第98話 学会の立ち上げ〔1〕――研究者の倫理性

「お父様、今日は私も行きます」


「父上、私もです」


 アリーシャとカーティスが私に同伴して会場に行くことになった。何の会場かといえば、学会の会場である。



 4年目の夏頃、今から2年ほど前に市販用の教科書をドジャース商会から出版したが、その数か月後に学会を設立することを国内外に知らしめた。

 経緯としては、他領や他国からの研究者たちが教科書の内容について問い合わせをしてきて、その中の意見として学会のようなものがあればいいのではないかというものがあった。

 確かに今の段階でこの世界の何を明らかにしているのか、何を私たちの共有知としているのかは、他国まで考慮するとかなり曖昧だったのは事実である。

 世界は広い。今の私たちよりも進んでいる分野もきっとあるのだろうと思う。


 ソーランド領では小さな学会のようなものはすでに作っていたが、顔なじみの人間ばかりでしかも人数は少ない。

 思い切って他国の人間も呼び込んで、それぞれの分野の成長を後押ししたいと思い、学会を立ち上げたのだった。



 社会通念として、学問は「人文科学」「社会科学」「自然科学」の3つの大きな柱を思い浮かべるが、たとえば一時期報道でも話題になった日本学術会議では「人文・社会科学」「生命科学」「理学・工学」の3つの部に大きく分けている。


 具体的には「人文・社会科学」は言語・文学、哲学、社会学、経済学などであり、「生命科学」は基礎生物学、農学、基礎医学、歯学、薬学などであり、「理学・工学」は環境学、数理科学、物理学、化学、総合工学、土木工学・建築学などであり、合わせて30もの分野がある。


 さすがにこれだけの学会を作るわけにはいかないが、最初は理学、工学方面に力を入れて、さらに医学、薬学、農学などのようにこの世界の生活と直結して、しかも緊急性の高いものは別に取り上げて組織化していった。


 ところで、理学と工学であるが、大学の学部の理学部と工学部は外から見ているとどちらも同じような学部の印象だと思われがちである。娘が高校生の時にも「理学部と工学部の違いって何?」と訊かれたことがあった。


 理学部は自然現象を理論的に考察して証明していく。化学、物理、生物、地学などの高校までの理科が思い浮かぶが、数学も入る。

 一方、工学部は自然科学の基礎研究を踏まえながら工業技術を研究したり応用したりしていく。機械工学、電気工学、土木工学など「○○工学」と呼ばれるものがある。


 英語では一般的に理学はScience、工学はEngineeringと表現されるが、エンジニアと聞けば確かにこちらの方が分かりやすい面があるかもしれない。

 ただ、「科学技術」の訳語はScience and technology であり、工学と科学と技術と科学技術との違いがまた問題となる。



 この世界では地球と比べたらいろいろと欠けた知識もあるが、一方で数学や建築、土木技術においては目を見張るものがある。

 都市でいえば上下水道システムがそれで、たとえばここにはトンネルのシールド工法がある。

 これは1818年にイギリスのマーク・イザムバード・ブルネルとトマス・コクランが特許を得たものであり、トンネルを掘り進める際にコンクリートなどで内側を固める必要があるが、それまでの間、保護をする。要は掘削とふっこうとを同時に行うのである。


 王都の上下水道にあたっては代々のソーランド公爵家がモグラの土魔法で穴を空けたが、大きく横穴を空けたなどというそんな単純なことではないし、何も考えずに地下に大穴を空けたら大変なことである。

 この工法はこの世界ではすでに500年以上前から見られる技術であるので、この意味では地球よりも早くに取り入れられている。海底トンネルもあるという話であるが、これは自然にできたという説もあるからにわかには信じられない。

 バラード王国のあるこの大陸では地震が起きることも稀であるため、隣国のカラルド国やそれ以外の国でも地下空間を有効活用している。



 今のは地下の例だが地上の例もある。

 バラード王国の王城は高層建築とは言えないが、この世界にはバベルの塔とでも呼ぶべき謎の高い塔が存在していることが確認されている。バカラも私も何度か目にしたことはあるが、どうやらこういう高い塔の内部には振り子があるという話である。


 台湾にある509mの高層ビルである台北101は、2004年には世界一の高層ビルとして話題になったが、92階と87階の間に660トンの鋼製の振り子が設置されている。

 こうした高層ビルになると地震や強風の影響を計算した上で建設がなされるが、ビルが揺れた場合にこの振り子がビルとは逆方向に揺れてビルの振動を減衰する。このような振り子をどうきゅうしんと言う。



 物体には固有振動数というものがあって、これに台風や地震の振動数が一致した場合に過剰に揺れ動くことになる。これが共振と呼ばれる現象である。

 共振の身近な例では、ブランコを漕ぐ時にブランコの固有振動数に合わせたリズムにして力を加えると上手く漕げるが、このリズムが掴めないと上手くブランコに乗れない。小学生の頃はそういう下級生が何人もいたのを思い出す。


