第2話-③ 悪役令嬢はパン屋に住まう
「おいしい……」
心の声が勝手に漏れ出てしまう。
おばちゃんが嬉しそうにフォークを振り回しながら話し出す。
「でしょう。うちで作っている自慢のパンだよ。なんたって粉が違う。フレリア海沿いのものだから、ほんのり潮の匂いがするんだ」
ん? フレリア海?
「父ちゃんが生きてた頃は、私はお屋敷のパン職人をやっててさ。今でもその縁で、そのご領地の小麦を使わせてもらっているんだ」
ん? 領地?
「お屋敷までパンを収めに行くこともあるんだよ。このベーカリー街にひしめく他のパン屋達とは、ちょっと違うとこさ」
アハハとおばちゃんが豪快に笑う。
ん? お屋敷?
もしかして……。
「その……、お屋敷というのは、ロマ川のほとりにあるユフス家の……?」
「そうだよ、よく知ってるね」
私とユーリスは顔を見合わせる。イリーナが知ったらどうするだろう……。嬉しそうにこのあたり一帯を買い占めかねない。
まあ、いいか。いくらなんでも、そんな……。
「あはは。私もよく知らないんですぅ」
適当にごまかす。仕方がない。
そうして3個めのパンに手を伸ばしたときだった。笑い合ってるユーリスとおばちゃんに、私もにこやかに聞いてみた。
「で、倒れた私を運んできたのは誰ですか?」
ユーリスが固まった。
うん? 何かあるのか?
おばちゃんが神妙な顔をした。
「うちには娘がいるんだけど、最近ある貴族様に嫁いでね。その娘の旦那が、ここに連れてきたんだよ」
「なるほど。どこの家の方のでしょうか? お礼をしたいのですが」
「その旦那から『言うな』と口止めされてね。ただ、起きたら娘の名前を言ってくれと」
「それはまた不思議な話ですね。それで娘さんのお名前は?」
「アーシェリと言うんだけど、お前さんたち知ってるかい?」
今度は私が固まった。
ここ、アーシェリの実家?
とすると、このおばちゃんはアーシェリのお母さん?
あの部屋はアーシェリの?
わあ。
言えない。私が誰かなんて。
「どういうことかな、ユーリス?」
「その……、たいへん言いづらいんだけど……。その旦那さんが何名かの手勢とお忍びで私達を見張っていたとかで……」
「じゃ、まさか」
「ええ、近くに住んでるコルネイユさんを呼びに行って、ここまでファルラを抱えてきたのは、いわゆるアーシェリの旦那さんで……」
「なにぃ!」
ジョシュア殿下、アレは何を考えているんだ。もともとアレだけど。悪い人ではない。でもアレなのだ。
もしかしてハメられたのか。こうなることを見越して……。うーん。「アーシェリの家なら無茶はすまい」とでも言いそうだ。アレな頭では。
うーん。ベッドに戻りたい。
「娘が嫁いで行ったからね。部屋が空いているんだ。娘の旦那からも良くしてくれと言われてるし、しばらくここで暮らさないかい?」
「そうですね……」
「娘には言えないけど、まあそれなりに私も寂しいもんさ。無理にとは言わないけどさ」
魔法学園にいたとき、アーシェリからお母さんの話をよく聞いた。
他人の子を引き取って愛情込めて育てて、その子が巣立った後も、なお他人へ情をかけようとしている。
おばちゃんは心から良い人なのだろう。
「ファルラ。これはもう『ここに住め』ということじゃないのかな……」
「そうかもしれませんが……」
ユーリスがあきらめろという顔をしている。
でも、アーシェリになんて言えばいいのか……。自分を陥れた人物が、自分の実家でのうのうと暮らしてるなんて。
うーん。
うーんうーん。
このパン、おいしいんだよね……。
「よろしくお願いします……」
私は両手でパンを握りしめたまま、こくりとうなづいた。
「そうかい、そうかい。ありがとうね。私はヨハンナ・コルネイユって言うんだ。よろしくね」
「ファルラ・ファランドールと申します。ファルラと呼んでいただければ」
「なら、私は、ヨハンナでいいよ」
「はい、ヨハンナさん。さっそくですが、おかわりをもらってもいいですか?」
それを聞いたおばちゃんは、心から大きく笑ってくれた。
■王都アヴローラ ベーカリー街「焼きたてパンの店 221 B.コルネイユ」 2階にあるファルラの部屋 ケルム大月(9月)18日 7:00
あれから毎朝は、パンがおいしく焼かれる香りで目を覚ましていた。
ユーリスは屋敷にいたときに着ていたメイド服へふたたび袖を通し、ヨハンナさんのパン作りの手伝いをしていた。だからこうして朝の挨拶に来るときは、だいたい顔に小麦粉の白い跡を付けていた。
ベッドから起き上がると、いつものように私は彼女を迎える。
「おはよ、ユーリス」
「おはよう、ファルラ! よく寝られた?」
「はい、今日も暖かですね……」
「キス」
「え?」
「キスして」
「え、あ、ちょっと……」
軽く唇を重ねる。少し物足りなくなったのか、ユーリスが舌先をちょこんと出して私の唇を舐める。そのやわらかい感触が、私の起き抜けの体に入ってくる。
唇をゆっくりと離すと、彼女はにししと朝の陽ざしの中で嬉しそうに笑っていた。
「もう。朝から……」
「あはは、ごめんて。本当のファルラはこんなにかわいいんだけどね」
「知りませんよ」
