我、堂々と侯爵家を追い出され、露頭に迷わんとす
出奔する悪役令嬢編
第2話-① 悪役令嬢は実家を自らの意思で追い出される
■王都アヴローラ ファランドール家別邸 エルタ小月(8月)10日 23:30
にこやかな父が、その拳を私の頭へとそのまま打ち降ろした。ゴンという重い音が頭の中に響いたあと、目に星が走る。
痛みに耐えたまま立っている私に、父はわめく。
「あの女にそっくりだよ、我が愛娘。あの死んだお前の母親と本当によく似ている。不出来で誰にも相手されない体のくせに、頭だけはよく回る」
父が私の髪を引っ張る。私の縦ロールは、そういう目的のために付いてはいないのですけど。廊下を少し歩かされ、食堂として使っている部屋へ乱暴に引きずり込まれる。
ぱっと髪から手を離した父のせいで、体があらぬ方向へよろめいた。それを後ろにいたユーリスがとっさにつかんで支えてくれる。ユーリスの息が荒い。そっと気づかれないように、彼女の手を握る。これで安心してくれるといいのだけど。
そんな私達を無視して、父が静かに低く怒り続ける。
「まったく勝手な真似を。なぜ養子縁組などという魔族を手助けするようなことをした? あれだけの証人がいなければ、あんな町娘など、どうにでもできたろうに」
だからこそ私はあの場を選んだ。誰にも揉み消されないように。
そんな話をしてもしょうがないのだろう。何しろ父は私の言うことをひとつも聞いてくれたことが無い。
私は父を見据えながら、笑って答える。
「あれは罰ですよ。アーシェリを王家という牢獄に縛り付けるための」
「なら、お前にも罰を与えないといけないな」
平手で頬を叩かれた。ユーリスが支えていなければ、部屋の端まで吹き飛んでいたところだった。口の中に鉄錆の味が広がっていく。
「やっと『王に近し者』の称号を得て、貴族の最高位としてファランドール家を再興できると喜んでいたら、このザマだ」
「お父様が3人の妾にあたえるこづかいを減らしていただければ、この家も傾くことはなかったと思いますけど」
今度は逆の頬を叩かれる。転生前に知っていた神様のひとりに言いたい。どっちの頬を叩かれても、結局は痛いんだって。
「お前には人の気持ちがわからない。言いたいことだけを言う。悪気がないのがさらに悪い。お前のためにこうしてしつけているのに、これが届かないのはどうしてだろうな」
「さあ。私にもわかりません」
「お前は……。適齢期の貴族が、婚姻を結べないのがどんなつらいことかわかっているはずだ。ましてや、あの茶番劇。もはや北方の辺境地にすら、お前を相手にする者はいないだろう」
「また大叔母様に叱られますね。我が家の恥だと」
頬を叩かれる。何度も何度も、力任せに。ツンとした痛みに耐えていると、ユーリスが私の腕を強く握る。もう我慢ならないのだろう。すぐにでも父を消し炭に変えたいはずだ。
……まあ、ここまでかな。これは予想の範囲内だし。
これだけ父を怒らせたら、きつい言葉ばかり吐く大叔母や、足の引っ張り合いが大好きな他の貴族たちに何を言われても、私を家に戻すという考えは起こさないだろう。
私は話を切り上げることにした。
「明日の朝には出ていきます。それでよろしくって、お父様」
「ああ、かまわんとも。ああ、そうだな。街の外でゴブリンどもに嬲り殺されるといい。お前が凌辱される悲鳴で、この家の汚辱を注ぐのを目の前で見たかったが、まあ仕方がない」
「それはそれは。残念でしたね、お父様」
「本当に残念だよ」
父は微笑んだままでいた。しばらく私を見つめていたけれど、やがて興味を無くしたようだ。くるりと背を向けて部屋を出ていった。
今日はなかなか痛かった……。95点ぐらいかな。まあ、いいか。
あれ、ユーリス?