 また、オペラ歌手はワイングラスに触れずに声だけでグラスを割ることができるという話もある。グラスの固有振動数に合わせた声を発するのである。

 そして、実際に割れた。以前にテレビ番組でその映像を観たことがある。


 この世界には地球と同じ水準かそれを上回る分野や謎の素材があるのは事実である。



 逆に電気の活用は電気エネルギーを光に変換する理論と技術はあるのに、熱や運動に変換することは少ない。

 今の段階で出来ている試作品は、正確には熱エネルギーではないが、冷蔵庫や冷暖房がある。

 仕組みとしては、冷媒と呼ばれる様々な気体をコンプレッサで圧力を加えて液体化させる。次にその液体を低圧力の場所に移動させ、一挙に気体化させると熱を奪って冷蔵庫内が冷える。その気体は熱を帯びたものであるのでこれを別の場所に移して循環させて再度液体化させる、これが冷蔵庫が冷たくなる理由である。


 音や波エネルギーではマイクロフォンやスピーカーがあり、これはカトリーナ王女の生誕祭の時にはすでに出来上がっていた。これに関しては、将来には電話の開発も視野に入れているが、いま暫く時間がかかりそうである。

 もしこの世界が戦争が頻発するような世界であったら通信環境の向上は一大発明となっただろう。そういう世界はずっと訪れないでほしいものだ。

 他にも、マイクロ波を水分子に当てて振動させて温度を上げていく電子レンジなどの開発はさらに時間がかかるだろう。


 医学のトップはアーノルドだが、物理学のトップはジュリーという女性である。彼女はさらに珍しく磁界の研究をしていた。

 この世界では磁力や磁界についてはほとんど重要視されていなかったのだが、彼女は欠かすことができないと思い、他国から招聘した。

 彼女はコイルに棒磁石を出し入れすると磁束が変化して起電力が発生するという電磁誘導現象に着目していたが、おそらく彼女が将来的にクッキングヒーターのようなものを開発することになるのだと思う。


 電気、光、熱、重力、磁力など、地球で200、300年かけて統一されてきたいくつもの系を、この数年で私は見ることができるのかもしれない。



 文系の常識といえば、テレビのクイズ番組でもよく見られるものであるが、理系の常識の一つとして、たとえば熱力学の第一法則がある。妻と娘にかつて訊いたことがあったが「馬鹿にしてんの?」と怒られたことがあった。二人とも、この手のことは知っているようだった。


 たとえば、摩擦という行為は運動エネルギーが熱エネルギーに変換されるように、エネルギーは運動や光、電気、熱や波や機械といろいろな形になりうるが、全体として眺めた時にその総量は増減しないという法則である。エネルギー保存の法則とも言う。


 まあ、この世界でも本当に総量が保たれているかというのは疑問ではある。

 レイヤーと呼べばいいのだろうか、この世界には我々には認識の出来ない場がいくつか重なっていて、その場にエネルギーが吸収されたり、魔法という現象として出てきたりする、契約はそのゲートを開く鍵である、そんな可能性はあるのかなと考えている。


 この法則についてはあまり研究されていなかったが、それぞれのエネルギーが互いに変換が可能であるという事実の方はもっと知られていなかった。

 早い段階では1年目から、地球にあったいくつかの家電製品の仕組みを研究者たちに伝え、それがどういう理論で成立し、この世界の材料でどこまで再現ができるのか、試行錯誤の日々だった。失敗作もたくさん作ったものだ。


 私の説明を最初は疑わしく思っていた開発者たちも、一つ製品ができると、「もしかして本当に可能なのか」と思い始めてきた。こうして電気というものが様々な場面に援用可能であることが周知されてきたのだった。

 課題としては大型過ぎることとエネルギーの変換効率が悪い、つまり無駄になるエネルギーが多いということであるが、これは今は仕方のないことである。



 一つひとつを挙げれば切りがないが、まずはこの世界の研究者が持っている知識や経験を統合させることが必要であり、そこから更に細分化していくことになる。

 市販用の教科書はいわば叩き台のようなものである。当然重複する分野もあるが、今のところは大きく分けて様子を見ていくしかない。


 個人的な希望でポーション学会と化粧品学会も立ち上げることにした。この二つの学会については私が会長である。ポーションについてはすでに製品化しているが、別の観点からポーションを作り替えている。


 今日はポーション学会に参加することになって、アリーシャとカーティスがついてくることになった。二人はもう市販の教科書など暗記しているくらいだから、十分に参加できるということだろう。実際、鋭い指摘をしてくる。



