2ページ 《提案》

 その小さな人影は、7尺を越える俺の頭上を取り、側頭部へ回し蹴りを喰らわせたのだ。

 所詮、ガキの身体で行使された代物。そんなものに、吸血鬼の肉体が損傷を受けることなど有り得ない。―――そう考えていたのはこの瞬間が"最期"だった。


 視界が反転する。――その蹴りによる衝撃から、俺の首は皮1枚で繋がっているような感覚になるほど激しく"千切れた"のだ。ちぎれて胴体にぶら下がる。

 吸血鬼の肉体は丈夫なだけで、作りは人間と変わらない。二足二椀そして、それぞれの五感があり脳が神経を通じて身体を動かしている。

 だが、この瞬間だけは脳から身体に伝う脊椎(せきつい)が断裂したのだ。これで夜でなければ死んでいた。

 そして影の正体が明らかになる。それに重ねて、少女と俺の間に一瞬の沈黙が訪れる。否、俺の思考が停滞していた。

 その直後、俺の胴体の患部からは、果てなく黒い物体が湾曲と蛇足を幾度も重ねながら伸びていく。それはまるで、宿主を求める異生物ヴェノムのように。


 その現象には時間を要さなかった。やがて黒い物体は俺の首と結合し、履い戻るようにして首は『ジトッ』とした湿り気のある動きを見せながら胴体と接合し、同時に新たな脊椎を形成する形で自然治癒を完了させる。


 それは俺にとって初めての経験で、この現象は、俺に敗北の味を知らせたのだ。

 その経験は俺に屈辱を感じさせた。それは激しく脳を刺激し、理性のタガを超越するほどの怒りを生ませたのだ。

 この300年を吸血鬼として生きてきて、初めて遭遇した状況。

 沸点を遥かに超過した怒りは、捌け口を求めて少女の眼を睨みつける。


 この時の暦はすでに、夜の長い季節に移り変わろうという時期を迎えていた。だがその時間だけは、雲が月型から退け、満月が姿を現していた。

 そして少女を睨む俺とは対照的に、雲から覗く満月は、煌々と一筋の光をもたらし、少女の姿を照らしたのだ。


 少女は、この時代の質素な生活を営む人間らしい、みすぼらしいなりをしていたが、それを取り返して余りあるほど、綺麗な顔立ちをしているのが俺の目で見てとることができた。


 幼女のようなあどけなさをその輪郭が示しているようであり、その髪はどこまでも透き通った橙色で、太陽に当たっていたならば綺麗な黄金色を放っていたと思えるようなその毛先は、キメ細かく柔らかな曲線を描いて頬の横に収まっている。しかし今宵の月は少女の顔を明るく照らしている。

