町役場(雰囲気ホラー)
私の住んでいる町には奇妙な決まりがあるのです。町といっても、若者のほとんどは都心へと出払ってしまった、古びたコンクリートの冷たさがやけにさみしい場所でした。
そこの町役場で勤める私は、この町の中でも随分若い方です。その上元々は町の外から来たものですから、子や孫が町を出て行ってしまって久しいような、話相手の少ないおじいさんおばあさんによく可愛がられていました。それが気恥ずかしくもあり、どことなく嬉しくもありました。
さて。私が町役場の仕事に就いたときから世話をしてくれている先輩に、耳にたこができるほど言い聞かされている話があります。
「絶対に、七月の19時以降はひとりで歩いてはいけないよ。もしも帰りが19時を過ぎそうだったら、かならず僕に言いなさい。渡さないといけないものがあるからね」
しっかりと目を見て、まるで幼子にでも言い聞かせるように先輩はそう告げました。何度も何度も、しつこいぐらいに、七月になるたびにそういうのです。渡さないといけないものとはなんだろう。そうしつこく言うくらいなら、最初から渡していてくれればいいのに。ずうっとそう思っていましたが、さすがに配属されたばかりでそう伝えるのは居心地が悪くて言い出せませんでした。
そうしてようやく、ここに来てから何度目かの七月に、意を決して聞いてみました。
そうすると先輩は、ひどく苦々しい顔をして
「知らなくて済むのなら、知らないに越したことはないんだ」
と何度聞いても決まってそう返すのです。誰に聞いたとて、いちように口をそろえて同じ苦い顔をして同じことを言うものだから、なんだかその姿自体が随分不気味でした。おかげで19時の決まりを破る気にもなれなくて、気づけば数年が経過していたのです。
始めは決まりの時間が来ることにおびえこそしていたものの、そもそも19時過ぎまで残る用事がないことも多いせいで、少しずつその決まりになじみ始めていたのでした。
そんな日々の過ぎ去ったある七月のことでした。じーわじーわとセミの声がうるさくて、ごうごうとクーラーの音がよく響く役場の中でひとり、私は山のような書類を前に頭を抱えていました。
その年は町長が変わったり、町長の方針で色々と政策や取り組みが変わったりなんかして私の部署にしわ寄せが多く来ていました。私によくしてくれていた先輩は異動になって別々の部署にいたし、新しく配属された上司は「渡すもの」のことを一切口にしませんでした。そのくらい、「渡すもの」のことを疎んでいるようだったのです。
夏の悪魔というものは恐ろしくて、朝からほとんど休まずに働いていた私は、外がまだまだ明るいからとすっかり油断していたのです。18時のチャイムも聞こえないほど没頭していた結果、気づけば時計の短針は二度目の7を少し超えていました。
つまるところ、19時を過ぎてしまっていたのです。
その瞬間からあれほどうるさかったセミの鳴き声がやんだような気がして、急に部屋の温度が何度も冷え込んだような気がしました。そんなのはまったくの錯覚で、実際はうるさいくらいにセミは鳴きわめいているし、エアコンは変わらず28度を保っているのに。
帰らないと。そう思って慌てて帰り支度をしながら先輩の言葉を思い出していました。あれほど口を酸っぱくして言われた言葉ですから、一言一句変わらずに思い出すことができました。
「絶対に、七月の十九時以降はひとりで歩いてはいけないよ。もしも帰りが十九時を過ぎそうだったら、かならず僕に言いなさい。渡さないといけないものがあるからね」
スマートフォンを手に取り、先輩の電話番号に電話をかけようとして迷いが生まれました。だっていくら良くしてくれたとはいえ、今は別の部署に居る人です。
それにもうこの役場の中には私しかいないのですし、退勤後の先輩に仕事以外のことで電話をかけるのもなんだか気が引けました。上司なんてもってのほかで、わざわざ電話をかけてこの決まりのことを話題にする勇気なんて私にはちっともありませんでした。
ですから私はいくらか迷った後、誰にも連絡を取らずに家に帰ることに決めました。いくら決まり事だって言われてても、理由もわからない決まりですから、なんだかそこまで無理して守る必要もないように思えてしまったのです。七月の十九時以降はひとりで帰ったらだめだなんて、冷静に考えてみれば全然わけがわかりませんから。
「大丈夫、きっと何も起こらないから」
自分に言い聞かせるように繰り返して、それから役場を出ました。日が傾いて茜色に染まりつつある夕焼けは、なんだかすごく不気味に思えて背筋がぞわぞわと震えます。じっとりと背後から何かが見ているような錯覚がありました。
私の家は町役場から十五分ほど歩いたところにあります。ほんの十五分あるだけの道のりがなんだか長く思えました。背後になにかがついてくるようにも思いました。たいていそういう時は何もいなくて、振り返ったって意味が無いんです。でも、振り返ってなにもいないことを確認して、安心して前を向いたらナニカがいる。そういうホラー映画を見たことがあって、だから振り向いて安心することも出来ませんでした。
大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせるように心の中で唱えて、頭では明日の仕事を考えていました。必死にさんざん言い聞かされた決まりから逃げるようにしているうちに、気づけば家の前まで辿り着いていました。無事に家に帰れたことに、ようやく安堵の息が漏れました。
バッグから家の鍵を取り出す時、少しだけいやな考えがよぎりました。もしこのバッグにナニカがいたらどうしよう、とか。どんなに現実逃避をしたって決まりを破った恐れというものはひどく大きくて、なにをするにもびくびくと怯えてしまうほどです。実際はバッグの中はいつも通りだったし、鍵もいつもの場所にあったのですけど。
ようやく帰りついた家はいつにも増して静かでした。ただいまぁ、と癖のように発した言葉に返事はありません。バッグをどさりと置いて、そうそうに風呂場に向かおうとしてぴたりと手が止まりました。……風呂場とか鏡とかいうのは、ホラーの鉄板です。
いくらか迷ったあとに、今日はやめておこう、と結論を出しました。明日の朝早く起きてシャワーを浴びればいいし、今日は身体を拭くだけに留めておこう。傍から見れば笑えるほどに怯えているかもしれないけれど、悲しいことにあの奇妙な決まりを破って平然としていられるほど、私の肝は座っていませんでした。
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