切々として不変の青

 常磐セツは『異能』体質だ。全身が水に浸かると下肢がイルカのような人魚になってしまうものだから、海やらプールやらでよく視線を集めていた。セツは目立つことが苦手だから異能のせいで目立つのは恥ずかしかったし、嫌だった。おかげで人の多い水辺で遊ぶことなんて夢のまた夢で、広々と水遊びをすることも出来やしない。

 それでも『異能』というのはワガママな体質で、時々発動させないとフラストレーションが溜まってしまう。それに悩んだセツとその両親は、数ヶ月に一度ある場所に通うようになった。それがだいたい未就学児のころ。

 ──それなりに立派なのに、何故か人気のない滝つぼ。そこにはほとんど人が来ない。園児が中学生になるまで家族が通っても一度も遭遇したことがないほどだ。毎日通えば一度くらいは会えるのかもしれないが、それでも十年近く誰とも会わなかった。


 ちゃぷんと水面が揺れる。ちいさな人魚が遊んでいるのだ。成長期に差し掛かってなおちいさいままのセツはぐんと伸びをする。かろうじて150センチに届いてはいるものの、平均的な成長からは少し遅れていた。……水中では尾びれの分伸びるので背が高い、なんて友人に強がってしまうような思春期である。からかう見上げる背丈の友人たちを思い出して、む、と眉根を寄せる。

「……ヤなこと思い出した」

 口を突き出して水に潜った。セツの両親はのんびりとそれを見守っている。それこそ歳が一桁だったころは一緒に入っていたが、思春期に入ってからはセツが断った。滝の真下には近づかないようにしているし、いつも泳いでいるところは水深も深くない。ピンと背を伸ばせば尾びれが地に触れる程度の深さである。

 水中で目を開ければ小魚が泳いでいた。それはセツの視線に気づき、慌てたように水の合間を縫って逃げ出した。うっかりもののイワナのようだった。逃げる魚に興味が湧き、セツは泳いで追いかける。……気づけば、尾びれもつかない深いところまで来ていた。

 油断した途端、セツの視界からイワナが掻き消える。暗がりを利用して上手く逃げ出したのだろうか?──いや、違う。突如現れた水流に呑まれて沈んだのだ。……その水流の中心に、何かが、居る。

「んなっ……!?」

 ごぽりと二酸化炭素が大粒の泡を成す。尾びれで水を掻き分けて逃げようとするも遅く、鋭い冷たさを帯びた何者かの爪がセツの下肢を掴んだ。それからぐんと引き寄せ、瞬く間に……深く、深く沈む。

 混乱と恐怖の中、思考ばかりがぐるぐると回っていた。どんなに逃げようとしても掴まれた尾びれは動くことすら出来ず、冷えた水底へと急速に引きずり込まれる現実。溢れた涙は、水中で境界を無くし解けゆく。


 頬を打つ水滴の感覚でセツは目を覚ました。続いて感じるのは背部の冷たさとごつごつとした岩の感覚。全身にじんわりとした痛みを覚えながら起き上がれば、どこかの洞窟だろうことが見てとれた。随分奥まったところにセツの身体は横たえられているようで、そよ風の吹く方から微かに光が差し込んでいる。おかげで、多少は目が利いた。

「ここ……ぼく、どうして……」

 ぐるぐる回る思考はまとまらず、上手く記憶を呼び覚ませない。諦めて自分の姿を確認すると、下肢はイルカのままで戻っていなかった。どうやら洞窟内部の水気が多いせいか人の姿に戻れないようだった。

 恐れ混じりに周囲を見渡し、セツはあることに気がついた。洞窟の奥、一際大きな岩陰に何かが隠れている。時々動いているそれは生物のようで、ぬらりとした青色がうごめく。好奇心が首をもたげて、恐怖を呑み込んだ。

「……きみがぼくを引きずり込んだのか?」

「!!」

 返事は無い。言葉が通じないのかとも思ったが、言葉の代わりに大きく跳ねた青色が肯定を匂わせていた。どうやら犯人らしきそれに言葉は通じるようだった。

「こっち来てよ。どうせぼくは逃げられないんだし……というかなんできみが怯えるのさ」

「……ギィイ……」

 低いイルカのような声がする。生憎とセツはエコロケーションの異能は持ってないからわからないが、それでも雰囲気からしておどおどとしているようだった。自分で引きずり込んだんじゃないのか、と疑問を抱いてからセツはため息を吐く。それから、意を決した。

