹れられたようだ。マグカップに移したドリップコーヒーを一口飲み「おいし」と言っていた。

「はい。ヨルくんのも」

 そう言ってテーブルにおき、二人はソファに並んで座った。


 ヨルも口をつける。綺麗に泡立ったカプチーノ。

「あれ? こんな味でしたっけ?」

 一口飲んで、違和感を覚えた。

「……美味しくない?」

「なんか、いつもと違うというか……」

「そう?」

 二口目を口にして、違和感はさほど感じなかった。


「いえ、俺の気のせいかも。慣れればちゃんと美味しいです」

「そ。よかった」

 外は夕立だった。雨が窓を打つ音が静かな部屋に響く。


「ユカさんは、なんで忘却のおまじないのことを知ってたんですか?」

 ヨルはずっと疑問に感じていたことを聞いた。

「言わなかったっけ。お客さんからの又聞きだって」

「それ嘘でしょう」

「あらら、ばれてたか」

 くすくすとユカは笑う。


「一緒にいるんですから分かりますよ。それに、又聞きにしては詳しすぎます」

「あはは。私、嘘つくの下手なんだなあ。女優さんにはなれないかあ」

「そもそも目指していないでしょう」

 ユカは「そうだねえ」と笑った。ひとしきり笑って、ユカは言った。

「教えてもらったんだ」

「誰に?」

「魔女に」

「……は、魔女?」

 ユカはうんうんと頷いた。 


「東京には『魔女』がいるの。そういう噂話を聞いたことがない?」

「いえ。全く」

 ヨルはそういった話には疎かった。


「そっか。不思議なことに誰も知らないし覚えてないし、すぐにどこかへ消えてしまうんだけど、一目見ただけでそうだと確信する存在なんだ。私も会った時、すぐ確信したよ。ああ、この人は『魔女』なんだ、って」

「なんですかそれ。人じゃない」

「だから魔女なんじゃない?」

 ユカはそう言って、笑った。


「……それで、魔女に会って、どうして忘却のおまじないをしようと思ったんですか?」

「一番の理由は、家のしがらみから解放されたかったことかな」

「なるほど」

「弱い人間だからさ、逃げ出したかったの。だから忘却のおまじないをしたの」

「それは家族から忘れられたことで達成したんでしょう?」

「うん。したよ。みーんな私のことなんか忘れた」

「でも、まだ次のおまじないをするつもりなんですよね?」

「うん」

「それって、誰なんですか?」

「あ。男だと思って嫉妬してくれてる?」

「違いますよ。ただの興味です。からかわないでください」

「あはは。ごめんごめん」

 ヨルは黙ってカップに口をつけた。


「私はね。どうして生きてるのかわからないし、特に生きてる理由もないし、別に死んじゃってもいいかなあって思うんだけどさ。やっぱり死ぬのって怖いじゃない?」

「まあ、そうですね」

「じゃあ、何が辛いんだろう。どうしてこんなに苦しいんだろう、って考えたら分かったの。人との関係性が苦しいんだなあって。誰かが私を知っている。覚えている。誰かの記憶の中で私は生きている。その関係性が私を苦しめている。だから私はひとりになりたいんだな、って」

「じゃあ、どうしてひとりにならなかったんですか?」

「……ヨルくんを拾ったこと?」

「はい」

「……なんだろ。わかんないや」ユカはそう言って笑った。


「あの夜にヨルくんを見つけて、その目を見た時、「助けて」って言ってるって思ったの。そして私と同じ目をしてるとも思った。だから理由なんてなくて、なんとなくだったと思う」

 たしかにヨルはあの日、絶望し、妬み、怒りながらも、心のどこかでは誰かに助けを求めていた。


「ヨルくん、初めてあった雨宿りの日に言ってたよね。朝起きて働いて寝る、それだけの生活に一体何の意味があるんでしょうね、って」

「以前はいつもそんなことを考えていたんですよね」

「私も意味なんてわからない。お金のために働くのも、家庭のために生きるのも、自分の趣味のために生きるのも、どれもなんだか虚しく思うもの」

 会話が途切れる。

 テレビもつけず、音楽も流さない。そんな静寂でもふたりは居心地がよかった。


「もしもだけどさ」とユカは言った。その声はしんとした部屋にやけに響いた。


「私を忘れたら、思い出してくれる?」

「ええ。もちろん」

「自殺しようと屋上に立ってたら、抱きしめてくれる?」

「ユカさんがそれを望むなら」

「……そっか。じゃあ特別に迷子のお仲間のよしみで一年だけ待ってあげる」

「一年って、短いですね」

「意外と長いかもしれないよ」

 ユカはふふっと笑っている。

「……それ、流石に冗談ですよね?」

「もちろん」

 口につける前のカップで顔を隠して、目元だけの笑みでユカは言った。声はなんてことない普通のトーンだ。


「自殺をするとしたら、私は高いとこで雨に打たれながら奇麗に死にたいな」

「自殺されたら俺は悲しいですよ」

 ヨルもコーヒーに口をつけた。


「けどさ、長生きなんてしたくもないし」

「俺はユカさんみたいな気を許せる人と一緒なら長生きしてもいいかなって思えるようになりましたよ」

「なにそれプロポーズ?」ユカはくすりと笑った。

「そう聞こえちゃいましたか。でも、本音ですよ」

「ありがとう。素直に嬉しいよ」

 ヨルはそっとユカの手をとり、握った。けれどそれはユカから優しく離された。


 俯いたままのユカの顔からは心情は読み取れない。

 静かな空気だけがふたりを包んでいる。

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