第9話 平常に戻っていく世間

 5月9日、俺を起こしに来た緑は、そのまま俺の家でリモート授業が始まるまで授業の予習を始めて、俺にも勉強しろと目で圧力をかけてきた。逆らうと面倒なのは分かっているので、緑に紅茶とクッキーを差し入れつつ、俺も予習を開始した。その後は昨日と変わらない一日である。午前の授業が終わると、二人で昼食を用意して二人で食事して、午後の授業が終われば、授業の課題と復習を済ませて、二人で両家の夕食を用意した。おかげて、夜に時間の余裕ができた。緑のペースに振り回されているところがあるが、こうした余裕ができる利点もある。隣の家にある緑の部屋が暗くなるのを確認して、俺も寝てしまう。


 これで一日が終わったと思ったのだが、緑に起こされた。

「起きなさい。直人。」

「おはよう?」

 見回すと、夢空間の俺たちの部屋だった。

「変な気分を出す前に服を着てね。とりあえず、洗濯と、お風呂ね。」

「洗濯と風呂?」

「体が密着していたところが汗ばんでいて……いいから、さっぱりしましょう。」

 緑は俺を布団から叩き出して、シーツを剥いで身に纏うと、そそくさと新しい下着を出して部屋から出ていった。

「格納に昨日ここで着ていた服が収納されているから、一緒に洗濯をするから持ってきて。」

 下着だけ着て洗濯物を渡すと、先に風呂に入るように言われた。風呂の掃除をしながらシャワーの水が温かくなるのを待っていたら、洗濯機が動く音が聞こえてきた。部屋を片付けてくるといって緑が去っていった。感覚的には数時間前に入ったばかりなのだがと思いつつ、風呂桶に湯を張りながら体を洗ってしまう。湯に浸かっていたら、風呂に緑が入ってきた。惚けてお湯をかぶっているのを横から見ていたら、さっさと出るか、私を洗ってくれるかどっちかにしてくれると嬉しいとかいうので、洗ってやった。髪の洗い方に注文が多いのには閉口した。俺に対する羞恥とか遠慮とか、どこかに捨ててきてしまったようだ。


「中学の時に胸の平らさを攻撃されて嫌だったと言っていたけれど、実際にはそこぐらいしか攻撃対象が無かったのだろうなあ。緑が、成績優秀で、175cm超の長身ではあるけれど容姿端麗であることにはかわらないし、人当たりが良くて信用できる。俺には厳しいがな。」

「今となっては、私の人生が幸せなものにするには、半分はあなたにも協力してもらう必要があるもの。採点も辛くなるわ。あなたも、去年の今頃に、まな板だの、それは乳房ではなく大胸筋だとか、残酷なことを言ってくれたけれど、さすがにもう言わないわよね?」

「だいぶ筋肉質だけれど、十分抱きしめ甲斐のある女性らしい魅力的な体になってきているから自信を持て。カップサイズだって、Bなら普通だろう。BとCの合計で全体の6割近くになるというし、サイズのバランス的に長身な分だけ視覚的に損をしているだけだろう。」

「直人は1年で5cmぐらい身長が伸びたのかな?去年は同じぐらいだったのにね。」

「180cmか、ちょっと超えるぐらい。鴨居に無警戒でいると頭をぶつけて痛い目に合うことがある。」

「背が高いのも不便ね。」


 風呂から出ると、この夢空間について疑問に思っていることを確認していった。理解できたのは、夢空間は存在が曖昧な世界であるということである。時間の経過感覚もだいぶおかしい。有ると思ったものはあるし、無いと思ったものはない。必要だと思ったものは補充されているし、そうでない物は消費したら失われる。現実で『格納(アイテム)』に収納した物はこちらでも使えるが、消費したものは失われ、使っても無くならない物は夢空間で使っても『格納(アイテム)』に戻ってきている。格納されていたこちらで着ていた服が現実では確認できなかったことから、こちらの物は夢空間で『格納(アイテム)』に格納することはできても、現実では取り出せないようだ。刀樹や盾樹のようなものは例外であるようだ。


 こうして、二つの世界で二重生活している状態が続いた。

 緑は辛抱強く利口な女性だ。俺に対して嫌なこともあっただろうに、俺の手綱をしっかり握って誘導している。彼女の期待に応えられる男に俺はなりたい。一方で、隼人叔父さんは、娘をすっかり直人に取られてしまったと寂しげであった。