「きみが来ないなら、ぼくから行くよ」

「ギュッ!?」

 ずるずると洞窟の岩肌を這う。侵蝕や風化、水気と好奇心のお陰でさほど痛まずに奥の方へとセツは向かえた。到底優雅なイルカとは言えないが、こうでもしないと何も現状が変わりそうになかったのだ。

 驚いているのか、青色の存在……いや、異形は隠れこそすれ逃げもしなかった。そもそもその場以上に逃げる場所が無かったのかもしれないが、ともかく岩陰からセツをじぃと見、やがて観念したのだろう、それは全身をあらわにした。……セツは思わず、息を飲む。

「──きれいだ」

 呟いてセツは低みから首を精一杯伸ばした。ゆうくりとその異形も長い首を下げセツに顔を寄せる。──牡鹿のように角の生えた頭が、呼吸の交わりそうな距離にあった。ごり、と角先が岩肌に触れる音がする。

 セツから見て、それは「青い」としか表現のしようがなかった。四つ足をした全身の表皮は両生類のようにぬらぬらとしており、その体躯の細長い足元には長々とした爬虫類の尾がうねっている。それはどこかツチノコのような愛らしさを思わせたが……その思い以上に恐ろしさを覚えさせるのは、猛禽類を思わせる鋭い鉤爪を持った四肢だった。光を弾く青くしなやかな肉体の中で、大ぶりな瑠璃色の角と白縹の爪がよく目立つ。

 カツンと鉤爪が岩を叩いた。座ってなお2メートルはあろうかというそれは精一杯に首を降ろし、セツと視線を合わせようとする。偶然セツに触れたその鼻先はあまりに冷たく、冬の水のようで。ぱちぱち目を瞬かせセツは問う。

「……名前は?」

「ギ……」

「えーっと……無いのかな」

「ギウウッ」

 どうやら正解らしい。有無を問うてあからさまにしょぼくれた表情が、無いのかという問いに明るくなった。妙に表情豊かな牡鹿頭に、セツは絆されるような心地を覚える。見目は恐ろしいのに不思議なくらい懐っこいのだ。

「うーん……そうだな、『ニキ』なんてどう?ずっときみ呼びだなんて味気ないしさ」

「ニキ?」

「えっ、……もしかして喋れるのか?……それとも、そんなに名前気に入ったってこと?」

「気ニ入ッタ!」

「結構しっかり喋るなあ」

 感嘆にも苦笑にも似た声を上げ、セツはそうっと両手を青色──ニキと名付けた異形──の身体に触れさせた。岩肌よりもひんやりとした感覚に体温が奪われるが、次第に異なる温度が混ざりあって同じ熱を持つ。

 セツは首を傾げる。急に喋れるようになったのか、それとも最初から喋れたのかはわからない。とはいえ意思の疎通が楽になったなあ、と呑気に考える。自分を引きずり込んだ存在だというのに、毒気が抜かれるような懐っこさをしているせいだ。

「ニキは、いつからここに居るの?」

「ズット」

「ずっと……ってどのくらい?」

「イッパイ」

 そっかあ。気の抜けた返事をしつつ、少し考える。セツの生きる世界には異形や怪奇現象が現れるから、きっとその類のひとつなのだろう、と幼い頭でも察しが着いた。妙に話が通じないのもそういった存在であると言うなら頷ける。というよりはそれ以外に考えられそうになかった。

「セツ、温カイ」

「そういうニキはちょっと冷たいよ。気持ちいいけどさ」

 笑ってセツは擦り寄る。ニキの頭よりかはやわらかい身体は触れ心地が良くて、思わず全身を任せてしまうほどだった。長いニキの尾がセツを抱き込むように巻き付く。

「ニキ、ここは他に誰か来たことある?」

「ウウン。セツガ、初メテ」

「そ、っか。……それはすごく、さみしそうだね」

「サミシイ?」

「そう。さみしいっていうのはね、ひとりぼっちだと現れるんだ。無い方がいいんだろうけど、でも、大切な感情なんだよ」

 答えてからはにかみ「この間読んだ本の受け売りだけどさ」とセツは続けた。存在しない方が良いと思える感情にも必要とされる意味があるとかいう、なんだか小難しい本だった気がする。その中で唯一、さみしさについての記述だけが頭に残っていた。

 ……それからいくらか話し込んで、セツはすっかり恐怖を失くしたように振る舞った。実際おおよそは失くしてしまっていたし、自分に危害を加えようとする素振りを見せなかったから──油断していたのだ。

