The Last Lecture

増田朋美

The Last Lecture

その日もなんだか台風が来るとかそういうことで、暑い日だった。なんだか、いつまでたっても暑いということもあり、医療関係者にお世話になる人が、だんだん増えているような気がする。それはいけないことではないけれど、何だか人間のからだというのは、その人達が思っているより脆いものなのかもしれない。

さて、その日も、杉ちゃんとジョチさんは、杉ちゃんが折れた縫い針を針供養に出したいというので、近くの神社にでかけた。こんな暑い日であっても、杉ちゃんという人は、そういう神仏が関わる行事には必ず参加している。参加者は非常に少なかったけれど、ちゃんと折れた縫い針を供養してもらって、気持ちがスッキリしたという杉ちゃんは、確かに変わって居るとジョチさんは言った。

二人が、神社の敷地内を歩いて居ると、

「おい、あの女性は何をしているんだ?」

と、杉ちゃんが、神社の池にかかっている、橋の上に立っている女性を顎で示した。なんだか、30歳くらいの若い女性で、なにかすごい悩んでいるようだった。

「なんか竹久夢二が、好きになりそうなタイプの女性だな。」

と、杉ちゃんがつぶやくほど、結構な美人といえる女性である。

「あんな池を見つめて、池の鯉がよっぽど可愛いんだろうか?」

「いいえ、違いますね。」

杉ちゃんがそう言うと、ジョチさんが、きっぱりと言った。杉ちゃんも、彼女が何をしているのかすぐに分かってしまったようで、

「おいお前さん!ちょっと待ち給え!」

とでかい声で言った。

「お前さんだよ。橋の上に立っている、お葉さんみたいな女性だよ!」

杉ちゃんに言われて彼女は、ぎょっとした顔で、二人を見た。

「なあ、もしかして、池に飛び込もうと思ってたのか?それは行けないぞ。自殺は、キリスト教ではしてはいけないといわれているし、どこの宗教でも自殺者は幸せになれないと言っているじゃないかよ。」

凍りついた様なかおをしている彼女に、ジョチさんは足を引きずって、橋の上に近づいていった。彼女は、わっと声を上げて泣き出してしまった。

「あなたのお名前はなんですか?」

ジョチさんが聞くと、

「私は、江夏葉子と申します。」

と、彼女は小さな声で言った。

「江夏さんね。商売は?」

杉ちゃんが聞くと、

「はい。高校の英語教師をしています。」

と、彼女は言った。

「はあ、こりゃ美人教師だな。それで生徒から人気もあるんじゃないの?なんで池に飛び込もうと思ったのかな?」

杉ちゃんが車椅子を動かして、そういった。

「車椅子の方にそんな事言われるようでは、死にたい気持ちも何も言えませんね。」

そういう女性に、

「はあ。失恋でもしたのか?」

と、杉ちゃんが言った。

「い、いえ、間違ってもそういう事はありません。ただ。」

「ただ?」

そういう女性に、杉ちゃんはすぐに言った。

「じゃあ、職場でパワーハラスメントでも受けたのか?」

と、杉ちゃんがそう言うと、

「そういうことでも無いんですけどね。学校の生徒達も、一生懸命授業を聞いてくれる子も居るし、それは、いいんですけど。」

と、江夏葉子さんは言った。

「そうですか、ではなんで池に飛び込もうとしたんですか?そういう事をするようでは、なにか重大な事があった様に見受けられますけどね。」

とジョチさんがそう言うと、

「特に理由は無いんですけど、なにか落ち込んでしまいまして。それを逃れるにはもう死ぬしか無いと思ったんです。」

と、彼女は言った。

「はあ、そうなのね。そうなった理由みたいなものはあるのかな?あればお話してほしいな。そういうの、聞いてくれる知り合いだっているからさ、そいつに相談したっていいじゃないか。もし、話してくれたら、そいつに引き渡すことも出来るぜ。」

と、杉ちゃんがそう言うと、

「いえ、そういうところには、何回も通いました。でも、そういう人って、聞いてくれるようなふりして、実際は自分の利益だったり、宗教のお誘いだったりそういうふうになってしまうので、もうそのようなところにはいきなくないなと思うんです。」

と、江夏葉子さんは言った。

「そうですね。それはおそらく、たまたま悪質なところに引っかかってしまっただけだと思うんですよね。僕も経験からわかりますが、結局の所、人間がなんとかするしか方法は無いんですよ。どんな有効な薬だって、コンピューターだって、人間が操作しなければ何もしてくれないでしょ。だから、誰かに相談するとか、セラピーのようなものを受けたりとか、そうしないと、ずっと辛い気持ちから開放されないと思うんですよね。」

