第145話 『早く会いたい』


 最初は現在(パステルの誕生日)、後半は回想です。


********


「それにしてもお嬢様、本当によくここまで回復されましたね。お嬢様が目を覚まされた当初は、身体も弱っておられて、歩くこともままなりませんでしたものね」


「そうね。あの時は見えないし、思うように動けないし、とにかく不安だったなあ」


「お話をしても戸惑うようにお返事なさったり、反応が遅れることもありましたから、すごく心配したのですよ」


「それは……」


 視界が完全に闇に閉ざされていた頃は、思い出話や誰か他の人の話をされても、うまく思い出せなかったのだ。

 どう返そうか逡巡してしまったり、曖昧な反応で誤魔化したりしてしまうことが多かったように思う。


「……あの時は、なんだか頭もぼーっとしていて」


「そうですよね。寝起きで頭が働かないのと一緒ですね、きっと。――あらやだ、それエレナだけかしらねえ?」


「まあ。ふふふ」


 エレナはとぼけたように笑う。私もつられて笑ってしまった。


 エレナは、私の記憶が曖昧になっていることには、気付いていたのだろうか。

 それとも、気付かなかったのだろうか。


 何にせよ、ほとんど全ての記憶が戻ってきた今になって、この症状がソフィアの言っていた「魂が傷付く」ということだったのだろうという想像がついた。


「ああ、でも。お嬢様の目にほんの少しだけ光が戻った日――あの日はすごく大変でしたねえ」


「ふふ、そうだったわね」


 私の目に光が戻ってきたその日。

 それは、セオが聖王都に出立した翌日のことだった――。


***


 その日の朝、目覚めた時に、私は真っ先に違和感を感じた。

 ――うっすらとだが、光が差している。

 ついに、魔力が身体中に行き渡って、目まで戻ってきたのだ。


 光が差しているとは言っても、すごく暗くて、全然はっきりしないけれど――少し明るくなっている方に窓があるということも分かるし、顔の前でゆっくりと開け閉めを繰り返す自分の指の動きも、間近でなら追うことが出来る。

 手の届かない範囲のものはまだほとんど見えないが、大きな進歩だった。


 それと同時に、もやがかかって混濁していた記憶も、少しずつはっきりしてきた。

 自分が何者で、どんな家族がいて、誰と出会い、過ごしてきたのか。

 まだはっきりと皆の顔を思い浮かべることは出来ないが、名前や話し方――少しずつ、本当に少しずつ、記憶があるべき場所にすっきりと収まってゆく。



 そうして記憶が戻ってきた私に浮かんできた感情は、強い焦燥感だった。

 精霊の樹の存在を、思い出したのだ。

 何をすべきだったのか、どうしてそれを知っているのか、どこにそれがあるのか――そういうことはまだ思い出せない。

 けれど、精霊の樹に何かをしなくてはならなかった、ということだけが、蘇ってきたのである。


「エレナ? いる?」


 私はエレナを呼ぶが、返事はない。

 どうやら部屋の中には、私以外誰もいないようだ。


「行かなくちゃ……」


 異常なほどの焦燥感。

 私がやらなければいけない。

 寝ている場合ではない。


 私は初めて人の手を借りずに一人で立ち上がり、手探りで部屋の入り口まで歩いていく。

 何年も暮らしてきた自分の部屋だ。ほとんど見えなくても、問題なく部屋の入り口へとたどり着いた。


 子爵家の廊下を、壁づたいにゆっくりと歩いていく。

 誰かいないかと時折声をかけるが、誰も返事をしない。


 不安になってきたその時――


「きゃっ!」


 私は小さな段差につまずいて、思いっきり転んでしまった。

 転んだ拍子に、近くに飾られていた花瓶に手がぶつかる。花瓶は大きな音を立てて割れてしまい、床についた手と膝を少し切ってしまった。


 私がその場にうずくまっていると、異常を察知して駆けつけたイザベラによって、すぐに部屋へと戻されたのだった。




「ハニー、大丈夫かい!?」


 花瓶の破片で切ってしまった部分の手当てをしてもらっていると、突然部屋の扉が開く。

 ノックもなしに部屋に入ってきたのは、王都のタウンハウスにいるはずの義父の、慌て声だった。


「え? お義父様? どうしてここに……」


「社交シーズンが終わって今さっき帰ってきたら、ハニーが怪我をしたって言うから……! エレナとトマスが僕たちの出迎えに外に出ている時に、ハニーがこんな大怪我を負ってしまうなんて。なんてタイミングが悪いんだ……」