 そして少女の瞳はまっすぐに俺の瞳を…いや、瞳の奥を見つめている。瞳孔から推測される焦点が合わないのだ。

 肉体の衝動が止まる。それはまたも思考を停滞させていた。しかし今度は違う。その瞳は、俺が300年も前に失ってしまった人間性に満ち満ちていたからだ。

 続いて少女は、つま先立ちを使って小さな身体をめいっぱいに伸ばし。棒立ちのまま硬直している俺の頬を包み込むようにそっと触れる。

 すでに300年以上の間、生気を失い冷たくなっている俺の肌を、包み込むように撫でながら―――少女は唇を緩ます。

 そして納得したように頷きながら唾を飲んだ。

 つま先立ちを解いて、腰を曲げて少し屈んだ少女は、美しく感じるほど背筋を伸ばした。そして俺に顔を合わせ、微笑んだ表情で口を開く。

「ねぇ、相棒になれよ!」

 聞いてみれば、スズメの声のような、慎ましい響きで、少女は、ニカッと目を細めて満面の笑みを浮かべていた。

「?」

 俺は聞き間違いかと思った。

「なんだ、なにやら歯に野草が挟まっているような目をしてるぞ」

 表情を読まれた? ……。

「黙りこくってどうした? まだYESと聞いて無いぞ」

 無言の俺を少し待って、見兼ねた少女はそう言った。もはや少女と言うべきか分からないが。

「私は分かったんだ。私にはお前が必要なんだということが」

 少女は自信たっぷりに言うが、その言葉は俺に響かない。

「何を初対面で言っているんだ。自分の言動が稚拙ちせつで浅ましいと思わないのか?」

 俺は当然の正論を言い返す。誰だって同じことを思うはずだ。

「知るか。私の信じた全てが真実だ。他人は関係ない」

 俺は少し沈黙する。

「興が冷めた」

 俺は背中を向ける。

「女児よ喜べ、お前は生き残った」

 そう吐き捨てて歩き出す。そんな背中に蹴りが飛ぶ。

「!」

 俺はいち早く気づくと振り返り。振り返りながら左手を大きく振るう。そうしながら体表から出す黒い物質によって少女の蹴りを止め、同時に手の先に出した黒い物質を鋭利な形にし少女の喉元に突きつける。

「…!」

「これが俺とお前の実力差だ」

 俺は現実を突きつける。少女は首を仰け反っているままに、言った。

「差? 何処に差がある?? 私とお前の間違いじゃないいのか!?」

 少女はその言葉のあと、その身体を重力に従って仰け反らせた。同時に持ち上げた右手で俺の左手首を掴むと、ものすごい握力によって左腕の自由を奪い、瞬時に右手を引き寄せ上体を起こすとその勢いで左手の掌底を熊手の様にして俺の目潰しに掛かる。

 俺は右手でそれを払う、その手で肩を掴み少女の身体を引き寄せ頭突きする。ゴンと激しく骨同士が重たくぶつかると、お互いが後ろに弾かれる。

 その間際、左腕を引きちぎるような激しい力が加えられる。少女が引きちぎろうとしている。

 それを知った俺は、思わず少女を左にある山林の大きなみきに少女の背中を叩きつける。少女は足が固定されて回避ができない。

 次に俺ができるのは、少女の戦意を失わせることだと考えた。

 俺はそのまま大口を開けて少女に迫る、意図的に唾液を散らかしながら。ホンの脅しのつもりだった。がしかし、少女は異様な反発を見せた。

「そう来るのなら…私はこう行くぞ!」

 少女はそう言うや否や左手で大きな幹を背後でおぶるような行動を取る。その時だ。

『ビキィッ!』

 夜の森に轟くように木のしなる音が響く。それに俺は迷いが生じる。激昂させてしまったのではと。

 このまま脅しを続ければ、戦いは激化するだけなのではないか、かといってここで引けば、また無意味な言い合いが始まるのだろう。

 こういう時、アイツはどうするだろうか。そう自分に問を投げて、あれから300年経つというのにはっきり分かってしまう…。

 次の瞬間、俺は黒い物質による拘束を解き少女を投げ飛ばそうとした。しかし少女は木にしがみついている。それはきっと少女を動かしている意志があるからだろうと思う。

「強情だな」いや、厄介だ。そこで粘らなくていいんだよ。俺は心でため息を吐く。

「失敬だな、小賢しいと言ってくれ」

 少女が言ったその時、これまで以上の力で自分の身体を引っ張った。大木にしがみついた腕力は実際のところ多くの余力を残していたことになる。その力に対応できず少女を取り逃してしまう。それを見て俺は小さくほくそ笑む。

「確かにな」

 そしてつぶやく。

 確かに小賢しかった。なぜなら少女は俺の手中から離れると、すぐさま大木の木陰に入り途端に大木が倒れ始めたのだ。

 さっきの音で大木にヒビが生えたのだろう。そして今、その大木を目の前で担ぎ上げている。吸血鬼でものないその身で成す行為としては圧感の一言だ。それを今、俺は黒い物質を用いて押し合いしているのだ。本当に小賢しい少女だ。

