第2話 影の世界へ
「…ぁ」
静かな部屋。
彼の口から、か細い声が漏れる。彼がそこにへたり込んで少しの時間が経って、彼の脳が拒否していたものを、少しずつ飲み込み始めたのだ。次の瞬間、彼は腹の辺りに穴が空いた「母親」の姿を急いで確認しに行く。
「おかぁ、さん」
動かない。音がない。
時間が経ったからといって、この部屋から血の匂いが消されるわけでない。ただ「影」は違うようで、少しずつ蠢いていたそれは、小さく縮小していく。きつく、生々しい匂いが部屋を漂う。
何がなんだか分からない、ただそんな状況でも「母親」が亡き者になってしまったという事実は変わらず、幽の感情の器はその表面張力の限界を達そうとしていた。だが、それは一つの音にかき消される。
ピンポーン
インターホンだ。この時間に来る人として彼の脳裏に思い浮かぶのはただ一人、彼のクラスメイトであり、先ほど影に飲み込まれてしまった夏輝の親友「飛来 明」だ。見た目は少しチャラいが、頭の回転が速く一緒にいた年数的にも幽は信頼を寄せている。彼女ならこの状況をどうにかしてくれる、と一筋の希望を抱いたのか、幽は玄関へと走る。
ガチャ。
扉の開閉音。
「ハローちっ…え、どうしたの」
金髪で制服姿の彼女が扉を開き一番初めに驚愕したのは、幽のその有様にあった。いつもは眠そうにしており、大体なんでも面倒くさがってマイペースなのが、今はその目を見開き必死に肩を揺らしてこちらを見ている。よく見ると、手は震えており、目は涙ぐんでいる。そして、何より気になったのが、指に血がついていた。
何か彼は言葉を発しようとしているが、言葉が詰まって喋り出せないでいた。彼女は注目の的を幽から家の奥へと移す。開いたままの扉の先には、鮮血が舞っていた。だが、彼女は気にしたのはそれじゃない。
「影…?」
彼女が気にしたのは、どんどんと小さくなっていく蠢く「ナニカ」の方であった。彼女は玄関を急いで上がり、一気にリビングの方へと走っていく。そして、彼女が見たのは鮮血の部屋。蠢く黒。そして、何度があった事のある友人の母の死体。
遅れて幽が後ろへとやってきて、明の服の袖を掴み、初めて口を開く。
「夏輝が、影に…連れ去られて…」
幽は、今にも壊れてしまいそうなくらいに不安そうな顔で彼女の方を見上げる。明は耐えきれなくなり、思わず幽を抱きしめてしまう。
「辛かったね…大丈夫。後は明りんに任せて」
恐怖か、不安か、混乱からか、解放されたかのように泣き始める幽を宥めながら、彼女は自分の持っている携帯をポケットから出し、起動する。
「こちら明です。私の友人の家で『影』が発生しました。死者一名、一名行方不明、一名生存。生存者の回収をお願いします」
廊下に響く、少しの機械音が過ぎ去ると、彼女は携帯をポケットにしまい泣き止んだ幽の方へと向く。
「ねえ幽っち。影の姿を見なかった? どんな姿だった?」
「おっきい、蜘蛛」
彼は自ら発したその情報と、寝る前の記憶を合わせて、一つの事実に気づいてしまった。寝る前、自分の前に現れた蜘蛛を彼は殺したり、外に出したりもせず、家の中に逃してしまった。そして、影は生物の体を乗っ取り、暴れ始める特徴を持つという。つまり…
「僕の…せい?」
急に、目の前が暗くなった。その場に崩れ落ちる幽に、明は「えっ」という言葉を漏らしてすぐに彼を支えに入る。
「どうしたの!? 怪我してたの!?」
焦った様子でそう聞いてくる明に、彼は小さな声で答える。
「僕が、蜘蛛を逃したから、僕のせいで、僕のせいで二人が──」
そう、半分泣きながら答える幽を、再び彼女は抱きしめて黙らせた。
「お母さんは残念だったけど、まだ夏輝は死んでない」
「…そうなの」
彼女は頷き、言葉を続ける。
「そう、死んでないの」
彼女は自分の放った言葉に、何か突っ掛かりを覚えたのか、口を閉ざしてしまう。短いような長いような、数十秒の時間のあと、彼女は決心したかのように立ちあがる。
「私が夏輝を助けに行ってくるから、幽っちは後から来る人達に助けて貰ってね」
そう告げると明は笑顔を浮かべ、幽の頭を高級な硝子食器を扱うかのように、優しく撫でる。すると、彼女は人差し指に身につけていた指輪を取り、地面に叩きつけてその勢いのまま踏み潰した。悲鳴のような不気味な金属音が響く。
「な、何?」
音に敏感になってしまっている幽がその音に反応し、不安そうな表情で彼女の方を見上げる。だが、彼女は幽に柔らかい微笑みを少しだけ向けると、ゆっくりと影の方へと向かっていく。
「行ってくるね」
床をしっかりと踏み締め、蠢く影の前へと立つと、大きな深呼吸をする。そして影へと、まるでブラックホールに引き込まれるように、彼女は消えていった。幽は再び放心状態へと移行する。あまりに色々なことが起きてしまって、少し脳がパンクしている状態であった。
