第2話

今日初めて、人から私に向けて放たれた言葉がそれだった。

 

 申し訳なさそうな振りをした、なんの抑揚もない声が私の脳内で暴れ狂う。


「えっと、社長。言葉の意味がよく分からないのですが……」


 分かっている。だが、言わざるを得ない。


 戸惑いを外界に放出しなければ、私の心の余裕がなくなってしまう。


「君ももういい大人だろう? 理解して、自ら行動してくれればこちらとしても助かるんだよ」


 心の余裕。


 そこにあったはずの、あったかくて朗らかな空間が、どす黒いヘドロのようなものに侵されていく。


 やめてくれ、と。何度叫んでも浸食は止まらず、体内で血が噴き出しているのではと錯覚するほどに、身体が熱くなっていく。


 ここは一体どこだ。私は、何をしていた。私は――。私……。私とは――?


「戸惑うのは分かる。だがね、君は自分の実績がどれほどか分かっているのか? 新入社員たちと比べてみればはっきりと分かるさ。入りたての若い子たち全員、君より優れているんだよ。会社にとって有益である人材ならば、お願いしてでも欲しい。しかし、その逆ならば。私は、その席を空けて欲しい、とそう願う」


言葉は既に届いてはいなかった。届かない言葉に返答することなど出来るわけもなく、私はただ小さく頷いて、俯いた状態で社長室から出て行った。


 見慣れた廊下。


 何十年も見てきて、何十年も歩いてきて、自分の家と見間違ってしまっても仕方がないと思えるほどに馴染んでいたこの廊下が、恐ろしく不気味に見えた。


 しまいには歪み始めて、私をこの場から振り落とそうとひどくうねり出す。歩こうにも歩けない。立っているのがやっとだ。


 数分ほどたったのだろうか、未だ動くことが出来ていなかった私に、そっと声をかけてくれる女性がいた。


「大丈夫ですか?」


「ああ、はい。大丈夫です」


「具合でも悪いんですか? よかったら、肩をお貸ししますけど」


「い、いえ。ありがどうございます、なんでもないんですよ。ただ、ぼーっとしてしまいまして。いや、お恥ずかしいところを見られてしまいました。それでは、失礼します」


 私は彼女に背を向けて、よろめきながら廊下を進んで行く。あんな優しい言葉をかけられたのは、何時振りだろうか。若くて綺麗で、人を思いやれる優しい女性だった。誹謗中傷の多い現代社会の中にも、あんなにも美しい心を持った人がいるものなのだな。


 不意に涙が零れそうになった。


 優しさに触れて感動したのか、それともまだまだ現代も捨てたものではないと、歓喜ゆえなのか。


 分からない。


 けれど。私の心は随分と軽くなったような気がする。


「あ、先輩。そこの席、明日から俺が使ってもいいそうなんで片づけお願いしますね」


 自分のデスクに戻った私に、入社一年目の男の子が待っていたかのように近づいて来てそう言った。


「え? 私は何も聞いていないんだが……」


「そんなこと知りませんよ。部長が使ってもいいっていってたんで、明日から使わせてもらいますからね。俺の机よりこっちの方が綺麗なんで」


 机が綺麗だから。そんな理由。


「じゃあ、私は明日からどこの机を使えばいいんだ? 君が使っている机か?」


「だから、知りませんよ。なんで俺に聞くんですか?」


 冷たい視線が降り注ぐ。立っている彼と、椅子に座っている私。現在の立ち位置を模しているかのようで、笑ってしまいそうになる。


「とにかく、さっさと片付けといて下さいよ。俺、忙しいんでこれ以上相手出来ませんから。それじゃ」


 去っていく彼の背中を見つめながら、私は何も言えなかった。言おうとすら、思わなかった。悔しいだとか、悲しいだとか。そんな人間らしい感情すら湧いてこない。ただただ、ぼうっとしてしまう。


「あ……」


 視界の隅に見覚えのある姿が映った。若くて綺麗で、優しい心を持った女性。


 どうやら同じ部署だったらしい。いつも同じ空間にいて知らなかったなんて、失礼な話だ。


 両手でたくさんの書類を運んでいる彼女。大変そうだ。けれど、彼女の腕は力強く書類を支えている。綺麗な手だ。すべすべとしていて、柔らかそうな美

しい手。


 そんな手も。


 私には何の関係もない。いくら憧れても、羨ましがっても、私には無縁なのだ。


 そんなことは分かっている。


 机の整理をしなければいけない。明日には、ここは彼の席なのだ。机の上のパソコンも、数枚の書類も、引き出しの中の筆記用具なんかも全て回収しなければいけない。


 私は机と向き合って手を動かし始める。


 ぼうっとする。


 これまではっきりと形作られていたものが、本当はその形ではなかったと、そう教えられて当惑しているような。そんな感じ。


 簡潔に分かりやすく言えば、理解が追いついていない、ということだろうか。


 私は手を動かす。


 ぼうっとする頭の中に、先程の景色が浮かび上がってくる。


 部長のもとへ書類を届けた彼女が、少し汚めな机に座っている男の子に視線を向けて、二人仲良く右手の薬指につけている指輪を見せ合う光景。


 はあ、とため息をついた。


 そして、脳内の男の子の姿を私の姿に変換させる。私は彼ではなく――私でもない。

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