エピローグ
ジョシュアは懐かしい部屋を訪れる
――それから30年後。
■アヴローラ ベーカリー街 閉店したパン屋 2階の部屋の前 エルタ小月(8月)10日 15:00
無精ひげを生やした疲れた男が、探偵がかつて暮らしていた部屋を前にして思い悩んでいた。ドアノブに手をかけながら、あの日の思い出に身を浸す。
――扉を開ければ、きっとファルラが「おや。だいぶお疲れのようですね、ジョシュア殿下」と言いながら、私がどこにいたのか、どう過ごしていたのか、きっと推理して当ててくれるに違いない。
ファルラ・ファランドール。ジョシュアの元婚約者。
ユーリス・アステリス。彼女のメイド。
ふたりと過ごした日々は懐かしい思い出だった。それを自らの手で壊したことをずっと悔いていた。危険を冒してここまでやってきたのは、長年の贖罪を果たせるかもしれないと思ったからだった。
――そんなこと、いくらやってもあのふたりは帰ってこないがな……。
そう自分を嘲笑しながら、ジョシュアは扉を思い切って開けた。
驚いた。
あのふたりが居たときと変わらない部屋がそこにあった。
飴色に磨かれた木の壁、奥の方には少し年代物のテーブル、窓辺には丸い葉がいくつもの生えた鉢植えが並び、緑が多いこじんまりとした部屋が、そのまま残されていた。
白髪が混じる品の良さそうな女が、小さな水色のソファーに座っていた。貴族らしく凛とした仕草でお茶を飲んでいた。カップを降ろすと、その女はジョシュアにたずねた。
「懐かしいと思いませんか? ジョシュア」
「イリーナは、私のことを陛下とは言ってくれないのだな」
「ええ。玉座から引きずり降ろされたあなたは、もうただの人です」
「ふふ。それもそうだ」
ジョシュアは光が差す大きな窓から、灰色の街並みを見つめた。ところどころに魔族襲撃の爪痕がまだ残されているのが見えた。何十年も復興が進められていないことに、ジョシュアは何の気持ちも抱かなかった。政変が続くこの地では、それはもう当たり前のように思えたからだ。
イリーナの隣にジョシュアがどかりと座る。
もうひとつのお茶が低いテーブルの上にあった。カップからは少し湯気が見えている。
――私が来るのが見えてからお茶を淹れたのだろう。やはり見張られていたか。手紙をもらっても、ここに行くとは返事をしなかったのに。
ジョシュアは何気なくカップに手を取り、イリーナに声をかけた。
「この部屋はずっとこのままにしているのか?」
「ええ。私がこのあたりをこっそり買い取って、管理する者を置いています」
「ここには滅多に来られないのにか? 無駄なことを」
イリーナが残念そうに大きくため息をつく。
「私はあなたのことが嫌いです。ずっと。いまでも」
「なら、なぜ私をここに呼んだ?」
「もうファルラのことをいっしょに思い出せるのは、あなたぐらいしかいませんから」
「それは、そうだな……」
ジョシュアがカップからお茶をごくごくと飲む。南方産の果物の香りがするお茶だった。それはイリーナが暮らしている国のものだ。ユーリスがいつも自分の好みに合う北方産のお茶を淹れてくれたことをジョシュアは思い出す。
――あのふたりは私のことを嫌っていたのだろうか? 嫌う相手が喜ぶものをわざわざ出してくれていたのだろうか? ファルラだって、私のことを本当に嫌がることなく……。アーシェリのことだって私のために……。
イリーナがカップを音を立てずソーサーの上に置く。
「私はファルラのことが大好きでした。最初はあの子のようになりたいと思っていました。それが恋する気持ちに変わるのは自然なことでした」
「そばで見ていて、それはなんとなくわかっていた」
「あの子のそばにずっと居たかった。お金も権力も、みんなあっても、それは叶いませんでした……」
「そんなにいい奴だったか? いつも苦笑いさせられる、私にとってはそんな奴だ。私の寂しさは彼女では埋まらなかった。あれはもう私ではない別の人を好きになっていたからな……」
「早くに気づいていれば、もう少し傷は深くならずに済みましたのに」
「まさかユーリスがそうだとはわからなかったのだ。あれはメイドなんだぞ」
「ジョシュアだって平民であるアーシェリに手を出していらしたのに」
「それは……、まあ、その。そうだな……」
困りだしたジョシュアへ、イリーナが小さな花がたくさん咲いたように笑いかけた。
「つまらないものです。そんなものは。王政、貴族社会、しきたり、伝統……。この歳になって見れば、あんなに大げさに考えていたものが、つまらなく思えます」