なぜ、人の死体を見たり親友が連れ去られたというのに、明は冷静に行動ができていたのか。というか、なぜ明は影の世界へと平然と行けたのか。彼女は「影」の対抗組織の一員なのか。浮かび来る疑問が頭の中で回転を始める。止まらないメリーゴーランドのように、ただただゆっくりと漂うそれらを、幽は一旦停止させる。そして、ある一つの事実にだけ視点を向ける。
彼は昔、学校で教師が言っていたことを思い出す。「影」の世界は危険で、影に対抗手段を持っている日本最大組織「収束点」ですら、何ヶ月も準備して大規模な計画を立てないと行かないほどの魔境と呼ばれるほどの場所という。明が何者かは分からないが、まあ兎に角そんな世界に一人で行くのは自殺行為に他ならない。
幽にとって明は家族のような存在だ。父がいない幽にとって、本当の家族は母親だけ。そして、彼は不眠症の真逆とも言える睡眠症と言うべきか、特に日中に睡魔の波が途轍もなく襲ってくるという体質を持っており、そのせいで友人は片手で数えるほどしかいない。
「たす、けなきゃ」
混沌とした感情と、睡魔にて彼の脳内は既に限界を迎えていた。睡眠を何よりも優先している彼だが、そんな自分と接してくれている存在はとても大切なものであったのだ。
ゆっくりと立ち上がり、二足歩行だか四足歩行だか、不思議な歩き方で蠢く影へと向かっていく。その目は輝きを失ったように見え、唯一ある光は頬を伝う涙だけだった。彼が見た時は部屋の半分ほどを覆っていた蠢くそれは、今やリビングのカーペットよりも小さくなっていた。腹に穴が開き血を流している母の方を少し向くと、彼は再び蠢く影の方へと体を向ける。
そして────
影の世界へと足を踏み入れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「ただいまより、乙女座討伐作戦を開始する! 総員、配置開始!」
不自然なほどの曇天の空は、晴れる気配すら見せない。重くどんよりとした空気を裂くように、男の声が響き渡る。その男のバックに聳え立つのは、天まで届くであろう無機質な見た目をした塔、その名を「東京スカイツリー」と呼ばれるものであった。荘厳とした雰囲気を纏っているそれは、低い雲を突き破り、その全貌を見ることは叶わない。だが、圧倒的な存在感がそこにはあった。
近代的な戦闘服のような者を纏った数十人の人間たちが、忙しなく動き回っている。それらは大体一律して、機関銃のようなものやSFチックな見た目をした剣を持っていたりする。しかし、一部の人間はその場の空気に合わぬラフな格好であったり、特殊な見た目の服装の者も少しだが存在していた。
ある程度の時間が経つと、十数名の人間が一つの場所に集まり始める。その中は、特殊な見た目の者も多くいた。
「…総員、配置完了。『影姫』を起動させろ」
先ほど作戦開始の合図をしていた長身の男は、腕についている連絡用機器のようなものにそう呟くと、近くにあった軍事用トラックがとてつもない轟音と共に揺れ始める。そのトラックはケーブル線によってスカイツリー内部へと繋がれており、何かが起きることを予感させる。
時間が経つとその十数人は移動を始め、スカイツリー内部へと侵入していく。その足取りは決して早くも遅くもなく、洗練されていた。ある程度進むと、その集団は四つ並ぶエレベーターの前へと立った。不自然な挙動、人がこれから入るというのに、像の歩みのようにゆっくり扉を開けたエレベーターの中へと、十数人が入っていく。中に全員が入ったのを見ると、外で待機している複数の装備を着た人間たちが敬礼をエレベーターの中へと送る。
「健闘を祈ります」
中での反応は様々で、敬礼を送り返す者や自分の武器の手入れをしているの者、無視をする者から緊張して上の空の者まで多種多様な反応が見られる。
そして、やはりゆっくりとエレベーターの扉が閉じる。
「フロア350まで、約二分五十秒です」
髪の長い女がそう報告するとエレベーターが移動を開始する。訪れるのは沈黙、エレベーター中の人間たちの呼吸音がひどく鮮明に聞こえる。
「残り三十秒」
その言葉の後、長身の男は深く呼吸をして肺に酸素を入れる。数秒後、男は闘心の感じられるしっかりとした声を響かせる。
「相手はあの『星の宿り』だ。大体のことは頭に入っているだろうが、総員心して挑め」
数人が頷き、数人が「了解」と返し、数人がその言葉を無視した。そして、エレベーターは停止した。気づけばそこは雲の中、外の景色は確認できない。
ゆっくりと、ゆっくりと、牛歩のようにエレベーターは開いていく。少しずつ、景色が見えていく。
「突入作戦、開始!」
日本最大の組織『収束点』による『星の宿り』が一角、乙女座-ヴァルゴ-の討伐作戦が、開始された。
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