色のない虹は透明な空を彩る〜空から降ってきた少年は、まだ『好き』を知らない〜

矢口愛留

序章 白黒と透明

第1話 「世界で一番似合わない名前」



 ――霧虹、または白虹。

 それは、非常に稀有けうな光学現象である。

 けれど、如何に珍しかろうと、私は、の虹が見たい――



 もう随分昔のことに思える。

 感情を持たない少年が、空から突然降ってきたのは。

 彼がどこから、何のためにやって来たのか、その時の私にはわからなかった。

 だが、私に生きる意味を見出してくれたのは、確かにその少年だったのだ。




********




 私には、色が判別できない。

 目が悪い訳ではない。世界は白と黒の濃淡で構成されている。


 私の髪は虹色なのだと言うが、私にとってはただの白と黒の混ざり合った、灰色のグラデーション。

 春の朝焼けも秋の夕焼けも、夏の青葉も冬の枯葉も、焦げ目のついたパンもかびの生えたパンも、私にとっては全部同じだ。


 綺麗なドレス、美しい宝石、唇に引く紅。

 そのいずれも、私には何の意味も成さなかった。

 そして、それは貴族の令嬢にとっては社交に支障をきたす、大きな欠点であった。



 それでも私は、貴族の家に生まれてきてしまった。

 貴族令嬢は政略結婚をするのが常だが、私と婚姻を結んでくれる者など、恐らくいないだろう。


 ならばせめて家の助けとなるように、と父は私にありとあらゆる本を与え、知識を与えた。

 使用人と同じ動きやすい服を着て、父の書類を整理し、時には目を通し、意見をメモにしたためる。

 外国からの文書を翻訳し、返事の草稿を書く。

 領地から上がってくる様々な数字を計算し、書類にまとめる。


 他人が聞けば、良いように使われていると思われるかもしれない。

 だが、私は自分の立場を理解して、自分の意思でそうしていた。

 私のような子供は、難しかったと思うが――それでも、父にも、母にも愛されていたと思うし、婚約者をあてがう代わりに知識を与えてくれた両親には、感謝している。


 私は外に出て、私を理解しない人と触れ合うのが怖かった。

 家の中なら、私は傷つかない。


 世界は狭ければ狭いほど、居心地が良い。




 その少年が現れた――いや、空から舞い降りてきたのは、十四歳の秋。

 社交シーズンが始まり、家族がみな、王都のタウンハウスに滞在している時だった。

 私は少数の使用人と共に領地のマナーハウスに残り、相変わらず狭い世界でゆったりとした時を過ごしていた。



 夏は過ぎ、空が高くなり、頬を撫でる風は少しひんやりとして心地良い。

 庭の木々は、私には夏と大して変わらないように見えるが、きっと色付き始めているのだろう。

 風で揺れる葉が、時折一枚、二枚、ひらひらと宙を泳いで落ちていった。


 灰色の景色を眺めながら、私はのんびりと庭を散歩していた。

 色は見えなくとも、花の香りも風の冷たさも、石畳を踏むコツコツとした靴音も固い石の感触も、私には感じられる。


 オレンジ色の金木犀の花は、日差しを浴びると金色に輝くように見えるという。

 だが、私にはその美しさも、金色という色の尊さも分からない――私にとってはただ、強い香りのする灰色の花だ。


 ぼんやりと金木犀の側を通り過ぎ、ベンチに腰掛ける。

 この庭には音があり、香りがあり、温度があるから、寂しくない。

 白と黒の書類しかない執務室で煮詰まってはこの庭で休み、しばらくしたら、また誰もいない静かな執務室へと戻る。

 それが、社交シーズンの私の日常だ。


 だが、それも今シーズンで一旦、終わりを迎える。


 気が進まないが、来シーズンには私はデビュタント、すなわち社交界デビューを控えているのだ。

 何事もなく、誰にも見初められなければ、その次のシーズンからはまた元通りの生活が戻ってくる。


 だが、それでも。


 ――世界が広がるのは……怖い。




 そんな時だった。

 突然、あたりがまばゆい光に包まれた。

 空も屋敷もこの庭も、一瞬で光に覆われて、辺り一面、白、白、白で満ちた、その時。



 ――空から、少年が、降ってきたのだ。



 ゆっくりと。