ジョチさんは、静かに言った。

「お二人は、一体どういう方なんですか?もしかしたら、暴力団とか、新宗教とか、そういう関係者ですか?」

ちょっときつい声で葉子さんは言った。

「いや、僕達はそういうものではございません。強いて言えば、支援施設の管理を任されているだけです。僕はただ、行き場を失ったり、穏やかに話せる自信をなくしてしまった人が通うような場所を提供する仕事をしています。嘘だとお思いになるなら、これから、そこへ行ってもいいですよ。本当であることはちゃんとわかりますからね。まあ、こう言うと、あなたのような人は、もっと疑いを持ってしまうんでしょうけど、まあ、それもしょうがないですね。」

と、ジョチさんは正直に答えた。

「名前は、曾我と申します。利用者の皆さんからは、ほとんど理事長さんと呼ばれています。」

「そして僕は、その大親友で、影山杉三。杉ちゃんって呼んでね。商売は、ただの和裁屋。」

ジョチさんの自己紹介に、杉ちゃんが続けていった。

「和裁って、着物を作ることですよね。もう着物なんて誰も欲しがる人は居ないから、それもただのでっち上げなんじゃないですか?」

と、江夏葉子さんは言った。

「そんなことはないよ。着物を縫ってほしいという人は、いっぱいいるよ。最近では、浴衣を作ってくれとお願いされたり、着物を簡単に着られるように、直したこともあるよ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「そんな事信じません。私は、日本の伝統ほど役に立たないものは無いと思っていますから。それのせいで、何人も生徒がだめになっている事を、ご存知ないでしょうね?」

「はあ、それ、誰だよ?」

江夏葉子さんの話に、杉ちゃんはすぐに言った。

「そういうやつを知ってるんだったら、名前を出してみろ。どこの誰がだめになった?言ってみな?」

「とにかくですね。そういうことだったら、製鉄所に来てみてください。話すことは、きっとたくさんあるのではないでしょうか。あ、ちなみに製鉄所というのはあくまでも施設の名前で、鉄を作る工場というわけではございません。製鉄所というより、心の居場所とお思いになってくれたほうが。」

ジョチさんがリーダーらしく二人の話をまとめるように言った。そして、巾着の中からスマートフォンを出して、小園さんに製鉄所まで乗せていってくれと頼んだ。数分後に、黒いセダンが、神社の敷地内にやってきた。三人はそれに乗り込んで、製鉄所に向かった。

確かに、製鉄所の建物は、鉄を作る工場という感じではなかった。それよりも、日本旅館のような、和風の建物である。しかし、玄関をはいってみて、最初に驚かされたのは、上がり框が無いと言うことだった。これでは、誰でも平気で勝手にはいってこられる様になっているのだった。

「へえ、防犯意識が低い建物ね。」

と、葉子さんは言った。

「まあいい、とにかく入れ。」

杉ちゃんは、そういってジョチさんに車椅子の車輪を拭いてもらって、中にはいった。葉子さんも、上がり框のない無防備な玄関で靴を脱ぎ、中にはいった。

「あれ、音がしないな。」

廊下を移動しながら杉ちゃんが言った。それと同時に、咳き込んでいる声も聞こえてきた。わざとらしく咳き込んでいるのではなく、本当に苦しそうだったけど、なんか、今の時代であったら、ありえないと思われる咳き込み方だった。

「はああ、また水穂さんがやってるな。本当は、水穂さんに、ここの説明してくれるとありがたかっただけど、これじゃあ無理かな。」

と、杉ちゃんが言った。ジョチさんは、

「また吐いたものが詰まったりしないといいんですけどね。」

とだけ呟いておいた。

その四畳半では、いつも通りピアノのレッスンが行われていたらしいが、水穂さんはピアノの椅子から落ちて、えらく咳き込んでしまったのであった。一緒に居たもーちゃんこと、持田敦子さんが、大丈夫ですか、と声をかけているが、水穂さんは返事ができなかった。

「やれれ。またやってるのかいな。今日はね、ちょっとかわいそうな女性を拾ってきたので、ここで世話してやろうと思っただよ。」

と、杉ちゃんがからかうような感じで四畳半にはいった。一方のジョチさんは、水穂さんはいつ頃からこうなったのかと聞くと、

「急に咳き込んで倒れちゃったんです。時間は、10分くらい前でした。」

と、もーちゃんが言った。ジョチさんは時計を眺めて、発作は数分で収まるんですけどねと言ったが、水穂さんが更に咳き込んでとうとう赤い内容物が噴出するようになった。

「ほらよ。」

と、杉ちゃんが水のみをわたしたので、水穂さんはそれを受け取って中身を飲んでくれた。それが出来るだけでもまだいいなと杉ちゃんが言った。薬は、良く効いてくれて、数分後に咳き込むのは止まってくれた。

