いつまでも変わらないものはあるけれど
James B. H
いつまでも変わらないものはあるけれど
ビルは編集長から次のサラリーを前借りし、早々に帰宅した。来月分の漫画はすでに納めたあとだったし、編集長も渋々ながら承諾してくれたものの、それ以上オフィスに残っているつもりはなかった。ここのところ四コマの内容がどうも振るわず、編集長からも再三指摘を受けてはいたが、それどころではなかったのだ。というのも、恋人のマーリンが久しぶりのニューヨーク巡業で彼のアパートに寝泊まりしていたから、オフィスで作業をしていても彼女のことばかりが頭の中でチラついてしまい居ても立ってもいられず、早帰りを繰り返す日々だったのである。
「それであんた、ちゃんともらえるもんもらってきたんでしょうね?」とマーリンは、ビルが帰宅するやいなや、フローリングの上で百八十度開脚をしながら詰問口調でそう言った。
「やんや言わないでくれよ、そら!」
恋人の理不尽な態度にかすかな怒りを覚えながらもビルは、ぎこちなく微笑むと、マーリンに札束入りの封筒を手渡す。その瞬間、恋人の綺麗に整えられた指の爪といい、メキシコ刺繍の入った落ち着きのないマニキュアの発色といい、その抜けるような白い肌といい、どれもこれもが、たとえほんの少しでも自分にいたらぬ点や不作為があればたちまち姿を消してしまうかけがえのないもの、運命のさじ加減になにか手違いがあってたまたま彼のもとに転がり込んだだけにすぎない一過性のもののようにしか思えなくて、胸が苦しくなった。
いつものことだがビルは、それ以上マーリンを見続ければ動悸が上がっていく一方であり、また辛くなっていくとよく分かっていたから、ひとまず彼女を見るのは手先だけに留めて、むしろ逆に本来なら見たくもない連中のほうに目をやった。今日もまたマーリンは、ビルにはいっさい見覚えのない彼女のサーカス仲間を連れ込んでいたが、部屋の主が帰ってきても、彼らは会釈一つ寄越さなかった。
今日来ている仲間は三人で、まず一人はブルーを基調とした刺青が全身を覆っている大男。彼の刺青が大部分見えているということはつまり、男が上半身裸の状態でフローリングに寝そべり、他の二人とカードゲームに興じていることを意味したが、他二人の仲間、具体的にはダブルのスーツを丁寧に着こなした小人と、見るからにアル中じみた顔つきの痩せこけた女も同様に、ひどく場違いな雰囲気を醸し出していたので、ビルには大男だけが格別気になるようなことはなかった。
マーリンは巡業でこの部屋にしけ込むようになってからというもの毎日のごとく、このようにサーカス仲間たちとわがもの顔で振る舞い、連中の面前でビルを悪しざまに罵ったり、侮辱的なジョークの種にしたりと好き放題の日々を送っていて、彼からしたら本来ならそちらのほうがよほどの大問題のはずが、以前からずっと繰り返されてきた恋人の所業に慣れきり、いまではごく鈍い怒りを身体の奥の奥に感じる程度のこと。
「ああそうそう、そういえばお袋さんから……」
ビルは、先だってサウス・キャロライナに帰郷した折に会ったマーリンの母から言伝てを預かっていたので、それをサーカス仲間たちも同席の上であえて開陳してやった。もっとも、その言伝てというのもじつのところ「あら、ビル!娘によろしくね」程度のものだったが。
「ああ、そう」
マーリンはつまらなそうに言い、さっきからカードゲームで負け続けの小人をからかった。ビルはマーリンの顔を見まいとしてちょうど小人の一挙手一投足に視線を注いでいたので、当の小人本人はビルとマーリンの両方に見つめられてどぎまぎした表情を垣間見せたが、アル中女に耳を引っ張られて、すぐゲームに戻った。
「母さんにはもうずいぶん会っていないわ」
「だろう?」とビルは、待っていましたとばかりにそう言った。
「たまには帰ってやったらどうなんだい」
「とんでもない、忙しくて!」マーリンはあいかわらずカードゲームに興じている仲間たちを見つつ、思いきり首を横に振った。
