表裏東京23

雨の降り頻る

第1話 忍び寄る影

 散乱した瓦礫と、倒壊した建物の跡。傾いた電柱に、地面に落ちた信号機。まるで終末世界ともいえる光景の周りには、蛍のような暗闇に煌めく光のない、鉄の巨人如きビル群が聳え立っていた。


冷えた夜。


 お天道様の代わりに暗闇を満たす文明の象徴は存在しないのにも関わらず、空に浮かぶのは兎は一匹だけである。月下の元に、照らされる二つの影があった。一つは、紅の如き髪色と整った顔立ちをした女であり、それはもう一つの影、赤ん坊を手に持っている。


「これは、君のかい?」


 その女の呟きに応えるものは誰もいない。だが、なぜか満足したような表情を浮かべた女は暗い空を見上げる。


───そこには、煌めきが映っていた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


『速報です。世田谷区下北沢駅前にてフェーズ2の「影」が出現しました。周辺住民の皆さんは決して外出はせず、自宅や施設内に逃げてください。繰り返します…』


「最近、多いね」


 小ぶりな大きさのテレビから流れる情報に、黒髪の少女が反応をする。


「ぅん? ひょうだねぇ」


 シャーペンをノートに左右に動かし続けている少女と対照に、黒髪の少年は机に伏しながらそう答えた。


「ってちょっと、寝ないでよ幽くん。次のテストほんとに赤点取っちゃうよ?」


「あと10年だけ寝させてぇ…」


「それほぼ死んでるよ」


 他愛のない会話を繰り返す二人は、現在来たる期末テストへと勉強会を開いていた。まあ実態としては少年、幽の家で少女がただ勉強をするというものなのだが。


『また、今回の「影」は猫の姿をしているとの情報も入ってきています。もし外に猫らしき生き物がいた際には、十分気をつけてください』


「猫、か。家猫なのかな。もしそうだったら、急に自分の飼い猫が影に取り憑かれて、暴れ始めるってなんか嫌だよね」


「…」


「寝てるし」


 一応、一時間ほどは幽も睡魔と戦いながら勉強してきているのだ。少女も鬼ではない。そのまま彼を寝かせたまま、少女は勉強を続けた。


 エアコンとテレビと音が流れる、涼しい部屋。シャーペンの音が、不規則的に響いている。ある程度時間が経つと、少女は息抜きにと近くに置いてあったお茶を飲み、窓の外へと視界を向ける。外では太陽が燦々と照りつけ、まるでドラゴンの息吹のように熱い熱風が、世界を支配している。


「あー暑いだろうなぁ…って──きゃあ!?」


 突然悲鳴をあげた少女に反応し、睡眠中であった幽も顔を上げる。


「…んー、どうしたの夏輝」


 目を擦りながらそう質問してくる幽に、少女、夏輝が何か恐ろしいものを指すように指を窓の方へと向けた。そこには毛の生えた六本足の黒き体躯を持つ、悍ましい悪魔…にしては、少し小さい生物がいた。


