33ページ 《無力》

 気づけば私は戦場で立っていて私の身体中は吸血鬼の油や返り血を今までにないほど浴びていた。

 いつの間にか、私によく似た声は遠のいていて。私は愛用するこの直剣になんと名付けただろうか、とそんな取り立てることのないようなことを、ボーっと考えていた。

 その時、ヒルは大勢でまとまって私に飛びかかる。宙でキバをむき出しにするヒルを私は横に迎えていた。…鳥肌が立つ。

私は動いたのだろう。それは直後になって分かったことだ、私は私を高見へ追いやったのだ。「パチンッッッ」

 私の身体はしなり、音速を超える様な音を上げた。そして、バタンと言う音が複数個重なって背後に聞こえ、跳ねた首がゴトンと落ちで私のカカトに当たる。

 私は温暖な冬の夜空で、ギラギラと光る剣を右手に携えて白い息を吐いていた。

 すると、ガランと音を立てながら私の上半身を覆う鎧は崩れ落ち、鎖帷子くさりかたびらもまた同じようにシャリンと鈴の音のような音を立てて数珠のようにバラバラに散っていく。要は、装備が速度に耐えられなかったのだ。

「今の私にはもう、鎧は足枷あしかせだ」

 そんな気がしていた。



 私の眼下に一瞬でにじり寄るその蒸気の正体は、熱気で私の皮膚を焦がしながら私の首を掴む。

「ク……ッ」

 掴まれて持ち上げられる。それ以上に、血反吐が出るような熱さに私は意識を失いそうになる。

 けれど、私は窮地を脱する方法を知っていた。

 それはスゴくシンプルで、それは全てを解決させてくれる。…それは深呼吸だ。

「ス〜〜〜ふ〜〜〜〜〜」

 喉から下顎にかけて掴まれているので口が開かない、代わりに鼻で呼吸する。

 それから、私は蒸気の正体を吸血鬼をその目をまじまじ睨むと、睨み合いながら整然とした表情の吸血鬼にガンを飛ばす。弾けろ。

 そう思うと、身体が動く。

 私の首を掴むその右腕の肘内側から前腕に私の左腕の手根で手打ちをし、そのままを腕をガッシリ掴む。それによって獲た体幹により、より機敏に動くことができた。吸血鬼の股間を右つま先で蹴り上げ、同時に右の手根で吸血鬼の左側頭部を強打する。それでも尚、蒸気の吸血鬼は悲鳴を上げない。

 続けざま、右腕を引くついでに吸血鬼の右腕にからめ左足で右脇腹を蹴ると左足を引く反動を利用し右足で左側頭部を蹴り抜く。

「執拗な小細工を…っ」

 蒸気の吸血鬼は呟いた。瞬間「う゛っ」――鈍く水気のある音がする、内蔵が潰れる音がする―。私は吸血鬼のその腕と地との間に押し潰されていた。

 けれど、私の首を地に落とす為に私の姿勢を崩そうと横に私を降り始めた時、私は崩れていく自分の姿勢を見て予感していた。その腕にしがみつく形で、全身に衝撃を吸収する為に背中から落ちるよう受け身を取っていたのだ。

「…ほう」

 蒸気の吸血鬼は僅かに眉間のシワを広げて笑う。

 そんなものもつゆ知らず、私は腕にしがみついたまま、ジェシカやグレイの見よう見まねで腕や肩を締め上げる。キリキリと、ジワジワと確実に。…愚策だとは分かっていた。

 途端に、全身で実感する。

「グアアアアアアァ”ァ”ァ”ァ”ァ”!!!!」

 忘れていた熱さを思い出す。辺りに肉が焼ける匂いが立ち込める。それでも私は、背後のを守る為には少しでも長くそして確実に足止めしなければならない。

 私は自分の狂声を押し込める。焼けた唇と一緒に、私は歯を食いしばる。

 私は首を掴んでいるコノ腕から脱する必要があった。だからまず私は吸血鬼の腕の拘束を解く、瞬時に吸血鬼の首を右足で蹴る。左足のスネとつま先を鉤爪のように使って吸血鬼の腕にひっかけ、背中で地面を掴んで踏ん張り足のスネで押し上げ鉤爪で押し退けにかかる。そうしながらも左手で、手首と手根の間のツボを握り捻り、それでやっと吸血鬼の腕から解放される。

 ジェシカから、興味本位で教わったアレコレだ。さながらジェシカの使うパンクラチオンや類似する何かの私らしくない戦い方をしていたように見えただろう。

 私は吸血鬼から解放されて早々に八極拳の奔流を発揮しにかかった。

 解かれてすぐ地に足をつける。これでまた地面の有り難さを知る。

 未だ中腰の姿勢のままに、私は吸血鬼の右腕を肘から肩までの位置を右腕ですくい上げるように腕を絡める。吸血鬼も丁度低い姿勢を取っていたのでそのままの体勢で、吸血鬼の右腕を私の右脇腹の下に抑え入れることに成功した。