「私達はその中で生きてきた。人類の秩序を守り、魔族と対抗すること。それが王家の義務で……」
「ずっとファルラは、その作られた社会の中でもがき苦しみながら、自分の運命を、自分の頭脳だけで切り拓いていました」
「そうか? 私には好き勝手にやっていただけに思えたが」
「だから、あなたはアレなのですよ」
「アレってなんだ。わからないんだが……」
「ずっと変わらないですね。ふふ。でも……。いまではそんなあなたが、少し好ましいです」
ジョシュアのほうに顔を向けながら、イリーナはそっと言う。
「私達はファルラにふられた者同士です。もう少し話しませんか?」
「ああ、そうしよう。まだ時間はある」
温かいお茶を飲みながら、ふたりは語り合った。魔法学園でファルラといっしょに青い犬を探した冒険のこと。先生たちから課されたきつい授業、謎の先輩といっしょに遊んだ日々……。
イリーナは古い紙の束を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。それはユーリスが残したファルラとの思い出を記したものだった。いろいろな事件が書かれていた。最初の事件、王国劇場での首吊り事件、刑務所の崩壊、それに……。そのときユーリスがどう思っていたのかも書かれていた。それは、ずっとずっと長く続く、恋文のようにイリーナは感じていた。
生徒会にいた学生にファルラの腕が斬られた事件をふたりで読む。ファルラが「ああいう脅しはよくありません。もっと裏で手を回さないと」とイリーナをたしなめたことも書いてあった。
「あの子に教えられた通り、私は影の実力者という役を演じ続けました。議会制というのは実に良い舞台です。私のような者が伸び伸びと役を演じられます」
「アシュワード連合王国に代わり、君が作った汎フレリア連邦が人類の盟主となった。いまの気分はどうだ?」
「清々しい、とでも言えばいいのですか?」
「違うとは思っている」
「私こそお聞きしたいです。セイリス殿下による反乱と月皇教会を主体とした宗教国家化が始まり、ネフィリアに都を移し、アシュワード連合王国は月皇教国と名前を変えました。法律より教義が優先される社会となったことにあなたは抵抗している。いったいどういう気分なのです?」
「その言い方、少しファルラに似ているな」
「それはそれは」
「ふふ。似すぎだ」
「似ているでしょう。似てしまうんです。大好きな人が、もし、そばにいてくれたらと思い続けると……」
「かわいそうな奴だ」
そう言いながらうつむくジョシュアを見て、イリーナはこんな男に同情されるなんてと思った。むっとしながら、ジョシュアにたずねた。
「あなたも同じですよ。逃亡生活はお疲れでしょう?」
「こんな私でも慕う者はいるらしい」
「正統な後継者ですか。それはいまの社会に反発したい人がそう言っているだけです」
「いまならファルラの気持ちが少しわかる。慕う者のために自分を犠牲にする、そんな気持ちが……。はは。遅すぎたな」
イリーナが口元に手を当てておもしろそうに笑い出す。
ジョシュアはそれを見ながら、少しいらいらと言う。
「そんなに笑うな」
「あの子はそんなこと露ほどにも思いませんよ。いつでもユーリスのため。ついでに私達を救ってくれただけです」
「そうか?」
「あなたはいつまで経っても人の気持ちがわからないのですね」
ため息をつきながらジョシュアが下を向く。
「そうかもしれんな……。私はダメな人間だ」
「ようやくわかりましたか」
ばたばたという音がする。
「時間か」
「ええ」
「楽しいひとときでした」
「ああ、私もだ」
扉が乱暴に開かれた。白い僧衣に身を包み、手には黒い金属の棒を握り締めた教会警察の一団が、部屋の中に踏み込んできた。先頭に立つひとりがジョシュアを見て叫んだ。
「ジョシュア・アシュワード! 国家転覆罪、ならびに内乱首謀者として逮捕する!」
ジョシュアがソファーが立ち上がると、拳を振り上げながら叫んだ。
「国家転覆だと! 私がこの国の王である。奪ったのはお前たちのほうだろう!」
それからイリーナのほうに顔を向けて、ジョシュアがにんまりと言う。
「どうだ。いい演技だろ?」
「ええ。惚れ惚れします」
ジョシュアが「どけっ!」と叫びながら、教会警察の群れへと飛び込んだ。
「捕まえろ!」
「放せ!」
一団と乱闘しながらジョシュアは階段へ向かっていく。転がり落ちるように、教会警察はジョシュアに続いて一斉に階段を降りていった。呼び笛の甲高い音が外に響く。
あのままこの部屋で乱闘をしていたら、たいへんなことになっていた。きっとこの思い出を壊さないようにしてくれたのだろうと、イリーナは思った。