 国王とも話をつけて、それぞれの学会がバラード王国で開催され、年に4回程度開かれている。いずれは他国やソーランド領でも行われていくことになるだろう。


 これらの学会の主旨を理解し、好意的な反応のあった国々からは支援を受けることになり、学会員の旅費や宿泊費などを負担してもらっている。

 学会といっても1日や2日開催ではなく、多くは1週間から2週間くらいの長い日数である。ソーランド領や王都にいる研究者たちが最初に数日間集中講義をして、現段階での知の共有を図り、そしてそこから出てきた新たな疑問や仮説などを論題として議論することが多い。

 徐々に開催の日数は短くなっていったが、それでも1週間程度行われることが今の状況である。


「いやあ、もうちょっと長く開催されたら嬉しいんですけど」


 そんな声はあった。

 これだったらもういっそのこと大学のようなものを作った方がいいだろうということで、王都内やソーランド領に研究所を作った。

 だから、学会のない場合にも元の国に帰らずに日常的に研究する人々に利用されている。もちろん、今後のことを考えて危ない実験が行われることが予見される分野においては、郊外などの周囲に人がいない場所に研究所を建てている。



 問題となるのは、学会で明らかになったことをたとえば商品化することになった場合、その利益はどうするのかということである。

 これは学会や学会の知見が大きな商会や他国の政治力や権力によってねじ曲げられないことを祈念し、基本的には学会存続のために使われることで合意した。全て学会の名でレシピ登録をし、利用料が入ってくるということである。もちろん、金にならない学会においてはその限りではない。


 ただし、それぞれの学会はその成果をテキストにして、販売する権利はドジャース商会が持つことにする。

 元々発起人でもあるので、これについては目立った反対意見はなかった。それに初期投資の費用はソーランド公爵家が負担しているので、強気に乗り切った。


 したがって、市販用の教科書を学んで、更に詳しく知りたい場合には各学会が編纂しているテキストを参照して専門的に学ぶことができるようになる。

 おそらく何かを商品化するにしても、距離の関係からバラード王国内で作られることになるのだろうと思うが、このあたりの政治的に微妙な問題はいずれ外交問題となって交渉することになっていくだろう。

 資源の問題もあって、ある特定の資源を豊富に有する国があれば、その国が資源を用いて何らかの商品を生み出すことになると思う。全てがバラード王国でできることではないし、しない方がよい分野もあるだろう。



 研究者の倫理規定については1年目にソーランド領の研究者たちに言った時以上に強く言った。

 特に科学技術とその倫理の問題は地球でも明らかのように、倫理が追いついていない現実があった。倫理は往々にして揺らぐものであるが、ある知見を明らかにすることとそれを活用することとの間には簡単に飛び越えてはいけないものがある。

 特に兵器と生命に手を加える場合は慎重にならざるをえない。ダイナマイトはすでに作っているとはいえ、地球に実在したもっと凄惨な結果を生み出す兵器に比べたらまだ生やさしいものである。


 何を世に公表すべきであり公表すべきではないのか、そしてその責任をどこまで取りうるものなのか、これについてはなかなか実感のない研究者たちがいたのは事実であり、おそらく徐々に浸透していくのだろうと思う。


 とはいえ、世界に偶然出てきてしまうものもある。完全に防ぐことはできないことだろうとも思う。

 たとえば、核分裂の連鎖反応や核融合反応によって生み出るエネルギーを利用した実験であれば、地球での事例からまだ予測はつくし、押しとどめることもできそうなところはある。


 だが、この世界独自の物質は確実に存在している。たとえば、混ぜるとその化合物が軽くなる、重力に反するという不思議な物質がある。容易には信じられないが、伝説では宙に浮くということである。

 したがって、地球にはない未知の原子や分子、素粒子、あるいは魔法を元にした物質が何と結びついて兵器となっていくのかは完全には予想できない。


 それでも、できる限り研究者内の倫理の問題を外部から評価をする構造にしている。

 具体的には他の学会の専門家集団による評価になるが、これもいずれメンバーが替わっていくだろう。全てを横断する研究倫理学会のようなものも早い段階で作る必要もあると考えている。


 最初の参加者は純粋な好奇心や探究心の強い人間たちばかりであるが、これが長く続いていった場合にはいろいろと問題は生じるだろう。純粋な好奇心のみでは、やはり駄目なのである。



 今日の学会ではポーションの携帯性、つまりポーションを小型化することができないか、そういうテーマである。もっといえば、丸薬や錠剤のような形にすることが可能かということである。

 様々な観点から検証されているが、まだまだ始まったばかりである。


「しかし、アリーシャの考えでは無理があるだろう」


「いえ、お兄様こそ、その方法だと効率が悪くなります」


 こういうことを考えるのが二人も好きなのだろう、アリーシャとカーティスが兄妹という関係から研究者のそれとなる局面がある。二人にもいろんな顔ができてきたのは、寂しいことでもあり、嬉しいことである。

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