「いや、蜘蛛じゃん」


「蜘蛛無理なの!」


 ビヨーンと糸にぶら下がり、床の方へと降りてくる蜘蛛はさながら映画のスターだろうか。海を越えた大陸の少年少女たちならもしかしたらかっこいいと思ったかもしれない。


 だが、彼女はその蜘蛛の行動に伴い部屋の隅へと避難した。


「もう、大袈裟すぎ」


 面倒くさそうにため息を吐くと、重そうな腰をゆっくりと上げる。そして蜘蛛を何の抵抗もなしに掴み上げると、ドアを開け家の廊下の方へと逃した。


「え、え、外に逃さないの?」


「いや、なんか子供のゴキブリ食べてくれるらしいし」


 反対している、と言わんばかりの熱い視線を送っている夏輝を無視し、また幽は机へと突っ伏した。


『ここでニュースです。先ほどお送りした、世田谷区下北沢駅前に現れた猫型の「影」は無事討伐されたと情報が入りました。今回の出現により死者3名、重傷者…』


「良かった、これで明ちゃんも直ぐ来れるかな」


「ん? 明りん来るの?」


「もー言ったじゃん。今日は三人で勉強会だよ?」


 明とは夏輝の親友であり、幽と同じクラスの少女である。


「そっかー…じゃあ明りん来るまで寝るね」


「なんでそうなるの」


 そう言って幽は重そうな瞼を再び閉じた。はぁ、と溜息を吐く夏輝。


「じゃあ、私は下で幽くんのお母さんと話してくるね」


 彼女は虫は苦手だが、それ以外は優秀なのだ。今日は焦げてしまうほど暑い日であったので、早くエアコンの効いた涼しい部屋へ行くべく、お土産だけ渡してすぐに上がってしまったのである。三時間近く勉強をして体も冷え切ったので、息抜きも兼ねて彼女は幽の母と話し関係を深めるべく、下の階へと向かう。


「いってらっはーい」


 彼の暗い視界の中で、ガチャ、とだけ音が二回鳴ったことを確認すると、彼の意識は朦朧になっていく。


 底なしの黒、と表すには少し青みがかっている世界、深海とでも言えば良いだろうか。落ちていく、抗えぬ感覚に彼は身を任せながら、そのまま彼は夢に漂う漂流物となった。


◆◇◆◇◆◇◆◇


「…ぁれ」


 まるで自分の上にダンベルが乗っていると錯覚するような重い体を、彼はゆっくりと起こす。窓に視界を向けると、まだ明るい。だが、部屋の電気とテレビはプッツリと消えていた。夏輝が気を利かせて消してくれたんだろう、そう判断したと同時に、彼は自身の喉を押さえた。


「喉乾いたな」


 そう呟くと、ノソノソと扉の方へと向かっていく。開閉音と共に眩しい光がを包み込む。二階建ての家であるため、冷蔵庫があるキッチンまでは階段を降りていかなければならない。


ギィ、ギィ、と床の音がする。


「───きゃぁ!?」


 下の階からか、こもった声の悲鳴が聞こえた。良く耳を澄ませてみると、夏輝の声のものであったので、また蜘蛛か何かが出たのだろうと思い、彼は階段を下って行く。


 すると、とてつもなく大きな音が頭に響く。頭の中に響くような音であったので、彼の意識も急激に覚め、何が起きたのかと思考を開始する。取り敢えず下にいるであろう母と夏輝の元へ行こうと急いで階段を降りると、少し長い廊下を早歩きで進んで、リビングのドアを開ける。


ガチャ


扉の開閉音。


「どうし───ぇ?」


赤、黒。


 雪のように白く開放的な空間のはずだったそのリビングの壁は、飛び散った鮮血によって紅に彩られていた。床もカーテンもソファーも同じく、血生臭いトッピングの飾り付けがされている。また、一部の壁は血の黒とは言い合わされないほどの深い黒の「ナニカ」に覆われており、波のように蠢いている。


 そして、そこには毛の生えた六本足の黒い体躯を持つ、悍ましい悪魔がいた。3〜4mになるだろうか、それは巨大な蜘蛛だった。その前足には、紅のガントレットが嵌められており、直ぐ近くには体に穴が開いた母親の姿があった。


「はぇ、ぇ…」


 驚愕の現実のものとは思えない光景を目にし、彼はその場にへたり込んでしまった。元々ある程度醒めていた視界は、更にクリーンに、鮮明に開けていき、その光景を一つの迷いなく記憶していく。


 するとその巨大な蜘蛛は少しずつ部屋に広がる漆黒、影のような蠢く何かに身を寄せていく。段々と飲み込まれていくその体に生えている一つの足に、少女が握られていた。


「なつ…き?」


 ゆっくりと、かつ、確実に彼女の体は蜘蛛の足と共に影へと消えていく。夏輝は気絶しているようで、まるで眠り姫のように目を閉じて、なんの表情も浮かべていない。


「ま、って」


 消えゆく少女に思わず幽は手を伸ばすが、届くことはない。太陽にいくら手を伸ばしても届かぬように、それはいずれ夜へと変わっていった。


静寂が訪れる。


 先ほどまでのことがなかったかのように、世界は進んでいく。外では通り過ぎる車の音が、騒がしく鳴り響く蝉の声が。


 ただただ彼は、そこにへたり込んでいた。

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