「……セツ」

「……?どうかしたの、ニキ」

「ネエ──」

「ッ……!?」

 ぴたり。冷ややかな爪先が首筋に触れた。血の凍るような怖気が瞬く間に駆け上がり、緩んだ頬が瞬く間に強ばる。静かに頬を滑ったその切っ先がセツの皮膚を裂き、ツゥ、と一筋の赤を流した。

「セツハ、ボクト一緒ニ、居テクレル?」

「え、なん、の、はなし……?」

「モウ、さみしい思イナンテ、シタクナイ。……ヒトリハさみしいッテ、セツ、教エテクレタ。ダカラ、一緒、居テクレル、ヨネ」

「急にそんなこと言われても!ッ、……やめろ、って……!」

 食い込む鋭さに焦燥が走り、セツは震える手を爪先に重ねる。恐怖と痛みで瞳から雫が溢れて、首に伝う赤と混ざって透明に滲んだ。魚の尾びれでは、逃げられない。

「ネエ。……セツ、聞イテル?……セツ、セツ……ネエ、オネガイ……一緒ニ、居テ、クレル?」

「……ニ、キ……?いたっ」

 ニキは顔を寄せ、ごつんと額を擦り合わせた。数センチ先にまで迫る夜明けのような群青の瞳にコバルトの水面が張って、未知に包まれる海淵のようで。ゆらゆらとした水面が今にも溢れそうなほど、めいいっぱい見開かれた眼の奥には寂寞が見えた。

 何かが胸を打つ感覚がする。それはきっと、孤独な怪物への哀れみなのだろうと容易に察しがついた。頭角を現した理解及ばぬ存在への恐ろしさが哀れみで融和していく。だからセツは務めて優しい声音で、なだめるように声をかけた。

「……ニキ、ねえ、ぼくの話聞いてくれる?」

「ウン。セツノ話ナラ、聞クヨ」

「ありがと。……あのね、今ここでぼくが受け入れて、ニキと一緒にいても……ずっとは、一緒に居られないんだ。だってぼくがいきなり消えたら父さんも母さんも心配するし探しに来ると思う。そしたら騒がしくなってニキとゆっくりなんてできないでしょ」

 はやる気持ちが現れるように言葉が溢れた。同情も哀れみもあるのに、言葉尻に恐怖が顔を出す。誤魔化すような早口にどうか気づかないでと、内心で祈りを混ぜた。

「セツト、今ノママジャ……一緒ニ、居ラレナイ? 」

「そ、そう!そういうこと!だからさ、ぼく、大人になったらまた来るよ。独り立ちして、父さんと母さんに心配されないくらいの大人になったらまた来る。だからさ、待っててよ、ニキ。……あと……十年とちょっとくらい、あるけど」

「…………ジュウネン……ヨリモ、少シ長イ……」

 牡鹿頭の眉間に皺が寄る。まるで人間らしいその仕草にいくらか恐怖が解れて、ちゅう、とセツはその皺に口付けた。驚いたようにニキが群青の眼を見開く。大粒の青い涙がひとつ零れて、それを最後にぴたりと止まった。

「……約束のキス、みたいな?ぼく、絶対約束は守るからさ、安心してよ」

「ン……ウン、ワカッタ。セツノコト、信ジル」

 かぷりとやわく頬を噛まれる。丸みを帯びた歯は痛みを感じさせず、なんとなく挟まれているだけの不思議な感覚。

 次いでべろりと首筋が舐められた。くすぐったさと唐突な生々しい肉の質感にセツは小さく悲鳴をあげる。……どうやら先ほど流れた血を舐め取られたらしい。びっくりした、と息を吐く。

「……じゃあさ、帰ってもいい……かな?あんまり遅くなると、本当に心配されちゃう」

「イイ、ヨ。……デモ、コレ、持ッテイッテ。オ守リ」

「お守り?って、うわっ、わっ!?」

 ガンッと剥き出しの岩肌に勢いよくニキの角がぶつけられる。反響音で脳が揺れそうなほど思い切りぶつけられたそれに目を白黒させているセツの前に、ニキは瑠璃色の欠片を摘んで差し出した。岩肌にぶつけたことで生まれた、欠けたニキの角だ。

「コレ、ズット持ッテテ」

「わ、わかったけど……びっくりするだろ、ニキ」

「ゴメンネ」

 反射的に欠片を受け取れば甘えるように首筋に牡鹿頭が寄せられる。口では申し訳なさそうだが、ゆらゆらと左右に揺れる尻尾は喜ぶ犬のようで。……犬か猫なら犬だよなあ、とやや現実逃避じみた感想がセツに浮かぶ。

