第2話 背中の手

 小さい子供の主張というのは、ちゃんと伝えることが出来ず、適当な返事に流されてしまうことがある。でも、もっとちゃんと聞いてほしくて気を引くために駄々をこねたり拗ねてみたり..


 それでもやっぱり自分の言いたいことがちゃんと伝わらない時は、自分の世界に閉じこもってしまう。粘土遊び、またはひとりでオママゴトに没頭するのもその表れかもしれない。


 みんながそうという訳ではないけど、私、一ノ瀬 茜はそうだった。


 私の場合は伝わらないことを絵にして書いていた。最初は『面白い絵を描くわね』とほほ笑んでいた大人たちも次第に眉をひそめ始め、最終的には『やめなさい! 』と私からクレヨンや鉛筆を取り上げてしまった。


 でも、そんな時はおばあちゃんが私を膝の上に乗せて『大丈夫よ、茜。大丈夫』と元気になるまでなぐさめてくれた。


 小さいころの私の絵。それは人の背中にもうひとつ頭や腕が生えているような絵。


 それをはじめて見たのは3歳のときだった。


—ある日の休日、『動物園へパンダを見に行こう』と家族でお出かけ。


 春風ふく青空のもと、ピンクのワンピースに白いリボンを付けた私は動物園に行くのがうれしくて、駅が近づくと「パンダちゃんに会うんだ!」と叫びながら両親を追い抜いて走っていった。


 そして工事中のビルの角を曲がろうとした時、上から長い鉄パイプが数本落ちて来た。


 真上から落ちて来た鉄パイプは、耳をつんざくような大きな音を立てて、はじけて飛んだ。 私はあまりにも急なことに驚いて時が止まったように身がすくんだ。真っ青になった父は私に駆け寄り抱きしめた。父親の温もりに我に返るとけたたましく泣いた。何も理解できない私には鉄パイプの音とその光景だけが頭に残った。


 そのあと警察が駆け付け、家には工事関係のひとが来たのを覚えている。何度も私に謝ってくれていた。ただあの日、「工事は休みの日で現場には人はいなかった」と主張する責任者とお父さんが言い争いになっていたのを覚えている。私にとってはそんなことはどうでもよくて、せっかくの動物園へのお出かけが中止になった事にふてくされていた。


 だって、パンダのリャンリャンに会いたかったんだもん!


 両親は私のPTSDを心配していたようだ。それは私が事故の時の事をこう説明していたからだ。


 『茜の後ろから知らないお姉ちゃんが出てきて鉄パイプをはじき飛ばした。そしてお姉ちゃんは『危なかったね』って頭をなでてくれたの』


 「どんなお姉ちゃんだったか」といろいろな人に聞かれたけど、「良い香りのお姉ちゃん」と答えるのみだったらしい。


 その時から時々見かける背中の手。色彩というものがまるでない手が駅のホームで女子高生、中年男性に、はたまた高齢のおじいさんの背中を押し始めた。


・・

・・・・・・


 初大駅、私とサラリーマンの男性がぶつかると、私のカバンは床に勢いよくはじけ飛んだ。あの時私がぶつからなければ、男性はその場で特急電車に跳ねられていたに違いない。だけど、それはほんの少しだけ彼の命を伸ばしただけでしかなかったんだ。


 背中に見えるあの白い手は狙った獲物を決してあきらめない。


 例外?いや、白い手が取り逃した者がいたとすれば、それは私だけなのかもしれない。なぜならば、あの白い手はあの時1度かぎりで私を襲うことはなかったからだ。

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