4品目 エビルオークのワイン生姜焼き (4)
「あの、ミストレスってなんですか?」
ナオヤ青年が店の常連になってから、ひと月ほどが経過したある日の夜。
不意にナオヤ青年から訊かれた。
「私のことよ」
「あ、いや、そうなんですけど、そうじゃなくて」
ナオヤ青年があたふたしている。
なんともからかい甲斐のある男の子だ。
「ごめん、ごめん。冗談よ。ミストレスはね、女主人って意味なの。マスターの女性版っていえばわかりやすいかしら」
私は軽い謝罪のあとにミストレスの意味を教える。驚きなのか、得心なのか、ナオヤ青年は細い目を見開いた。
「あぁ、そっか! なるほど。ずっと気になっていたのでスッキリしました……でも」
「でも?」
「あ、いや! なんでもないです。ごめんなさい」
何か言おうとして引っ込めるなんて、そんなマネを許す私ではない。『ごめんなさい』と言えば許されると思ったら大間違いだ。
あの手この手で問い質すと、ナオヤ青年はついに白状した。
「酒場ならわかるけど、こんな優しい食堂でマスターとかミストレスって、なんだか仰々しいなぁって思って。あの、生意気なこと言ってごめんなさい」
ナオヤ青年は謝っていたけど、私は感激していた。なぜなら私もずっとそう思っていたから。
でも、そんなことを考えているのは自分だけだと思っていた。現に彼以外のお客さんたちは、なんの迷いもなく私のことを『ミストレス』と呼ぶ。
「えっ、えっ、あ、あの」
不意に動揺をみせるナオヤ青年。
どうやら私は、無意識のうちに彼の手を両手で握っていたらしい。
「私もそう思う! ねぇ、なにか代わりにイイ感じの呼び名はないかしら?」
私はナオヤ青年なら何か知っていそうな気がした。遠い異国から訪れたのであろう彼なら、異国の文化にも精通しているだろう。
彼は少し考えて、自信なさげにボソリとつぶやいた。
「…………女将さん、とか」
「オカミサン?」
それは初めて聞く言葉だった。
オカミサン。不思議と温かくて親しみやすい雰囲気がある。
「こういうカウンターメインの小料理屋を切り盛りしている女性を、僕がいたところではそう呼んでいました」
オカミサン。
いい。スゴくいい。
私はこの呼ばれ方にすっかり心を奪われた。
「オカミサン。いい響きだわ。オカミサン。気に入った! 私のことは今日からオカミサンって呼んでね」
年甲斐もなくはしゃぐ私を見て、ナオヤ青年は「気に入ってもらえて良かったです」と優しく微笑んだ。
ナオヤ青年が別れの挨拶に来たのは、それからさらに2週間後のことだった。
閉店間際、もうお客さんも帰ってしまって、私がそろそろ火を落とそうかと考えていた矢先。
「女将さん。まだ大丈夫ですか?」
そう言って店に入ってきたナオヤ青年は、初めてこの店に来たとき以来の涙を見せて言った。
「今日は、ぐすっ。お別れに、来たんです。最後に……ずずっ。オカミサンの生姜焼き、食べさせてもらいたくて」
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