幸せ、なんだろう。
幸せというものが、私にはわからないけれど。
ベッドから抜け出ると、ユーリスが持ってきたカゴから温かいパンをひとつ取る。
「あ、それ、私が今朝に作ったパンだ」
「うん、いい出来です。ユーリスはなんでもできますね」
「パンは食べるのも大好きだけど、最近は作るのも楽しくて」
「それはよかった」
「なにしろ、おいしそうに食べてくれる人がいるからね」
「私のことですか? 実際、おいしんだから仕方がないでしょう」
ユーリスがまた嬉しそうに笑っている。
ソファーの前にある低いテーブルの上では、彼女が淹れてくれた香りのよいお茶が、私のそっけないカップで湯気を立てていた。
取っ手をつまむように片手で持つと、私は窓辺へ向かった。
「また、そんなことして。ファルラはお行儀が悪い子です」
「いいじゃないですか。もう気にすることはないんですから」
パンとカップを持ったまま窓を開く。今日は天気がいい。盛夏を過ぎた少し涼しい風が私を撫でていく。
器用に身を乗り出すと、ひざを曲げて窓枠の上に乗った。お茶を飲みながらパンをかじり、遠くに続く灰色の街並みを眺める。通りにはいろいろな人が何人も行き交っていた。職人、メイド、商人、冒険者、男も女も子供も老人も、温かいパンを買い求め、そして笑顔になって帰っていく。時折、蹄鉄の音を響かせて馬車が通り過ぎると、驚いた小鳥たちが青空へと飛び立っていった。
私はぽつりと言葉を漏らした。
「ここはいいとこですね」
「うん、いいとこだよ」
そう言うとユーリスが私をそっと抱きしめた。顔を寄せながら彼女は少し苦しそうに言う。
「大好きだよ、ファルラ……」
「不安なんですか?」
「どうして?」
「ユーリスがそうやって私を抱きしめるのは、自分が不安なときか、私がつらそうにしているときでしょう?」
「ちょっと怖くてさ。私はいつか消えちゃうから……」
今度は私がユーリスを安心させるようにゆっくりと抱きしめた。彼女の銀髪がふわりと光って揺れていく。
「なら、消さなきゃいいだけのことですよ」
それを聞くと彼女が獣のように頬を私の頭にすりつける。愛おしそうに、やさしく、何度も。
この1か月ほどは、こうして暮らしていた。
それは私がそうしたかった暮らしだった。
探偵業も少しだけしていた。
おばちゃんから依頼されたちょっとした事件を片付けたり、人づてに知り合った人の問題を解決してあげていた。
そうしていたら、ある日イリーナがやってきた。居場所を知らせない私に業を煮やし、ジョシュア殿下を問い詰めたらしい。
ヨハンナさんは知り合いだったらしく、さっそく店とあたり一帯を買い占めるだのなんだの言いだしたイリーナを止めるのは、なかなか骨が折れた。
そんなイリーナに、私達はひとつお願いをした。持っていた宝石をイリーナに売ったのだ。商人ギルドに父が手を回していた以上、家の宝石を売ることはだいぶ警戒がいることだったけれど、イリーナならなんとかしてくれる。これで当面は暮らしていける目途がついた。
ここのところ王家からの接触はない。約束を違えるとも思えないが、判断を決めかねているのもわかる。
私は生きるのか、それとも死ぬのか。
まあいいか。
探偵をしなくては。私はやっと探偵に戻れたのだ。
「看板でも作りましょうか。探偵屋さんの」
「どんなのにする?」
「そうですね……」
やっぱり図柄は鹿討ち帽子に桜の木のパイプかな。どちらもこの世界にはないものだけど。
そんなことをユーリスの温もりの中で考えていたら、階下の呼び鈴がリンとなった。
「いま参ります!」
私を放り出してユーリスが階段に飛んでいく。
あれ、今日は予定があったかな、と考えながら、水色の小さなソファーに脱ぎ捨てていたガウンを簡単に羽織る。
部屋の扉を開けて入ってきたのは、どこか地位の高い貴族のところにいそうな執事だった。金糸が入った黒いジャケットを着こみ、そこへ長い髪を垂らし、赤い目を光らせている男だった。いや、女かも。
「始めまして、ファランドール様。僕はフォンクラム伯爵の家令をしております、ギュネス・メイと申します」
「どうぞ、こちらのソファーへ。後ろの彼女はユーリスと言って、私の大切な助手ですから、何事も気にしないでお話しください。それで、本日はどのようなご用件で?」
「はい、ある事件が起きてしまい、ユスフ様にご相談したところ、こちらで解決していただけると伺いまして」
「かなり急なことでしたね」
「ええ……。もしかして、この件をご存じなのですか?」
「いえ、先ほど辻馬車がスピードを上げて通りを走ってましたから。きっとそちらにお乗りだったのでしょうと。家の馬車を支度させるのも惜しいぐらい急がれたようですね」
「すごい。当たってます。これが探偵というものなのですね」
「私なんかは、まだ手習いみたいなものです」
「それでは、僕の素性を当てることができますか?」
ふふ。うふふ。
私は低い声でうなるように言った。
「この魔族が」
それの薄い唇が歪んでいく。隠していた妖艶さがあふれてくる。
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