 私は低い姿勢を取ったままの吸血鬼の背後に回ることができた。それは吸血鬼の右腕を肩関節ごと背後にひねったカタチで吸血鬼に膝まづかせ、物理においての無力化を完了したことを意味していた。

 そこでやっと、一瞬限りの余裕が生まれた。周りを見ると、兵士たちはこの吸血鬼と対峙に当たる私をサポートするように、私を囲みながらヒルやボーンと戦ってくれていた。私の周囲だって安全でもないだろうに…ありがたい。

 私は灼熱を纏う吸血鬼に対し、決定的な一撃を加えようと手を伸ばす。

 そんな私に、蒸気の吸血鬼は言う。

「邪魔だ」

 すごく冷淡な声だった。まるで厄介な性質とはあべこべだ。 それでも吸血鬼は容赦しないだろう、今に至るまでに全くと言っていいほど、蒸気の吸血鬼はその力を発揮していないのだから。私はそれ知っていた。

「がァァッッ!」

 その熱気は不意に発生した。けれど、私は息を飲んで堪えた。堪えるしか今は手立てがないからだ。

 ヤカンから沸騰した水の煙りが溢れ出るように、光沢のある水質を含んだ風切り音もまた私の耳を襲う。

 そしてその蒸気は、絡みつく私を吹き飛ばさんとする威力で吸血鬼の身体から発せられた。少し踏ん張るも私の足は既に宙を彷徨っている。

 私は右腕を絡めたまま、右手に吸血鬼の右肩を掴ませることで離れずにいられている。

 蒸気の吸血鬼は右腕を奇妙な方向へねじ曲げられながら、肩を持つ私の手と分離させてしまう勢いで広げる腕の力を強めている。その腕からも蒸気は出ている。

 熱い、熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い! それでも私は、を守らなければいないのだ。

 右腕の感覚は既にない、だが肩を掴めているということは力を入れられているということだ。ならば状況に甘んじよう、他に手立てがないのだから。

 左手を伸ばし、溶けるような感覚の中、ここで私は秘密兵器を持ち出す…詠唱を開始する。


禍福かふくあざないくさの女神よ…」

 一気に言うにも限界があった。舌が焼き切れ喉が悲鳴を上げる。口を開けば蒸気が口に入る、そして水分を奪っていく。痛いどころの話ではない! それでも続けないことには始まらない、私の足は既に投げ出されているし後が無い。

「アテナ様…私の心血・技術、真名に掛けて一介の戦乙女に勝利の微笑みを」……「お恵み下さいっっ」

 信仰心はない、ただただに物語が好きだった。神話のお話しが好きだった。アテナ様は、神の座のいくさ仲間として尊敬している……それだけだった。

 指先に冷感が伝わる――僅かな感覚、微かな兆しが見えた気がした。

 ―――掴んだ!!!!!!!!!!!

 私の左手は凍えるような群青の色に包まれる。軽い、柔い、容易い。そんな実感が込み上げる。

 私は即座に吸血鬼の眼をえぐった。

「うがァァァァァァ!!!」

「今度に悲鳴を上げるのはお前の番だ!!!!」

 蒸気の吸血鬼は悲鳴を上げる。それを絶対超悪の撃滅と称し私は感嘆の台詞を叫ぶ。

 夜も老け濡羽ぬれは色の黒いそらに投げ出されるような姿勢のまま、私は蒸気の吸血鬼のそのまなこを摘出した。

 熱さもすぐに冷めていく。私は吸血鬼から摘出した眼球を握りつぶす。

 その時、見慣れぬ歩調の男の影が見えた。今まで、村に所属してくれた兵士の人相や実力に至るまで、まさしく歩幅やそのクセに至るまで全てを熟知している私は、その男の影に見覚えがなかった。

 急激に冷えていく蒸気の中で、その男の人影だけが月明かりに照らされ蒸気の霧に写っていた。

 その人影は突如として霧をなぎ払い、虚空を切り裂いて私を横切る。姿は見えなかった。伊達に武を極めていないはずの私の洞察力ですらその動きを、目で捉えることすら適わなかった。

「シュスッッ…ピンッッ!」

 その剣閃は音を置き去りにして、ソニックブームと共に停止した。擬音にすればこうだろうか、それは重たい音を甲高く響かせた。

 ストンッ、重たい物が土の上に落ちるような音がしてやっと気づく。その人影は蒸気の吸血鬼の首を切っていた。けれど、切り飛ばすことがないような、こんなにも綺麗な切断を行える剣技の持ち主には心当たりがあった。

 それは、ニノしかいない。

「ニノか?!!!」

 背中を向けているその背中に呼びかける。返事はまだない。

 その背中はゆっくりと振り返る。……ニノか?

