第11話 「笑っちゃうぐらい、何一つ」
「まったく、扉ぐらい閉めてから帰ってほしいわい」
フレッドはそう言って立ち上がり、ラスが開けっぱなしにした入口の扉を閉めた。
そのまま、ラスがほとんど残していったコーヒーを手に、キッチンへ入っていく。
私はというと――衝撃と混乱で未だに固まっていた。
「ラスさんが、風の精霊……?」
魔法や魔物の存在が信じられていないファブロ王国でも、精霊信仰は広く根付いている。
地の精霊に農作物の豊穣を願ったり、水の精霊に水害や
だが、多くの人にとって精霊はあくまでも信仰の対象であって、本当に存在していると思ってはいないだろう。
王国に伝わる伝承によると、精霊――それは、この世界を形作るあらゆる自然現象が具現化し、意思を持ったものである。
地水火風光闇の六大精霊を頂点に、雷や氷などの大きな事象を司る高位の精霊、山や泉、花などの個々の事象や場所を司る中位・下位の精霊が存在する。
下位精霊までは強い意思を持つ存在だが、精霊の手足となる妖精達は、意思や知能、感情などが希薄なものも多いのだという。
「ラスさんが、私の、緑を預かってる……?」
一体どういう意味なのか、考えたところで私には何一つわからなかった。
マグカップに残るミルクは、もうすっかり冷めてしまっていた。
「パステル嬢ちゃん、大丈夫かい」
しばらくして、フレッドが戻ってきた。
どうやら、セオの様子を見てきたようだ。
「あ……はい。あの、セオの様子はいかがですか?」
「ああ、よく眠っとるよ。心配ない」
「そうですか……良かった」
「本当はワシが送ってやれたらいいんじゃが、ワシは風魔法は使えないんでな。すまんが、セオが起きるまで待っててくれるかい」
「はい」
元よりそのつもりだった。
フレッドと一緒なら大丈夫かもしれないが、やはり自分の目でセオの無事を確かめないと、落ち着かない。
「あの、フレッドさん。ラスさんが最後に言ったこと……ラスさんが私の緑を預かっていると……、どういう意味か、おわかりになりますか?」
「……さあ、ワシには何とも」
「そう、ですか……」
「すまんのう」
そう言ってフレッドは眉を下げる。歯切れの悪い解答だ。
目が一瞬泳いだのを、私は見逃さなかった。
――この仕草を、私は見たことがある。
義父やトマスが、私に気を遣って何かを隠そうとしている時と同じ仕草だ。
フレッドは何か知っているが、言いたくないのかもしれない。
これ以上聞いても、無駄だろう。
私は、話題を変えることにした。意識して明るい声を作る。
「あの、フレッドさん。私の両親は、どういう人たちでしたか? 私、笑っちゃうぐらい、何一つ覚えていないんですよ」
「……そうじゃのう、お嬢ちゃんの母君は、とても朗らかで物怖じしない、ハキハキした子じゃったのう。それでワシの娘と気が合ったようで、何でも素直に話せる唯一の友だと言っておったなあ」
フレッドは、懐かしそうに目を細めている。
だが、やはり目の奥には哀しみが宿っていて、私は少し切なくなった。
「父君は、とにかく大らかで優しいお人じゃった。あと、かなりの色男じゃったぞ。お嬢ちゃんの目元なんかは父君そっくりじゃな」
「まあ……」
「本当にいい子達じゃったよ。二人はお嬢ちゃんのことを心から愛しておって、宝物のように大事に育てておったぞ」
「……そうでしたか」
それを聞いても、全く思い出せないのが残念でならない。
両親の絵姿も残っていないし、私を本当の娘として扱ってくれている義両親に話を聞くのも
「貴重なお話、ありがとうございました。少しでも思い出せればと思ったんですが、やっぱりダメみたいです」
「いつか――」
「……?」
「いや、何でもない。さーて、庭仕事でもするかのう」
フレッドは、ぼそりと何かを呟いた。
しかし、私にはそれを拾うことは出来なかった。
フレッドが明るい声に切り替えて立ち上がったので、私も立ち上がって腕まくりをする。
「あの、良かったら、私にも何かお手伝いをさせて下さい。洗い物とかお掃除でしたら、お役に立てますよ」
「いや、気にしなくていいぞい。お嬢ちゃんは座っていなされ。そもそもラスが勝手に連れてきたんじゃから」
「いいんです、何かしていた方が落ち着きますから。洗い物しちゃいますね」
「ふむ、ならお言葉に甘えるとしようかのう。アワダマを切らしてしまってから、ついつい食器を溜め込んでしまってのう。助かるわい」
アワダマは、セオが洗濯に使っていた毛玉のような妖精のことだろう。
食器も洗ってくれるのか、と私は感心した。
スポンジにたっぷり泡を乗せ、食器を一つ一つ洗っていく。
井戸から汲んできた水はとても冷たく、きりきりと肌を刺す。
子爵家では、可能な限り自分で洗い物も掃除も洗濯もするようにしていた。
一方、繕い物や料理は色のわからない私には難しかった。
家庭菜園の真似事もしたが、出来上がった野菜は小ぶりで、形も味もあまり良くなかった。
私は一人でも生きていけるように、出来る限りの技能を身に付けようと努力した。
恐らく義弟が子爵になる時には、私は家を出ざるを得なくなるだろう。
私は知っている。
今の心地良い閉ざされた世界は、義両親や義弟妹の気が変わってしまったら簡単に崩れ落ちる、と言うことを。
幸い、読み書き計算は出来るから、就職先には困らないだろう。
洗い終えた食器を、柔らかい布で拭き上げていく。
どのように仕分けすればいいだろう。
大きさか、形か、それとも色だろうか……。
――その時だった。
「あれ、パステル……?」
後ろから、美しく澄んだ声が私の名を呼ぶ。
とくん。
心臓が甘く鼓動を刻む。
私はゆっくりと振り返る。
「セオ……」
長いまつ毛、すっと通った鼻筋、形良い唇、柔らかそうな頬と、少し長めのつややかな髪。
今までに見た誰よりも美しい少年が、出会った時と全く同じ表情で、そこに佇んでいた。
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