「ごめんなさい。ちゃんとすべきでしたね。」

水穂さんは申し訳無さそうにそれだけ言った。杉ちゃんが、

「いいから早く寝ろ。」

とぶっきらぼうに言う前に、もう力がなくなってしまったらしく、布団に倒れ込んでしまった。

「すみません。せっかくレッスンに来ていただいたのに、こんな事になってしまって。」

ジョチさんが、もーちゃんにそう言うと、

「こちらこそすみません。あたしの不注意で。」

と、もーちゃんが言った。はあ何だと杉ちゃんが言うと、ピアノの上に食べかけのまんじゅうがおいてあったので、

「なるほどね、まんじゅうが原因だったのか。」

杉ちゃんとジョチさんは顔を見合わせた。

「一体、これはどういうことなんでしょうか。こんなことしているよりも、救急車を呼ぶとか、そういう事をするべきだったんじゃないでしょうか?それに、江戸時代とか、明治時代ではあるまいし、ここまでひどい事例は見たことがありません。なんで放置して平気なんでしょう?」

江夏葉子さんがそう言うと、

「いやあ、救急車呼んだってね、どうせ、病院たらい回しにされるのがおち。そんな悲しい思い、水穂さんにさせたくないね。それに、病院に入院させてもらったとしても、今年はなんて間が悪いんでしょうとか言われて、ほっぽらかしにされて、治療なんかしてもらえないよ。同和問題ってのは、そういうもんだろうが。お前さんもそれくらいわかるんじゃないのか?」

と、杉ちゃんが言った。そうなると、葉子さんは、余計に明治時代にタイムスリップしたのではないかと思ったが、

「いえ、現在でも、人種差別は、日本でもあります。もう解決済みなんて事は絶対にありません。」

とジョチさんがきっぱり言ったため、彼女はびっくりしてしまった。

「そんな事。」

と、葉子さんはいうが、

「いやあねえ。今でも、銘仙の着物着てると、貧しい人が着るのを平気で着るなって、注意する人が、居るんだけどねえ。」

と、杉ちゃんが言った。確かに水穂さんが身につけているのは、銘仙の着物であった。紺色に葵の葉を大きく入れた銘仙の着物。一部の若い人は、可愛いから平気で着てしまうそうだが、まだお年寄りの中には、そういう身分の人が着るものだという人が居る。

「まあそういうことだ。だから、救急車を呼んでも意味無いの。それはしょうがないと言って諦めるしか無い。世の中にはな、そうやって諦めるしか無い事のほうが、成功することより多いんじゃないのかな?それなのによ、皆成功することが何より素晴らしいって教育しちまうから、結局、自殺者というか、そういうやつが減らない。成功してさ、夢を掴むやつなんて、ホント、一人か二人くらいだろうがよ。それよりも、諦めて、平穏な生活が出来るって事がいかに幸せか。学校ってそれを教えないから困るんだよね。ここに来てるやつは、それをここで学んでいる連中でもあるわけよ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「どうせ、ここに来たんだし、利用者さんたちの様子を見てから帰ったらどうだ?きっとお前さんの価値観も変わってくると思うよ。そうだよねえ、お葉ちゃん。」

葉子さんは、何がなんだかわからないという顔をして、杉ちゃんたちを見たが、

「ぜひ、中を見ていってください。」

と、もーちゃんがそういったため、そうすることにした。杉ちゃんの案内で、葉子さんは、食堂へ行った。ここは単に食事をする場所というだけではない。その日も三人の女性利用者がそこで勉強をしていた。利用者の中には、定時制とか通信制の学校に通っている人も多い。三人は、学校の宿題をしていた。それぞれ学年は違っているようだが、三人の女性たちは、連立方程式の解き方を一生懸命教えあっている。それは、ある意味、葉子さんが、学生時代に教わってきた、学校の理想の姿と言えるかもしれなかった。そして、現実の学校では、試験の点数に影響するので、他人には教えては行けないということでもあった。女性たちは、杉ちゃんがはいってきたのを見て、