 ──瞬間、だった。与えられた欠片が輝き、一瞬で視界が白く染められる。そのあまりの光に悲鳴もあげられないままセツは目を閉じ……そしてそのまま、意識を失った。がくんと落ちた首を支えるように鋭いニキの手が添えられる。

 白い世界の中でセツが最後に見上げた景色は、さみしげな青だった。


「……久しぶりに来たな、ここ」

 ぽつりと呟いておおきな人魚は滝を見上げた。十数年前に来た限り、とんと訪れることの無くなった懐かしの滝つぼ。両親曰く水難事故に遭いかけて来なくなったらしいのだが、肝心要のその記憶がセツには無かった。その代わりに、胸にぽっかりと穴の空いたようなさみしさが巣食っている。大切な記憶を失ったような、特別な出会いを忘れてしまったような、そんなさみしさ。

 いつぞやから……それこそ水難事故に遭ったとされる時期から持ち始めた瑠璃色のペンダントをつけているときは、さほどさみしさに魘されることもないのでいつもつけっぱなしなのだが。

 ぐるりと水に浸かって弧を描く。かつては辛うじて尾びれの先端が砂利を掻く程度の水深だったのに、今ではすっかり尾びれが全部触れてしまう現実。伸びた背丈に見る時の流れに、余計にさみしさが募った。

 最後に訪れた記憶──といっても水難事故に遭ったとされる日の数ヶ月前──の時には随分小さくて、まだまだ両親の庇護下にある子どもだった。今では社会人になって片手ほどの歳が経ち、それなりに一人暮らしも板に付いてきたと言うところでここに来たのだ。

 何故、と考えてもわからない。ただ胸に空いた空白を満たしたくて、しばらく行っていなかった滝つぼを思い出したから泳ぎに来た、という衝動だけのこと。

「奥の方は、もうちょっと深いかな」

 一人分の声が瀑声に掻き消される。かつては「危ないから行ってはいけない」と念を押されていたそこも、今ならば行けるだろうと好奇心と何かに導かれるような錯覚に任せて泳ぎ寄る。

 イルカの尾びれが水を上下に叩いて進み、やがて滝しぶきすら浴びるほどの距離まで来た。ここまで来てしまえば尾びれもほぼ地に触れず、さすがに不安定さに恐ろしさも覚える。……けれども、何かがその奥からセツを呼んでいるような感覚がした。

 刹那、水面が不自然に揺らめく。

「……何か、いるのか?」

 セツの問い掛けに応えるものはいない。けれどその代わりに──水中から、巨大な魚影のようなものが這い上がってくる。

 ペンダントをぎゅうと握って、いっそ息すら殺して。逃げようとする本能とその姿を見たいという好奇心がせめぎ合って、瑠璃色を握る手に力が篭もる。……緊張した時はいつでも同じようにペンダントを握っている、その癖だ。

「────」

 瀑声すら聞こえなくなるほど、その邂逅に意識を奪われる。静かに姿を表したそれは青い牡鹿のような頭で、ゆるりと閉じられた瞼が開かれれば群青の夜明けがセツを見ていた。陽の光を弾いて、体躯に宿る無限の青を魅せる。

 言葉を失くしてセツはぼんやりとその顕現を見つめていた。逃げることも出来ず……いや、考えもせずにそれを見上げる。容易にセツを見下せる程の異形は静かに頭を垂れ、こつんと鼻先を額に当てた。やや骨ばったものが触れる感覚に、ようやっとセツは水に浮かんでいたような意識を立て直す。

「……きれい、だ」

 辛うじて絞り出した言葉はあまりにも惚れ惚れとしていて、それに思わず異形が微笑んだような気がした。驚かせないためか、はたまた恐ろしく思わせないためか。至って穏やかに囁く。

「──約束、守リニ来タヨ、セツ」

 切なげな声とともに細長い双腕が伸ばされて、壊れ物でも扱うように腕の中に収められて。……そのまま静かに、水の中へ引き込まれる。それに抵抗もせず、セツはそうっと両腕を青い首に回し尾びれすらぴったりと寄り添わせ、目を閉じた。