「シュッッッッ…」「??」

 その顔を拝む間もなく、その剣閃は私に振るわれようとしていた。

 その瞬間、私のブロンド髪が逆立った。

 瞬くほどの時間の出来事。

 その速度は正面から対峙して軌道が見えやすくなったのだ、背中の主の剣は移動の最中にその剣を上段に持ち上げていた。そしてその左足は残像を刻む、見えずとも動きを読めば分かる、剣の切り下ろしに繋げる体術と言えば、前蹴りと相場が決まっている。

 私は身をかがめ左腕を小盾で視界を塞ぐように眼前に構える。そして右腕は耳の横に据えておく。足は蟷螂カマキリのように前後で肩幅以上に大きく開き深く腰を据える。

 …安心しろ私、この場合では姿勢を崩す目的で蹴るのだ、それほどの威力は見込めないハズだ。

 案の定、それは前蹴りだった…けれど誤算だった。やはり相手はニノだったという話だ。

 ニノは全ての剣閃が最高速度であり、それは関節の可動域と筋肉の柔軟さによって成り立っていた、故に剣だけが最高速度の最高威力というワケではなかった。蹴りは剣士としてだけではなくの域にあったのだ…それは剣士以上に騎士であろうとしたニノらしい術理だった。

 前蹴りを受け止める左腕は既に焼けていて体力もない、受け切ることは諦めるしかなかった。

 それでもニノの蹴りは容赦ない。眼前に構える左腕は蹴りを受けて早々に私の顔面に迫り直撃しようとしていた。そんな左手を、更に身を低くすることで紙一重でかわすことに成功したが、蹴りは左腕を蹴りの威力のそのまま背後に伸び切らせえしまい左肩の関節を全体的に麻痺させてくれていた。もう左腕は動かないだろうと判断しながらニノの動きを洞察していた。それは予想通りだった。

 切り下ろしーー。

 只の切り下ろしではなかった。音速を超え、亜空すら切り裂かんとする速度の切り下ろしだ。最早、見えるはずが無かった。

 本能が叫ぶ、弾き飛ばせと。直感が言う、受けてやる必要はと。これまで死線を潜る中で、そのどちらもが肉体と親和して共鳴するに至っていた。

 故に、私は

 耳のそばに構えていた右手を低く屈んだ私の四体頭部の上に持ち上げて、右腕一つで神速の剣を待つ。

 神速の剣は音を立てない。なぜなら音速を超えて音を置き去りにしているからだ。目で捉えることも不可能だ。私ごとき柔肌の硬度ならば瞬く間に肉塊にされるだろう。

 …私は切られてやらないーー今だッ、と直感が言う。

 ッッッッッッッッッッッ!

 瞬間のこと、固唾を飲む暇もない。

「ビキーーーーーーーンッッ」

 重たい金属が叩かれ悲鳴を上げるような音が響く。

 その音も鳴り止まないような短い時間、私は全神経を足へ肩へと切り替えるように集中させた。

 まずは自慢の瞬発力、後ろの右足を前へ左足は少し引いて前身するように足を切り替える。一気に上体を起こす、そして背面での体当たり。パンッ! 弾くには不相応な柔い音、肉のしなる瑞々みずみずしい音が鳴る。

 右の肩の三角筋の側面と、僧帽筋そうぼうきん、広背筋での体当たり。貼山靠てんざんこうだ。

 蹴りを受けて貼山靠までの動きは1秒に満たなかった。けれどそれは、のちにマグレではなかったと実感できる。

「だァっ!」

 貼山靠てんざんこうを受けたニノは蹴りの後の着地が甘かったようで、踏ん張ることもできず、いとも簡単に遥か後方へ弾き飛ばされてしまう、ついでにマヌケな声が聞こえてきた。ニノが飛ばされたのは数メートルか…納まらない武者震いが距離感覚を狂わせる。

 見れば私の右手は、拳タコが擦り切れていた。ニノの一撃を弾いた時に手の甲に出来たものだろう。

 それでも、ニノも正気を取り戻したようで一段落がついたように思う。そのせいか、戦いは終わっちゃいないことは知っているが、平穏が戻った気になれた。


 けれど間も置かず、イヤな気配がする。背後からだ、ニノで私を挟んだ背後から…。それはさっきの吸血鬼と対峙した時よりも強く感じる。さっきよりも強い気温の変化も感じる。矢継ぎ早に、辺りの蒸し暑さが加速する。

 それを感じ、今感じたイヤな予感は、確信へ変わる。

 現実を直視したくないと、私の中の怠惰が叫ぶ。振り向こうと思うほどに、怠惰な私は心臓の早鐘を鳴らした。

 私は、筋繊維のちぎれた左肩の方向から振り向いた。


 立ち上がったは言う、蒸気の吸血鬼は眉間にシワを寄せて、に言葉を発する。

「次は私の番だ」

 私の中の怠惰が知らせてくれる。絶望の足音が近づいている――。

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