第1話

 窓から零れる朝日が私の顔を包み込む。瞼の先の暗闇に若干の明かりを感じながら、苛立ちを産み出しつつ、ああ、今度の休日にベッドの位置を窓から離れた場所に移そうか、なんてことを考えた。結局、面倒臭くなってやるわけないのだろうけれど。


「もう少し寝かせてくれないかな」                 


 ひとり言。   


 高校時代まで親と過ごしていた経験以外に誰かと一緒に暮らしたことがない三十代半ばのおっさん、になってしまうと、ひとり言なんて、会話をするかのように自然に出てくる。まあ当然、私が投げたボールはキャッチする相手がいないわけなので、返球などあるわけでもなく、無音だった空間に私の声が虚しく流れて終わるだけなのだが。でも、私にとってはそれで十分だ。


 横たわったまま、枕元に置いてあるスマホの画面を見る。時刻は午前六時。いつもと変わらない起床時間。タイマーをセットしているわけでもないのに、毎日寸分違わず起床できるのは、私の唯一の特技かもしれない。冷静に分析すれば、十年以上同じサイクルで生活しているからなのだろうけれど、それは、黙っておくとしよう。


深く息を吐きながら、重たい上体を起こしていく。また一日が始まってしまう。どうせならいっそ、このまま眠り続けてしまえばいいのに、なんて毎日のように思いながらそれでも私は、慣れ親しんだ会社に向かうために今日も目覚めるのだ。


 カーテンを開ける。シャー、という音が聞こえたと同時に、先ほどまでは零れる程度だった朝日が私の上体全てを照らし出した。


 暑い。そして――眩しい。


「おはよう」

 太陽は、私の挨拶に応えない。無礼な奴である。

 フローリングの床に足を着けて歩き出す。身体がまだ完全には目覚めていないのか、私の身体は意思に反して軽くふらついた。前に進みたいと思っているのに右によれる身体は、本当に自分の身体なのかどうか分からなくなってしまう。

 

 寝室を出て、台所。これまたいつものように、赤のマグカップにインスタントコーヒーの粉を入れて、その上からお湯を注いでいく。コーヒーの良い香りが私の鼻腔を通って身体に染み渡る。本格的なコーヒーには遠く及ばないのだろうけれど、それでも私は、この香りが好きなのだ。

 

 朝は余裕を持って行動する。私が心掛けていることだ。

 

 そのため、家を出る二時間前に起床している。

 

 リビングにあるソファでコーヒーを飲み、飲み終わったら洗面所で顔を洗い、寝室で着替える。持っていくものを確認して、一度トイレに行っておく。この一連の流れは通常、一時間もあれば出来ることなのだろうけれど、私は二時間かけてやる。時間の余裕は、心の余裕に繋がってくるのである。


 通勤は電車だ。車の運転免許は持っているので車さえ購入すれば運転することはできるのだけれど、都内では車よりも交通機関を利用した方が良かったりもする。当然、通勤ラッシュ時には電車内はこれでもか、というぐらいに人が押し詰められているわけで苦しくもあるのだが、車で通勤した結果、渋滞に捕まって遅刻するよりかは随分とましだ。サラリーマンというのは、会社からの信頼が得られなくなると終わりなのである。

 

 時刻は八時。

 

 私は荷物を持って、玄関横の靴棚の上に置いてある家の鍵を手に取って家を出る。鍵をかけ、しっかりと施錠確認をしてから大地を踏みしめるようにして歩き始める。

 

 さあ、今日も一日が始まった。

 

 駅まで徒歩十五分。朝の運動としては丁度いいぐらいに疲れる距離だ。

 

 私は朝日を背に浴びながら、渋滞している道路を横目にして朗らかな気持ちで歩いていく。

 

 渋滞で停まっている車の窓の中に、苛立った様子の男性の顔が見えた。私と同じぐらいの年齢だろうか。何に苛立っているのかは容易に推測できる。だからこそ、私は余計に優越感に浸ってしまう。

 

 陽の光に照らされる私と、光を遮断して闇の中で苛立つあの男。

 

 私は、正しい選択が出来る人間なのだ。

 

 きっちり十五分後に駅にたどり着く。

 

 定期券を機械にかざして、八時十八分発の電車に乗る。いつもと変わらず、電車内はぎゅうぎゅう詰めだ。

 

 ここで私がいつも気を付けていることは、女性の近くには行かない、ということだ。たとえ、自然と女性の側に押し込まれたとしても、他人を押し退けて力尽くで移動する。女性に近づかなければ、冤罪をかけられることはないのだ。

 

 二十分後、目的地の駅に着く。時刻は八時三十八分。ここから歩いて五分ほどで私が勤めている会社に到着する。定められている出社時刻は午前九時なので、少し余裕を持った丁度良い時間帯だ。


 駅のホームで駆けていくサラリーマンたちを眺めながら、私は悠然と歩いてにっこりと微笑む。

 

 心の余裕。 

 

 私は、彼らよりも上の位置に立っている。


「佐々岡君。長年続けている君にこんなことを言うのは正直気が引けるんだが……まあ、アドバイスとして聞いてくれ。人には得手不得手がある。君には、他にもっと活躍できる場所があるんじゃないか?」

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