 冷ややかな水の中で熱に浮かされたような、そんな心地だった。


 底すら無いような無限の落下感覚。酸素の足りない身体は浮かぶことなく、ただ重力に従って沈み続ける。だというのに呼吸ばかりは非常に楽で、まるでそこが本来あるべき場所だったかのような息のしやすさ。口端から少しずつ小さな泡が溢れて、最後にひとつ、がぽりと大きな泡を吐き出した。酸素の群れが遥か遠くの青空を目指して昇る。

 見上げる太陽の眩さに目を細めながら、ぱちんと吐き出した泡沫が弾けて。……水底の青さに閉じ込められていた幼い記憶が、溢れ出す。

 初めて異形と出会ったこと。その異形にニキと名をつけたこと。記憶の奔流に揉まれ、ペンダントを握り締める。淡く輝くその光が、いつかのように白く視界を塗りつぶしてセツの意識を奪い去った。

 

 頬を打つ水滴の感覚でセツは目を覚ます。あ、デジャビュ、なんて現実逃避をひとつまみ。イルカのままの下肢も、ごつごつとした岩肌も、現在地から遠い洞窟の入口も、すぐそこの最奥部にある岩陰に隠れたつもりのニキの姿も、何もかも覚えがあった。今思い出したのだ。

「ニーキぃ?」

「ギ……」

「言葉忘れたフリしてもダメだ。さっきちゃんと喋ってたの忘れてないからな」

「忘レテヨ」

「忘れません」

 少しだけ鋭い声。軽く言葉を返しながら身体の震えを誤魔化す。……大人になればなるほど未知への恐ろしさは増えて、かつては好奇心に呑まれた恐怖も今は確かに恐ろしさとして好奇心を踏んでいた。再会に浮かされた熱よりも理性が警鐘を鳴らす。

 イルカの人魚が岩肌を這う。なんともみっともない様相ではあるが、こうでもしないと動

けないのだ。かつてと違って皮膚が擦れて熱を持ち、少し痛い。

 それを気遣ってかニキが姿をあらわにする。おずおずと首を寄せ、青い牡鹿頭をセツの顔へと近づける。……その隙を、見逃す訳もなく。

「それ、捕まえた」

「ウワッ!?」

 ぎゅうっと力強く捕まえられ、ニキは思わず首を振りかける。……が、己ではセツを振り回してしまいそうだと気づいたのだろう。ぶるりと背筋を震わせるだけに留まった。

 岩を蹴ったせいかやや下肢が痛いが、それよりも今はこの状況をどうにかすべきだろうとセツは考える。自由な仕草で誤魔化しているが、実際身体は震えているのだ。目の前の存在が自分と全く違う存在だと理解してしまったせいで。

「ネエ、降リテヨ、セツ」

「ええ?……仕方ないな」

 困ったようなニキの声に不服な返事をしつつ、ゆっくりと岩肌に近づけられた首に従ってセツは地に降りる。己が這いずった場所よりも幾分滑らかでつるつるとしているそこは、どうやらニキの寝床のようだった。

「……」

 一人と一頭の視線がぶつかり合う。どちらも怯えを孕んでいながら別々の意志を持つ瞳だ。水滴の落ちる音だけが響いて、永遠にも思えるような沈黙が広がる。

 必死に思考を回し、どうすればこの場を切り抜けられるかと策を練る。約束を破りたいわけじゃない。ニキを悲しませたいわけでも、さみしい思いをさせたい訳でもない。ただそれ以上に、この場への恐怖が勝っているだけで。いくら「悪い存在」ではないとわかっていたとしても、鋭い爪を持つ異形の巨躯は人間に恐ろしさを見せるのだ。

「セツ」

「ッ……!」

 先に沈黙を破ったのは、ニキだった。縋るような声で人の名を呼び、鋭い爪先をいつかのようにセツの首筋へとあてがう。……力加減を覚えたのか、血は流れない。

 切っ先の冷たさに身体を震わせ、けれど視線を外すことなくセツはニキを見やった。夜明けの群青にコバルトの水面が張り詰めて──とうとう、溢れ出した。いつかの記憶と同じだった。切なげに言葉が紡がれる。

「セツ、セツ……モウ、さみしいノハ、イヤ。ネエ、セツ、今度ハ……一緒ニ、居テクレル?」

「……当たり前だよ」

 穏やかに微笑んでセツは両腕を伸ばした。驚いたように見開かれた群青から大粒の涙が溢れるのを確かに見つつ、その腕の中に牡鹿頭を収めた。いつかに欠けたツノのあたりを、そろりと撫でる。その一部だけが妙に真新しい色をしていた。