 6月も下旬になると、登校を再開するのにあたって月末の月例定期試験の結果によっては、7月から8月上旬にかけて補講を行うことが通知された。5月の月例定期試験の結果からリモート授業の弊害で習熟度に格差が起きているのが判明して補講の期間を延長したのだという。時間経過が曖昧なあの夢空間で、俺の習熟度に緑が納得するまで勉強した成果もあって、成績主席の緑に継ぐ1桁台の順位でテストを終えることができた。


 登校が再開された背景には、世の中の変化があった。


 早期にダンジョンを国家の管理下に置けた日本と違って、海外では数が多すぎて管理しきれないために、ダンジョンが放置されていることが多かった。そのために、ダンジョンの第2層以降で高純度の貴金属やレアメタルの団塊がドロップすることが知られると、一獲千金を狙ってダンジョンに入る人が多かった。都市部ではダンジョン内に人が多かったので、行動制限する必要が無くなった。地方都市では救出が間に合わなかったため犠牲者が多く、廃墟になる街が多かった。ただ、もともと自然に即した暮らしをしていた素朴な農村部に限れば、生存率が高かった。地域によっては、ダンジョン第1層の温暖で水が豊かな緑の大地というだけで魅力があったらしく、大挙して積極的にダンジョン内に移住する地域もあった。ダンジョンを活用できている地域とそうでない地域との格差が発生していた。全体として推定で人口が2割近く減ったものの、生き残ってダンジョンを利用している者に限れば、オリンピック選手並みに運動能力が向上した者が増えたり、魔法を使う者が知られたりするようになった。人的資源の開発という意味で、研究が始まっていた。


 日本の場合には、なまじ早期に管理できてしまったために無秩序にダンジョンに入るということはなかった。そのために深い層への探索が遅れていた。実に日本らしい対応と言える。

 ダンジョンに特別養護老人ホームを作るという発言に野党は反発していた。しかし、海外での事例が知られ、先行してテスト設置された介護施設において数週間で著しい成果があった。最初のきっかけは、ダンジョンに捕獲された高齢者のうち、生還した人に限れば健康状態の改善が見られたことである。それをもとに、最初は災害支援用に確保されていた資材によってプレハブ小屋で、小規模な運用が始まった。1週間すると、リハビリの成果が良くて介護度が下がった事例や、痴呆の症状が改善した事例が表れ始めた。ホスピスに至っては、ステージ4の癌が消えて治癒したり、筋萎縮性側索硬化症(ALS)すらも症状が1年以上前の状態に改善していたりした。急遽、ダンジョンの第1層をダンジョンのゲートがある市区町村の公有地として管理することが仮決定され、福祉目的と各種検証目的には、各自治体の責任で自由に使えるようになった。税金に関する問題や、民間への土地売却については、今後何年かかけて調査と検討が継続される見込みである。それを受けて、公設民営方式で福祉施設が増加しようとしていた。既存の施設を入所待ちをしていた人を中心に仮設の施設への入所は増えていった。軽トラより大きなものがダンジョンのゲートを通過できないので限界はあるだろうが、プレハブの仮設から恒久的な施設へと変わるのも時間の問題だろう。

 ダンジョン内に滞在型介護施設が増えるにつれて、ダンジョンに常駐させていた警察官や、自衛官、といった公務員を減らすことができるようになった。ダンジョンに捕獲されることを恐れて行われていた行動規制も、準備ができた地域から解除されていった。

 一方で、スポーツイベント等の大規模なイベントについては規制が続いていた。最寄りのダンジョンに最低人数が滞在していても、2000人以上の人が半径50m以内にいるような密度でいると、ダンジョンに捕獲され、ダンジョンの規模が成長するケースがあったからである。初期の頃には、ダンジョンによる行動規制なんか無意味だというデモが起きたこともあったが、そのデモ隊がダンジョンに捕獲されるに至って沈静化していった。陸上競技場や、サッカー場、野球場に至っては、グラウンドの中心にダンジョンのゲートができていることが多く、そもそも観客を入れて試合ができる会場が無かった。


 そんなこともあって、生徒数が一定以下の規模の学校であれば、登校を再開しても大丈夫だろうということになって、6月下旬から順次登校が再開されることになった。

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