 ふわりと、静かに、彼は着地した。

 私の目の前に。音もなく、言葉もなく。


 私は驚きのあまり、動くことが出来なかった。


 だが、不思議と恐怖は感じなかった。

 むしろ、それは必然であり、時が満ちたのだと――私は心のどこかで、そう理解したのだと思う。



 彼は、美しい少年だった。

 歳の頃は、私と同じか、少し下くらいだろうか。


 長いまつ毛、すっと通った鼻筋、形良い唇、柔らかそうな頬。

 髪は少しだけ長いが、肩につく程ではない。前髪はサイドに流し、空から降ってきたとは思えないほど綺麗にまとまっている。

 髪も、肌も、瞳も、淡い色のようだ。


 纏っている服も、白に近い色のようである。

 貴族の服のようでもあるが、平民の着ている服のようでもある。

 かっちりした貴族の服と違ってゆったりと動きやすそうなその服は、平民の着る物にしてはひらひらとした飾りが多い。

 よく見れば、所々に刺繍ししゅうも施されているようだ。

 貴族服でも平民服でもない彼の衣服……素材からして、この国の物とは少し違うような気がする。



「ここは……?」


 少年は、声を発した。

 静かな、透き通った、美しい声。

 表情を変える事なく、辺りを見回し、最後に私に視線を向けた。


 いつの間にか光は収まっていて、普段通りのモノクロの庭に戻っていた。

 彼の表情には、驚きも、不安も、何もない……美しい少年なのに、ただ無機質な表情だ。


「――ここは、王国北東部、ロイド子爵家の庭です。あなたは、どなた……?」


「……セオ」


「セオ……?」


 何だろう。

 初めて聞く名のはずなのに――何故か、その響きを、私は懐かしいと感じていた。


「セオは、どこから来たの?」


「空から」


「それは……でも、どうやって?」


「飛んできた」


 セオは、表情を動かすことなく、はっきりと答えた。悪い子ではなさそうだが、どうも要領を得ない。

 質問が途切れると、セオは黙ってしまった。私も人と話す事に慣れていないので、困惑してしまう。


「ここに、何をしに来たの?」


「まだ、わからない」


「……まだ?」


 私は首を傾げるが、答えが返ってくる気配はない。ただ、私をじっと見つめている。

 立ち去るつもりも、自分から事情を話すつもりもないようだ。


「セオのおうちは、どこにあるの? 帰れそう?」


「家は、遠いところ。しばらく帰れない」


「帰れないのね……。知り合いとか、泊まる当てとか、あるの?」


「ない」


 その返答は予想していたが、悪気もなくはっきり言い切られると、なんだか困惑してしまう。

 けれど、子爵家のマナーハウスには空き部屋もあるし、今は社交シーズンで家族も居ないから、セオを泊めてあげても混乱は起きないだろう。

 それに、困っている人を助けるのも貴族の務めだと、父が言っていたのを思い出した。


「セオ。泊まるところがないなら、うちに泊まる……?」


 セオは、頷いた。先程から全く表情が変わらず、お人形のようだ。


「じゃあ、ついてきて」


 私は立ち上がって、屋敷の方向へとセオを導く。

 セオは、大人しくついて来ているようだったが、突然、小さな声で質問をした。


「名前、なに」


「私は……自分の名が、好きじゃないの。貴方の好きなように呼んで」


「決められない。名前、ないと呼べない」


 私は立ち止まり、沈黙した。

 屋敷の人間は私をお嬢様と呼ぶし、弟や妹は姉上と呼ぶ。父と母は……ハニーと呼ぶことが多いだろうか。それ以外の人とは関わりがない。


「名前、なに」


 セオは、真っ直ぐに私を見ている。その瞳には、何の揺らぎも気遣いも見えない。

 だが、貴族とも平民ともつかず、はたまたこの国の人間かも分からないセオに、お嬢様と呼ばせるのも違う気がする。

 ――なら、仕方ないか。


「……私の名は、パステル。パステル・ロイド」


「……パステル」


「ええ。世界で一番似合わない名前よ」




 それが、私とセオの出会いだった――。


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