「ここにだってあたし、いつまでいられるか分かんないもん」
そうマーリンが独特の調子で言うと、サーカス仲間たちがどっと笑った。ビルにはなぜ連中が笑ったのか理解できなかったが、マーリンが出し抜けに言い放った旅立ちの可能性と併せて、たまらなく不快だった。
「ねえ、頼むから怒らないでくれよ」とビルはすまなそうに切り出す。
「もうそろそろきみも一つところに腰を落ち着けたらどう?」
「なにをほざいてんの!」マーリンの声が尖った。
「ほざくなんてそんな……ねえマーリン・フィンドレイ、いまみたいな暮らしをこれから先もずっと続けていくつもりなの?」
「ねえ、ウィリアム・レンフィールド」マーリンもまたビルに呼びかけた。
「あんたはただ黙ってあたしにゼニ寄こしゃそれでいいの」
「なんだって!」
「人の話は最後まで聞きな、ウィリアム。なにを好き好んであたしが、今日の今日まであんたみたいな三流四コマ漫画家と腐れ縁切らないでいたと思うわけ?そりゃ二人のあいだにゃあ昔色んなことがあったけど、もうあんたはあたしのビルじゃないの、とっくのとうに。あたしがあんたのマーリンじゃないようにね」
「いいぞ!」だいぶ酔いが回ってきたらしい大男が、ジョーカーの手札をヒラヒラさせながら歓声を上げると、マーリンは満足そうににんまりと笑った。
「だからさあ、新聞にくだらない漫画なんか描いて日銭稼ぎしてるあんたが気の毒だったから、昔のよしみで今日までごっこ遊びしてやってたってわけ。ね、分かる?」挑発するように言うと、マーリンは自分の顔を見ようともしないビルの横面を軽くビンタした。
「なんだ、その言い草は?」
ビルは、今日になってから初めてマーリンの顔を正面から見すえた。それは彼のよく知る目鼻立ちがまずまず整った女で、薄い唇に過剰なルージュが引かれた女、やや角ばった顎のラインを昔ひどく気にしてはいたが、いまはどうなのかビルには皆目分からなくなった女だった。
「そっちこそサーカス稼業じゃ食えないからおれに無心してたんじゃないのか、あばずれ!」ビルが言うと、すでにカードゲームに飽きて大男とふざけたダンスを踊っていたアル中女が指笛を吹いた。
「ナマ抜かすんじゃねえ、無能!」
そう言って激昂したマーリンがビルの鼻面にパンチを入れたところ、見境がなくなったビルはマーリンにアッパーをかまし、倒れた彼女に馬乗りになって往復ビンタをお見舞いしてやった。すぐに飛んできた小人に羽交い絞めにされそうになったのをがむしゃらに振りほどくと、今度はマーリンの前髪を鷲掴みにし、フローリングに叩きつける。マーリンが喚きながらビルの腹に膝蹴りを入れたが、彼は痛みに苦しみながらもその場を即座に離れると、駆け寄ったアル中女に介抱されつつ「殺してやる」だのなんだのと悪罵を繰り返すマーリンを遠巻きに見た。みずからの行動力への自負心に酔い痴れていた自分に気がつく暇もなく、素早く歩み寄ってきた刺青の大男から、まるで屠殺場に吊り下げられた豚を下ろすように無感動な仕草でヘッドバットを入れられ、ビルの記憶は曖昧に立ち消えた。
翌朝、一人ぼっちでフローリングの上にのびていたビルは血と汗と靴の泥と吐瀉物とにまみれながら目を覚ますと、なんの気なしに腰かけたワークチェアの座り心地がたまらなく快適なら、たまたま手にしたペンの握り心地も快適で、久しぶりに自室で漫画を描いてみる気になった。ちょうど先日やっつけ気味で編集長に納めたのと同数の四コマを速やかに仕上げると、世にも哀れな格好で、廊下を行き交う人々に奇異な視線を向けられながらも編集長の部屋を訪れ、なにも言わず原稿を渡した。
「なあビル、さすがにこれでは話にならんよ」いつもならひとまず黙って原稿を受け取ってくれる編集長から気鋭の四本を突き返されたビルは、またすぐに自分の作業机へ向かった。
いつまでも変わらないものはあるけれど James B. H @kulbalka1868
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