「大怪我って……お義父様、大げさよ」


 どうやらエレナは、タウンハウスから戻る義父母と義弟妹の出迎えのために、席を外していたようだ。

 義父たちが今日戻って来る予定だったとは、知らなかった。

 焦燥感に囚われて、考えもなしに外に出てしまったことを、反省する。


「それより、お義父様。お出迎えに行けなくて、ごめんなさい。お帰りなさいませ」


「――ただいま。ハニー、エレナとセオドア殿下から手紙をもらって、聞いているよ。目がよく見えていないんだろう? どうして部屋の外に一人で出てしまったんだい?」


「それは……その……」


 私はうまく説明出来ずに、口ごもる。

 自分でも、どうしてこんなに焦っていたのか、そもそも精霊の樹に何をすればいいのか、よくわかっていないのだ。


「――はっ! もしや!」


 私がもじもじしていると、突然義父が何かに気付いたように大きな声を上げた。


「ハニー、君は私たちを出迎えようと思って、無理して外に出てきてくれたのかい!? なんてこった、ハニーの怪我は私たちのせいじゃないか……」


 義父が盛大な勘違いをして、大仰な仕草で凹んでいる。

 私は否定しようとして、少し逡巡した。

 ――私が怪我をしたのはショックかもしれないが、「出迎えようと思った訳ではない」と否定するのも、それはそれでショックを与えてしまいそうな気がする。


「あの、えっと……その、怪我は、気にしないで大丈夫だから……」


「ああ、ハニー! 私たちのために、ありがとう! そしてすまない!」


 歯切れの悪い返答をする私、おいおいと泣く義父。

 結局その日からしばらくの間、過保護な義父のはからいにより、私の部屋には使用人が必ず配置されるようになった。外出はもちろん禁止だ。


 精霊の樹のことを考えると、どうしようもない焦りと不安がわいてくる。

 一度エレナにそれとなく聞いてみたものの、全く心当たりがないようで、何の手応えも得られなかった。



 聖王国にいるセオからの手紙が届いたのは、視力が回復しきらず、外出禁止が続いている頃だった。

 明るい窓際で、目を凝らせば文字も読めるようになっていたが、どうしても疲れてしまうので、エレナに頼んで読んでもらう。


「ええと……


『パステルへ。そちらの様子はどう?

 僕はお祖父様と一緒に聖王都に戻ってきて、ようやく一人の時間が取れたところ。手紙を出すのが遅くなってごめん。

 城に住むタンポポの妖精が手紙を運んでくれることになったんだ。何日かはそっちの庭で待っていてくれるはずだから、目が良くなったら、返事をもらえたら嬉しいな。

 封筒に同封したリボンをいい香りのする花の根元に括り付けて、そこに手紙を一緒に結んでおいてくれれば、妖精が気付いて運んでくれるはずだよ』


 ……まあ、タンポポの妖精! 綿毛になって空を飛ぶ、可愛らしい妖精ですよ。

 良い香りの花……この時期ですと、ジャスミンが咲いていますから、そこがいいでしょうかねえ」


 エレナは明るく笑いかけてくれる。

 彼女が聖王国出身で、妖精や魔法について知っているということも、聖夜の街ノエルタウンで一緒に過ごした日々も、私はもう思い出していた。


「ええと、続きを読みますね。


『聖王国で何が起きているのか、天空樹やティエラがどうなったのか、パステルが受け入れる準備が出来たら少しずつ話すことにするよ。

 今はこちらのことは気にしないで、ゆっくり身体を休めてほしい。聖王都にはお祖父様もメーア様もヒューゴ殿下も、帝国の皇帝もいる。エルフの森に帰ったハルモニア様とフェンも、何ごともなく過ごしているみたい。

 みんな元気だから、心配しないで。それから――』」


 そこでエレナは突然、にこりと笑って黙ってしまった。

 どうしたのかと首を傾げていると、エレナは私を窓際に連れて行ってそっと手紙を差し出し、指でその部分を指し示した。

 私は、目を凝らして、最後に書かれているその一文を読む。


『パステル、君と離れてからまだ数日なのに、もう寂しいよ。早く会いたい』


 流麗な字で書かれたその一文に、私の目の奥で柔らかい水色がちらつく。

 胸元にずっとさがっているネックレスを指でなぞると、より鮮明に。

 ぼやけたままの輪郭の奥、金色に宿る熱が蘇ってくる。


「セオ――」


 私は窓の外を見上げる。

 真っ白な空が、頭上いっぱいに広がっていた。

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