2-9.幸せについて

 翌日、昼過ぎにユカは帰ってきて、早々にため息をひとつした。そして、なぜか自虐的な笑みを浮かべていた。


「また、なにかあったんですか?」

 ヨルは深く聞き出すわけでもなく、ユカの心に寄り添った質問をした。

「ううん。なんでもないの……」

「そうですか」

 ヨルは聞くことはしなかった。その言葉が嘘だと分かっていても、いつかはユカは話してくれるだろうから。


「コーヒー」

「ん?」

「コーヒーでも飲みましょうか。淹れますよ」

「美味しいの、お願いね」

「それは難しいなあ。善処します」

「ふふふ。頑張って」

「はいはい」


 少しだけ慣れた手つきでコーヒーを淹れる準備をしていくヨル。

 ユカはラフな部屋着に着替えたあと、そんなヨルをなんとなく眺めていた。


 テレビには自殺のニュースが流れていた。その影響で電車に大幅な遅延が出ていることも知らせていた。


「こうやって自分で死ぬことを、命を無駄にしてるって言う人っているよね」

「病気とかで明日死ぬかもしれない人が必死に生きているかもしれない。って考えて、自殺なんて不謹慎と思う人がいるのは事実ですよね」


「けどさ、命って本来は自分だけのもので、他の人からとやかく言われる謂れはないはずだよね。友達でも恋人でも家族でも。命は共有できない。自分だけのものなんだからさ、その最後を自分で決めるくらいしていいじゃない、って私は思っちゃうな」

「それは俺も同じ考えです。こうやって大勢の人に迷惑をかけるのは悪いことだと思いますけど」


「でも、これだって電車にぶつかれば一瞬で死ねるかもしれないっていう安易な思考があるだろうけど、死に至るまでのその人の苦しみを誰も和らげることができなかった人間社会への罰だって考えたら、私はちょっと納得しちゃうんだよね」

「心に余裕がなくて救いの手もなくて行き詰まると、人は何が最善かさえわからなくなるものですからね」


 母親もそうだった。だんだんと心が疲弊していって、それでも母親像に縋り付いて生きて、ある日をきっかけに心に張り詰めていた糸がぷつりと切れた。だから無理心中という選択をした。


 自分だってユカに救われなければ自ら死を選んでいたのかもしれない。それも未来のひとつだ。


「ユカさんは忘却のおまじないをしないんですか?」

「コーヒー淹れながら話しかけられるなんて、私が見ない間に随分上達したんだね」

「いやみですか。ちっともうまくなってないですよ」


「ほら」とヨルは肩をすくめ、手元を目線でさす。その通り、お湯の量は一定ではないし、気を抜いていたら粉が溢れてしまいそうなところまで差し掛かっていて、抽出を一旦止めた。


「ユカさんは……」

「私の話はあとでいいから、おいしいコーヒー淹れることに集中してね」

「はい」


 ちゃかされて、誤魔化されて、結局ヨルはユカの真意を聞けないでいた。

 ユカは忘却のおまじないで、一体誰から忘れられようとしているのか。

 そして、忘れられた先、その未来でユカはどう生きていくのか。


 もしかしたら、と最悪のifのケースが頭に浮かぶ。


 最近のユカは出会った頃よりも増して、儚げで、危うげだ。

 まるで自分の死を悟っているような風に見える。


「俺の杞憂だといいんだけど……」

「なにか言った?」

「あ、いえ。コーヒーできましたよ」

「ありがと」


 ユカにコーヒーを手渡し、自分でも飲んでみる。

 以前より味はよくなった気はしたが、まだまだ味がぼんやりしている。

 ユカの淹れるコーヒーには敵わないなあ、とヨルは落胆した。


「コーヒー飲み終わったらさ、買い出しに付き合ってくれない?」

「買い出しですか。いいですよ」

「食材を買いに行くの。男の人がいるからたくさん買いだめしようかなって」

 そしてふたりは家を出て、近場にあるスーパーへ向かった。


・・・

 

 スーパーからの帰り道だった。

 ユカの住むマンションは小高い丘の上に立っているから、少しだけ息を切らせながら坂を登る必要がある。


「あのさ」


 前を歩いていたユカが振り向いた。夕日によって逆光になっている。靡いた髪の隙間からオレンジの光が抜けてくる。


「誰かに自分の意味を求めてる時点で、幸せになんてなれないのかもね」

 それはどこか自分に向けて言っているようにヨルには見えた。


「空が晴れていて、空気が澄んでいて、澄み渡る空が見えて。沈む夕陽に照らされた電車が走っていて、帰路に着く人たちが歩いていて、段々と街明かりがついて家の明かりも灯されていく。そういう当たり前で、小さな幸せがそこにはある」


 ヨルを見ず、街を見下ろしながらユカは話している。


「けど、会社であくせく働いて怒られるとか、嫌なことをお酒を飲んで忘れるとか。些細なことで喧嘩したりだとか、何気ない平和な風景の中には見えない不幸がたくさんある」

「そういうことに気づくことが、ふつうの幸せなんですかね」

 ヨルはそう返した。


「……そうかもね」

 ユカはヨルと目線を合わせることもせず、そう呟き、また歩き始めた。


「体を売って自分の心をすり減らしながら人を楽しませるとか。家族に興味を持たれないとか。生まれてこなければよかったって言われたり。私たちふつうじゃないことばかり。ふつうの幸せなんて私たちには遠すぎるみたい」

 ユカの目はどこか遠くを見ている。


「どうして私たちは普通じゃないんだろうね。普通に生きられたら普通に幸せだったかもしれないのにさ。神様はいじわるだよ」

 ユカはぽつりと呟く。


「いつかは私たちも、そういう風に幸せになれるのかな……」


 その独り言にヨルは何も返せなかった。

 諦めに満ちたユカの目があまりにも悲しげだったから。

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