第5話 人の価値
エリックは三年振りに対面するアリエルの仇を前に喉が締め付けられる。冷静でいようと自分に言い聞かせても心臓は目の前の敵を倒さんと力強く脈打ち、全身を巡る熱い血液が顔の傷を刺激する。痛みが記憶を呼び起こす。家畜小屋の臭いが三年前の感情を引きずり出し、当時の怒りと憎しみが毛穴から噴き出した。
「今度こそぶっ殺してやる!」
周りの兵士に目もくれず、僅かに覗くエリックの赤い瞳がウイングマン侯爵から目を離さない。
「まさか今日が再会の日になるとは……、この瞳の味が忘れられないのですか?」
翡翠色の瞳がエリックによく見える様に少女の顔を握る。ウイングマン侯爵に歪められたのは少女のはずだが、それに呼応するようにエリックの顔が怒りで歪む。
剥き出しになった右手を向け、咀嚼するかのように指がうごめく。
「随分と腹空かしてきたからなあ、今は性根の腐った貴族の口なんだ。大人しく食われてくれよ」
「ご冗談を……。あなたの為に用意させたんですよ、とびっきりの★5とやらを」
剣を抜いた兵士達に囲まれながらエリックは不敵に笑う。自分の能力に一切の疑いがなく、この場を掌握しているのは自分だと言わんばかりにただ侯爵の隙を探す。
少女の背に身を隠す侯爵は笑いが堪えられない。肉壁にするための奴隷を見つけたその直後にエリックが現れたことで自分の運命を、勝利を微塵も疑っていない。
「侯爵をお守りしろ!」
騒ぎを聞きつけた衛兵がウイングマン侯爵を隠すようエリックの前に立ち塞がる。屈強な筋肉と鎧を纏った衛兵は、実力も体格も他の兵士達と比べて頭一つ分抜けていた。
が、意気揚々とエリックの前に立ち塞がったかと思うと、バランスを崩しよろめく。見る見るうちに自慢の上背は人並に並び、慌てもがくほどにどんどん地面に沈んでいった。
「随分姑息な魔法を使うじゃないですか。私の大事な部下に何てことを……」
「姑息なのはどっちだ。これはお前の魔法だろ? オレだったらこうするさ」
エリックが膝を着き地面をそっと撫でると、取り囲んでいた兵士達はまるで糸の切れた操り人形の如く地に伏した。
「向かい合う敵の前に立たれても邪魔ですからね」
味方がいなくなったことへの焦りもなく、味方を自ら手にかける相手の異常性も気に留めず、終始落ち着いた声で二人は向かい合う。
衛兵の断末魔、兵士達の呻き声、町中から聞こえる悲鳴。
奴隷商人は馬車から顛末を覗くことをやめ、出来るだけ息を潜めた。間違っても二人が自分の存在を気に掛けないように嵐が過ぎ去るのを祈る事しか出来なかった。
少女はエリックから放たれる禍々しい殺気と、肩から伝わってくる侯爵の邪悪な魔力に挟まれ膝が震えた。口の渇きは一層増すが、恐怖で掌は湿り、纏うボロを握りしめる。今自分を守ってくれているのはこの頼りない布一枚なんだと痛感する。二つの翡翠色の瞳が、悪意と悪臭たちこめるこの場で似つかわしくなく美しく輝いていた。
「それにしてもあなたの執念には驚かされます。どうしてあの娘にそこまで拘るのですか?」
「口を開くな!その子を離せ!」
「結局あの娘だってあなたが食べてしまったではないですか。そんなに美味しかったのですか?」
「お前はオレが地獄に連れて行く!!」
お互いに相手の言葉に応えようとしていない。だが、言葉に乗った感情をぶつけ合うことで二人は三年振りに出会う相手のことを再度理解し合う。
――この男は絶対に殺さねばならない――
「エリック、取引をしましょう。この少女を食べればあなたは★6になれます。そうすれば私を殺すのは容易なはずですし、あなたは一歩神に近づく。それで手を打ちませんか?」
足の裏を伝い影に魔力を注ぎながらウイングマン侯爵はエリックから目を離さない。素肌を見せぬよう少女を壁にしながら少しずつ逃げる準備を進める。
「お前を食らってオレは死ぬ。その少女を犠牲にする必要なんかない。第一あんな邪神に近づくなんて考えただけで反吐が出る」
奴隷商人と少女はそれぞれが死を覚悟した。
残虐な狂人への禁句を耳にして。邪悪な魔力が禁忌に触れる気配が肌に伝わって。
キェェェェ!という甲高い叫び。不気味な蟲が身体を這いずっているかのようにウイングマン侯爵の肌が泡立つ。
「アルシャト神への不敬は二度目だぞ!!万死に値する!!」
無知への教育や未熟な者への慈愛はなく、排他的な教義は狂信者と相性が良かった。まして他人の命に価値を見出さない、生まれた家にも才能にも恵まれた者からすると選民思想に間違いなどあるはずがなかった。
「 」
呪言らしき音を発すると少女の穴から黒い煙が噴き出す。それを煙玉のようにエリックに向けて投げ飛ばし、反動でウイングマン侯爵は影に沈んでいく。
エリックは煙に埋もれた少女の素肌に触れないように籠手に覆われた左手で受け止める。焦げた匂いに鼻を潰され、涙で目が開けていられない。
「こっ、ゴホッゴホッ、なん、オゥェ」
ウイングマン侯爵への怨嗟の声より身体がこの煙を吸うまいと咳き込んでしまう。
まるで火事の中心地にいるかのように黒煙が辺りを包み、燻された虫のように馬車から奴隷商人が飛び出してくる。
身を屈めながら出来るだけ早く、誰にも見つからないようにその場を駆け抜ける。
自分の直感を信じた奴隷商人は少女を抱き抱えたエリックを強引に担ぎ、都の出口を目指す。
人喰いの出現に既に混乱していた人々は都を襲う新たな脅威を前になす術もなかった。騒ぎが騒ぎを呼び、煙の中心にいる三人など誰も気に留めないし、姿を見られることすらなかった。
煙が薄くなり意識を失った少女の顔が見えてくる頃、エリックは二人を抱えて森を歩いていた。煤と憤怒で汚れた身体を癒してくれる泉に辿り着いた。
「よくぞ戻ってきたな。それに今度は二人も助けたのか」
木陰から現れたそれはエリックを労う。
煌めく泉によく映える銀色の毛並みを持つ狼は、人の言葉を話すことに違和感を持たせない神々しさで佇んでいた。
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