 様々に巡らせた思考を全て放棄し、ただこの哀れな存在への同情を取る。愛すら混ざるその情を向け、静かにその願いをセツは受け入れた。

 ……ただ、素直に言いなりになるのも癪というか、そもそもあまり解決になってないような気がした。成人男性の行方不明ともなれば警察はあまり動かないかもしれないが、それを抜いてもこんな場所で人間たる自分自身が長生き出来る気なんてさらさらしなかった。幼い頃の言い訳を思い出す。

「ニキはさ、ここに居たいか?」

「……ドウイウ……コト……?」

「俺と一緒に人間社会で暮らさないかってこと。俺人間だからさ、ここで暮らしてもそんなに長生きできないよ?」

「エッ!?」

 驚いたニキの声が妙に響いた。途端におろおろと不安そうにし始めるのが面白くて笑みを浮かべながら、セツは続ける。

「だからさ、一緒に俺と暮らそう。ここよりうんと騒がしいけど、色んなものもあるし……俺もニキと一緒に色んなところ出かけたいし。どう?」

「行ク!セツ、長生キシテ。早死ニハダメ」

「あ、そっち?」

 苦笑を浮かべつつ、随分愛されているというか、大変気に入られているようだとセツは照れくさい感情を覚えた。どうやら最初の提案の時点で答えは既に決まっているようなものだったらしい。

 ぱたぱたと揺れる尾を視界の端に留め、やっぱり犬のようだとぼんやり思う。犬にしては随分鹿っぽい頭と鋭い四つ足だが、まあ犬じゃないしいいだろう。少し現実逃避じみた考えをしつつ、あっ、とセツは声を上げた。

「ニキ、ちいさくなれたりしないか?出来れば俺の手のひらくらいまで……その大きさだとすごく目立つというか、俺の家に入り切らないというか……」

「チイサク?……コウ?」

「おお、すご……」

 するするとニキの姿が解け、縮む。数秒の間にすっかりちいさくなり、デフォルメされたぬいぐるみのようなニキが現れた。……想定よりもだいぶちいさいというか愛らしい姿ではあるが、これで連れ歩きも容易になるというもの。

 セツは手を差を差し伸べ、ちいさなニキはその上に乗る。中々無い「誰かに持ち上げられる」という感覚に気を良くしたのか、ギュゥと鳴いて温もりのある手に擦り寄った。甘えた様子に自然とセツの顔もほころぶ。

「じゃあ、えーと……行こうか」

「ウン。運ブヨ」

「ほんと?ありがとう、ニキ」

 ちいさくなるさまを逆回しにしたようにして、あっという間にニキは先程までの大きさに戻り首を下げた。それに腕を回し、背中に転がるようにしてセツはしがみつく。……背に跨るにしては、どうしてもイルカの下肢では難しかった。

 洞窟の、光差す方へとニキは歩む。そちらに近づけば近づくほど瀑声が響き、水気が濃くなり静寂が自然の音に変わる。陽の明るさで視界が白んだが、ふたりならばなにも恐ろしいことはなかった。



 生物は自身と異なる存在を疎む傾向にある、というのは不変の理だった。そうやって賢しく命を繋いできた生命の中、文明を築き今や地上の大抵を支配下に置く人間という存在はその象徴のようでもある。──だから人々は異形と呼んで彼らを隔絶したし、時には迫害すらした。言葉が通じないから、脅威たりえるから、見目が違うからと様々な理由をつけて。

「セツ」

 名を呼んで、鋭い爪を持った手が人間の首筋へと伸ばされる。それを受け入れ、いっそするりと頬を寄せてセツは微笑んだ。己を傷つけた切先すら今では愛おしい。硬質なそれはひやりとしていて、心地よかった。

「君の手は冷たくて気持ちがいいよ、ニキ」

 どんなに異なる姿をしていたとて、これほどまでに己を強く優しく求めてくれる指先をセツは知らない。誰かがこの関係を異端と呼ぼうともそれを恐れる気にはならなかった。胸に空いたさみしさは互いの形ですっかり埋められているから、余計に。

 眼前では群青の瞳が静かに見つめていて。それを受け入れるように瞼を下ろして、セツもまたニキを求めて両腕を伸ばした。おとなしく納まる大きな青に微笑を浮かべた。ずっとこうしていられれば静かに水底へ沈んでゆけるような錯覚すら覚えて、このさみしい世界から隔絶されることは幸せのようにも思えて。

 たとえ世界が別つとも、君とふたりならどこまでも沈むことが出来るのだ。

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