 俺はそうしている間にも、次々と物質を作り出していく。それはまるで獲物を追い詰めるように。

 目的は変わっちゃいない。大木を挟んだ押し合いの中、俺の物質は少女を取り囲んでいる。

 それは唐突だった。少女は飛脚する。少女を取り囲み高い壁を形成していた俺の黒い物質は意図も簡単に飛び越えられ、大木を押し合っていた俺の物質から枝分かれして伸びる手からも、勢い任せに逃れていく。その姿は月光に照らされブロンドの髪は黄金に輝き中を舞い、姿体を軽快に魅せながら俺の遥か頭上を飛んでいた。

 俺は生み出した物質を少女の宙で描く軌道の先へ伸ばしていく。しかし少女はそれを意図も簡単に回避したが、その時にはもうどことなく、少女の姿に戦意と呼ばれるような気配が感じられなかった。

 少女は間を空けず、俺に背を向けて着地する。少女は振り向く。その時、さっきと比べられない俺が脊髄から逆立つほどの殺気を感じた。

 思わず、俺は一本のナイフを作り高速で投げる。その時すでに少女は俺を間合いに納めていた。凄まじい脚力だ。その時点で俺のナイフは回避されていて、しかし少女の素手の間合いというのは俺の間合いでもあるのだった。

 お互いの距離はワンテンポもない時間で詰められる。それと同時に、俺は手のひらで少女の首を鷲掴みにして手中に納めた。


 その瞬間、周囲の大気がその勢いのままに薙ぎ払われる。お互いの時間はそこで停止した。


 俺の左手は少女の首を。少女の左手は手刀の切先で俺の首を。お互いが生殺与奪を得ながら、それを放棄していた。

「なぜ止まる?」

 微かに、どちらからとも無く笑う。

「気まぐれだ」

 お互いに体勢はそのまま、そして問答が始まった。

「私は私を信じ、そしてお前を信じた…それだけだ」

 少女は言った。

 俺は言う。

「どうしてここで来て殺気を消した?」

 先回りをして答えたような少女に、再びの問いかけをする。

「目の色が、信じるに値したからだ」

 少女はその真意を言った。

「俺は死んでも生きられるからだ」

 すると、少女は俺の首から手刀を離すと高らかに笑う。

「実にユーモアがあるぞ!それだけ聞ければ十分だ」

 言いながら、少女は俺の手の中で笑う。俺は手を離しちゃいない。

「ここで俺がお前を殺したら怨むか?」

 俺は少女に問う。少女は一瞬、俺の目を見つめた。

「まさか。死人に口なしだ」

 言って、少女は笑う。吸血鬼の手の中で笑う。

「バカは鞭じゃ治らないようだ」

 俺はそう言って手を離す。

「お前はやっぱり優しいな」

 少女は微笑んだ。

 その台詞はそれだけで。失っていた生気を俺の中のどこかで取り戻したかのような、温かい気持ちを思い出させてくれた。

 俺は少女に背中を向ける。

「バカに漬けるクスリもないな」

 そして元来た方へ、山林を抜けるために歩き出した。

「もしかして、また死合いたいか?」

 後ろから問いが投げられた。思わず振り向く。

「どうしてだ?」

 俺は聞き返す。

「“ムダに長生きする癖に”記憶力が悪いんだな」

 ムダ、癖か。

「随分と人間扱いしてくれるんだな」

 俺がそういうと、少女は初めに左下を見る。次に左上を見る。目が泳いでいた。

「そう言うわけではない」

 少女は言う。しかし他所を向いたままだ。

「それより本題だ」

 俺の方を見て言った。

 そこで俺の背後にいた少女は。

「まだYESと聞いていない」

 少女は俺の背中を睨んでいた。

 それを知って、俺は振り向く。そして言う。

「話は聞いてやる。いいか、冷静な話し合いだぞ」

 なぜか、俺は変な言葉を言っていた。

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