「ああ、おかえり杉ちゃん。新しい見学者さんが来たの?」

と、杉ちゃんに聞いた。

「いや、お前さんたちが勉強しているのを見たいんだって。だからお前さんたちは、普通に勉強をやってればいいんだぜ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「ありがとう。宿題がどうしてもできないところがあるから、教えてもらってるの。教えてもらわなきゃ、宿題ができないし、勉強も覚えられない。」

と別の利用者が言った。葉子さんは、勉強というのは、自分で調べてやるというのが当たり前だと思わず言おうと思ったが、三人の女性たちはああでもないこうでもないと問題の解き方を考えながら、とても楽しそうに勉強をしている。それは、葉子さんが勤務している全日制の高校では見られない光景であった。生徒たちは、勉強しているととても苦しそうで、つらそうな顔をしている生徒ばかりだ。時々、笑い声を立てながら、勉強している彼女たちを見て、葉子さんは、驚きと、動揺を隠せなかった。

「ごめんなさいね。私達、頭が悪いから、こうして誰かに教えてもらわないとわからないのよ。普通の全日制の高校だったら、きっとこんな事しなくてもいいんでしょうね。まあきっと、あたしたちは、身分が低いまま生きていかなきゃいけないんだろうし、それは仕方ないことだわ。でも、不思議よね。身分の高い人たちばかりの環境に居ると、すごく苦しいのに、こうして仲間が居れば、楽しく感じられる。」

と、三番目の利用者が言った。そうか、そういう事をしているのは、身分が低いように見えてしまうのかと葉子さんは思った。なんで、身分が低いと思わなければならないのか。普通の学校ではできないことというか、やってはいけないこと。それなのに、彼女たちはとても楽しそうだ。学校が楽しくて楽しくて仕方ない顔をしている。それは、ある意味、自分たち全日制の高校でも実現させそうで実はできないことでもあるのだった。

「まあねえ。どうせ私達は、普通の学校に言ったら頭が悪い子とか、勉強ができない子とか、そう言われて、追い出されちゃうというか、爪弾きにされちゃったから、こうして普通の人とは違う勉強法をやってるのよね。私だって、それでもいいやって思えなかった時期があったわよ。でも、人間はやっぱり助け合う動物なんだって私は、なんとなくわかるのよね。」

と、初めの利用者が言った。彼女たちは、そういういつでも助け合えるような、緊密なシステムを持っているのかもしれなかった。それがもしかして、友情というものなのかもしれない。そしてそれこそ、人間が持っている美しい感情なのかもしれなかった。それがあるからこそ人は生きていける。葉子さんは、全日制の学校でそれを何回も伝えたかもしれなかった。でも、それは、試験の点数が何よりも一番だと標榜している全日制の学校では実現出来ることではなかった。

彼女たちは、それ教えてくれたら、この問題と交換ね、とか言って、楽しそうに勉強を教えあっている。全日制の学校へ行ったら、受験の敵として、他の生徒を敵視している生徒たちに潰されてしまうことだろう。でも、葉子さんは彼女たちがとても楽しそうにやっているのを見て、彼女たちにそれは間違いだとか、そういう事は言えなかった。彼女たちはそれを言っては行けないのではないかと思わせるほど、楽しそうだったのだ。

「私の、負けだわ。」

と、葉子さんは言った。

「負けじゃないよ。だってお前さんは一回池に飛び込もうとしたじゃないか。それはきっと、今の学校が合ってないって、誰かが教えてくれようとしてるんじゃないのかな。誰かって誰のことか知らないけどさ。人間ってなんかおっきな力があってさ。それに、したがって生きていかなきゃいけないときって、あるよな。」

杉ちゃんが、そういったため、葉子さんは決断した。そうか、私は、それでここまで落ち込んだんだ。それに、こういう風景を見せてくれたんだから、もうそうするしか無いのだろう。私は、今の学校には向いていない。それに、今の学校が、かえって生徒に悪影響を与えていることに気がついたような気がした。

「どうもありがとう。」

葉子さんはそういった。杉ちゃんがからかい半分で、なんか顔つき、変わったねえと彼女に言うと、葉子さんは顔を赤くした。

「でも、その前に最後の授業をしたいわ。一度だけでいいから、生徒に助け合うことの大切さを教えたい。」

「はあ、なるほどねえ。」

と、杉ちゃんが言った。

「でも、そういう学校の生徒に、通じるはずないと思うけどね。彼女たちだって、挫折しなければこういう事は学べなかったと思うし。」

「そうね。」

と葉子さんは言った。

「でも、きっと生徒たちだもの。感じることは出来るんじゃないかなと思うわ。」



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The Last Lecture 増田朋美 @masubuchi4996

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