ユーリスが私の腕を痛いほどの力でつかんでいた。どうにか努力しながらその手を離すと、怒りに震えるまま私を抱きしめた。ふーっ、ふーっていう荒い息が私の耳元で聞こえている。
「あれは何度もファルラを殴ってたんです。今日だけじゃなくて、ずっと前から……」
「やめなさい、ユーリス。いいのよ、もう。この家を正当な理由で出ることが優先です。そう言いましたよね?」
「でも……」
私はわざと力を抜いてユーリスに寄りかかる。
「寝室まで連れてってくれますか? 今日はもう疲れました」
しぶしぶユーリスが従うと、私に肩を貸して歩き出す。ふたりでゆっくりと暗い廊下を進み、2階へと続く階段を上がる。
自分の寝室に入ると、少しほっとした。メイドの誰かがつけてくれていたロウソクが1本、ベッドのそばに灯っていた。
ユーリスが慎重に私の体をベッドへと降ろした。手早く靴やドレスを脱がしてくれる。
下着姿になった私は、ユーリスの首にゆっくりと手を回した。
「ごめんなさい。寝られそうにないです。ちょっと抱きしめてくれると嬉しいんですが」
嘘だった。今にも寝落ちしそう。でも、ユーリスの怒りを鎮めるには、これぐらいしかなかった。
ユーリスが体を少しずつ私に預けてくれる。心地良い重さを私は感じていく。
「もう少しだから……。だから、怒っちゃダメです、ユーリス」
返事をする代わりに彼女が私を抱きしめてくれた。とても愛おしそうに慈しむように。
最初にユーリスに出会ったとき、私は血まみれの彼女を抱きしめてしまった。
なんだかとても儚くて美しく思えたから。
でもそれは、狂うこともできず、生きてく限り何をしても癒されない苦しみがそこにあったから。
私達はあれ以来、抱きしめ合って、生きてきた。
ずっと何度も。
苦しくてつらいときはいつだってそうしてきた。
やがてそれは、愛情があふれるものに変わった。
ふたりで変わってしまった。もう戻れない。戻る気もしませんが。
そんなことを考えていたら、やがて自分の中にも夜の帳が下りて行った。
■王都アヴローラ ファランドール家別邸 ファルラの寝室 エルタ小月(8月)11日 7:00
誰かが泣いていた。声を立てないようにじわじわと泣いていた。
なんだろうと思って、ゆっくりと目を開ける。
窓から朝の陽射しがあふれる中、私の手を抱えるように握りしめて、ユーリスがそこにいた。
「おはよ、ユーリス。どうしたの?」
「あんまりだよ……」
「何かあったの?」
「服や首飾り、お金も何もかも、全部屋敷の者に取られて……。フェリドス様のご命令だって……」
「そんなこと」
「そんなことって」
私は頭の下の枕に手を伸ばす。小さな革袋を取り出して、彼女へそれを差し出した。
「これは……」
ユーリスが革袋から取り出したのは、紺碧の宝石だった。希少な宝石のひとつであるフェダナイト。この粒ひとつで1年は暮らせるだろう。ほかにも自分が自由にできたお金をいくつか宝石に変えて、そこに入れておいた。
「お父様は地味に効く嫌がらせをするから、こうするだろうと思ってました。あなたにも預けていたぶんがあるでしょう?」
「あるけど……」
「なら、大丈夫です。さあ、街に行く支度をしましょう」
ユーリスの手を取り、ベッドから起き上がる。続きの小部屋に行って、いつものは下着とかを入れている家具の引き出しを開けてみた。何もない。いくつか調べたけれど、糸くずひとつすら残されていなかった。
「あら、ご丁寧に下着の一枚までも。誰が使うのやら」
私は後ろにいたユーリスへ振り向くと声をかける。
「ユーリス、何か貸してくれますか?」
「うん……」
ユーリスはかわいい。こんな私のために怒ったり悲しんだりしてくれるなんて。
肩を震わせながら、それでも泣くのを我慢している彼女を見ながら、そんなふうに思っていた。
私は父に殴られ過ぎて、もう泣くことも怒ることもなくなっていた。ユーリスが私の代わりにそうしてくれたらそれでいい。だってユーリスは私よりやさしくて強いのだから。
■王都アヴローラ ファランドール家別邸 玄関 エルタ小月(8月)11日 8:00
執事のジョルジュが荷物を玄関へ運んでくれた。荷物と言っても、茶色い皮でできた小さ目のトランクかばんがひとつだけだったけど。
「申し訳ございません。お嬢様」
小声でそう言ってくれるだけでも十分だった。
「いいんです、ジョルジュ。長い間、ありがとうございました」
「私は非力です……。何もできませんでした……」
「この屋敷がどうなるのかわからないけれど、それでもあなたたちの安寧を願っています」
「ありがとうございます」
うなだれたままでいるジョルジュから、ユーリスがトランクかばんを受け取る。
私はジョルジュに別れの挨拶をする。
「さようなら、ジョルジュ。腰をいたわって。元気でいてください」
「はい……。どうかお元気で」
私はそれに返事することなく、玄関から外へと踏み出した。
そこへメイドのアンナが駆け寄ってくる。
「私にはこれぐらいしか……」
何か包みを渡そうとする。私は手でそれを抑えた。
「だめですよ、アンナ。そんなことしたらお父様にあなたが叱られてしまいます」
「ですが……」
「気持ちだけ受け取ります。アンナもずっと元気でいてください」
「……ありがとうございます。どうかお嬢様も」
私は手を振ると、前へ向かった。
「ファルラ、あれでいいの?」
「ええ。善人が必ず私にとって良い人とは限らないですから」
非力? いつでも私を助けられたでしょうに。助けてくれたのはユーリスだけだった。
これぐらい? 父に逆らえない人が何を渡すの? アンナにはわからないような呪物を渡すことだってあり得るのを考えないの?
……はあ、まったく。
もうどうでも良いけど。
屋敷の門は開け放たれていた。ふたりでそれをくぐる。
一瞬だけ後ろを振り返ると、ユーリスが私の袖を引く。
「何かお別れを言ったほうがよくない? 一応、さ」
「そうですね。じゃ……」
石造りの荘園風に作られた屋敷には蔦が絡まり、その間から1000年もの長きに渡り王家に付き従ったファランドール家の紋章、双頭のワイバーンが見えた。
「さようなら、クソ野郎ども。二度と会うことはないでしょう」
それだけ言うと、私達は前へと歩き出した。その先の向こうへと。
■王都アヴローラ 商人ギルド 受付 エルタ小月(8月)11日 12:00
ギルドの古ぼけた受付カウンターの前で、私は頭を抱えていた。
きつい目をした受付嬢のキンキンとした声が、古くて飾り気のない部屋に響いていく。
「ですから、ご紹介するわけにはいきません」
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