ひとり残った教会警察の祭司がイリーナに礼を言った。
「ご婦人、ご協力を感謝します」
「いえ。市民の義務です。ああ、なるべく丁寧に扱ってください。あれでも元はあなたたちの王でしたから」
「私達はそれを恥じています。あなたに月の導きがあらんことを」
扉が閉じられる。イリーナはため息をつくと、ジョシュアのことを思う。
――いい悪役ぶりでした。この国の人々は自由を求めるのに、代償がいるようになってしまいました。彼はそれを変えるための犠牲になると言ってましたが、彼からひどい扱いをされ恨みを持つ者は多くいます。いまごろファルラとユーリスは、月の上で笑っているでしょうね。そうです。あなたの推理が当たったんです。
どこまでも青い夏空をソファーに座ったままイリーナは見上げる。空に向かって力強く羽ばたき、ずっと遠くに向かってへ飛ぶように感じられた。
――私ももうすぐそちらに向かいます。
カツカツという靴音がした。
長い白髪を束ねたやさしそうな老紳士が、奥の部屋からやってきた。イリーナはその姿を見て声をかける。
「ベッポ、今日は男装ですか?」
「こっちのほうがイリーナが気に入ると思って」
かつては連合王国一の名女優と称えられた彼女は、ファルラと別れたあの日からイリーナを支え続けていた。
明るい夏の日差しに照らされながら、ベッポはイリーナに微笑んだ。
「もう終わった?」
「ええ。すべてに幕が下りました」
ベッポがソファーに座るイリーナのすぐそばまで近づく。
「幕が閉じる瞬間はいつでも悲しいわ」
ベッポはその手をイリーナへ差し出した。その手をつかむと、イリーナはそっと自分の頬に引き寄せた。
「ずっと私のそばにいてくれてありがとう」
「私はね。応えてくれるファンには、長くサービスを続けたいと思っているんだ」
ベッポの手が離れる。イリーナのあごへ手を添えると、ベッポはかがみこむようにして、唇を重ねた。
パタン。
急に扉が開かれた。
くしゃっとした金髪が揺れるかわいらしい男が、イリーナたちを見て顔を赤くしながらあわてた。
「あ……。いえ。すみません。その……」
ベッポがゆっくりとイリーナから唇を離していく。
イリーナは何も気にせず、ミルシェにたずねた。
「良かったのですか? 兄の最後ですよ?」
「私を殺そうとした人のことなど、どうでも……。それに私は死んだことになっています。顔を合わせたら生きているとみんなにばれてしまいますよ」
「ふふ、そうですね。ここにも役者がいましたか」
イリーナはベッポの手を借り、ソファーから起き上がった。
ミルシェがテーブルの近くに立てかけてあった茶色い旅行カバンを持ち上げる。
「荷物はこちらだけですか?」
「ええ。そうです」
「みんなお捨てになられたのですね」
「いいえ。ベッポとファルラとの思い出だけは残してあります」
ベッポが静かにイリーナへ身を寄せる。
ミルシェがまた恥ずかしくなって、こほんと咳ばらいをすると言葉を続けた。
「ご要望通り、魔族領へ行く支度を整えました。用心のため、列車の旅とさせていただきましたが、よろしかったですか?」
「もちろんです。あなたの家が見たいです。そしてファルラたちにも」
「きっとお待ちです」
「長年、墓守のようなことをさせてしまい、すみませんでした」
「魔族と人との仲介役は、私が適任でした。きっとファルラお姉ちゃんもそう思っています」
「……そうですね。それでは行きましょう」
三人は名残惜しそうに部屋から出ていく。いつもと変わらず明るい陽の光を浴びているその部屋を見て、イリーナはつぶやいた。
「ありがとうファルラ。私の大好きな人」
扉が音を立てて閉まる。
かけてあった木彫りの看板が揺れた。
そこにはパイプをくわえた令嬢とそれに寄り添うメイドの姿、その下には「ファルラとユーリスの探偵事務所。ふたりで真実を解き明かします」と書かれていた。
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ご愛読いただき、たいへんありがとうございました!
『名探偵悪役令嬢』、これにて完結です。
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作者が「ファルラとユーリスの活躍を書くために、私へもっと力を!」と叫びながら喜びます!
いずれ外伝でまたお会いできましたら!
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