第3話 聖礼院
聖礼院宅の庭は塀の外とはまた違った自然に満たされていた。
人の手の入った自然である。
計算されて配置された庭石、そこかしこに植えられた四季折々の花々、大きく育った針葉樹、色づきを見せる広葉樹。
住む人の優れた美的センスを感じさせる庭である。
「兄の葬儀以来ですね、中まで入るのは…
懐かしいなあ、あの紅葉に登ってよく怒られたなあ。」
「登ってごらんなさい。また叱ってあげる。ほほっ。」
「義姉さん…大分明るくなったね。あの頃とは別人のようだ。」
「それはそうよ、あの人が亡くなってからもう五年も立つもの。いつまでも泣いていられないわよ。」
話し相手が親族という事もあってか、瑞貴の言葉使いが砕けてきている。剣介はその事に気づいて、自分が他人とは別の付き合いをしてもらえる人間なのだと感じ、嬉しくなった。
母屋へ向かう小道に人の良さそうな老人が立っている。
昔から居る庭の世話をする職人である。
「お帰りなさいませ、御当主様。」
瑞貴を見つめる瞳は敬愛の眼差しである。
それに瑞貴は会心の笑みをもって答える。
側にいる剣介には「演技」の笑みに感じられた。
さきほどの自分との会話とはまるで別人のような印象を受けるからである。
すれ違う使用人は皆敬愛の表情を浮かべて頭を垂れ、瑞貴はそれに笑みで答える。
何度そんな事が繰り返されただろうか。
ようやく居間に入る事が出来た。
すかさず、お茶が運ばれてくる。
「この家には、相変らず大勢居ますね。」
瑞貴は一口お茶を啜り、ゆるゆると息を吐き出して答えた。
「そうね、子供も入れれば十四人ね。」
「皆ずっとここに住んでいるんでしょ。」
「ええ、そうよ。ここは昔からそういう家。
中には、この家で生まれて、結婚して子をなし、この家で死んでゆく者もいる。
この家が一つの大きな家族。私一人を除いては…」
「義姉さん…
もしや義姉さんは聖礼院家が嫌なのですか?」
「…嫌といえば嫌ね。この家の物は皆私を尊敬の目で見てくれる。敬愛してくれるし、とても大事にしてくれる。
でも、愛されてはいない。友人にもなれない。
それは私が聖礼院の家の物だから…
唯ひとり、あなたのお兄さんを除いて…
私とあなたのお兄さん、明王刀介とは確かに家同士の都合の政略結婚だったかもしれない。けれど、あの方は私をしっかりと愛してくれた。そして私も命を懸けて愛しました。
彼と過ごした五年間、とても充実した日々だった…」
「すみません、立ち入った話を聞いてしまいました。」
「いいのよ、もうすんだ事。」
そう言いながら瑞貴は庭の木立に目を向けた。
「あの人が愛した木々よ…」
剣介は何も喋れなかった。
時間が流れた。
剣介はすっかり冷めたお茶に口をつけた。
「うん、美味いお茶だ。」
「ふふっ、もうすっかり冷めちゃってるでしょ。入れ替えるわ。」
軽やかな仕草で立ち上がる瑞貴を見送り、剣介は庭をあらためて眺めた。
暖かな日差しとゆっくりと動く風が剣介の心を穏やかにしていた。
お茶を運んで戻ってきた瑞貴の気配を感じながら剣介は独り言のような話し掛けるような言葉を発した。
「なぜでしょう?この庭を見ているととても心が落着いてきます。
子供の時、母や父の膝の上に座っていたような安心感や安らぎがあります。」
答えを期待している訳ではなかった。
ありのままの心情を吐露しただけだった。
「それはね、この庭には心があるから…
私のおじい様お父様が造った庭をあなたのお兄さん、刀介さんが愛を込めて育て、亡くなった後もその遺志を継ぎ守り育てる人が居るから…
その受け継がれていく思いがこの庭に愛情を満たしていくの。
それは先程のお社と同じ事。
祖先が建てた社をその子が守り、孫が守り、あのおじいさんたちが守り、そして今あなたたちが守り始めた。
誰に言われた訳ではない、ただ自分の大事な人が守ってきたものだから、守りたいと思う心が自然と生まれてくる。
その思いが少しずつ積もって、お社に満ちた清浄な空気を創りあげてゆくのです。
私はそう考えています。」
きちんと正座し剣介を見据え、瑞貴ははっきりとした口調で答えた。
「義姉さん…僕は今義姉さんの心の奥底を見た気がします。」
剣介は振り返り瑞貴の瞳を見つめた。
「あなたは…本当によくお兄様に似てきましたね。刀介さんもそうやって真剣に私の瞳を見つめて話をしました。
今日はもうお帰りなさい。
今度あなたがここを訪れた時には渡す物があります。もう、そういう時期になったのかもしれません。」
「渡すもの、ですか?」
「ええ、刀介さんからあなたへと預かっている物があるの。
時が来たら、あなたが大人へと一歩成長した時に渡すようにと遺言されているもの…」
「兄さんから…それは一体?」
「さあ、お帰りなさい。そろそろ道場へ向かわなくてはならない時間でしょう?」
聖礼院家を辞し帰途についた剣介を姿が見えなくなるまで見送る瑞貴の気配を何時までも背中に感じていた。
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